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5.哀れではある、だが面白い

 いつまでも黙ったままでいる凱健に、空斗が再度意志を伝えようとしたところで、


「言い分はよく分かった」


 突如凱健が重い口を開いた。


「だが許可はできない。猶予はやろう。一か月だ。一か月以内に山を下りろ。いい家が見つかったとでも言って弟を説得しろ。分かったな」


 そして懐から金の入った袋を取り出すや無造作に机に放り投げた。


「これだけあれば満足できる借家も見つかる」

「嫌だと言ったらどうしますか」


 決死の想いで空斗が抵抗していることは凱健にも伝わっている。だが凱健は表情を動かすことすらしなかった。


「そうだな。たとえば山賊に襲われて死ぬのと足を滑らせて湖で溺死するのとどっちがいい? 選ばせてやろう」


 ごく淡々と語っているがその目は少しも笑っていない。


「火元の不始末で焼死、というのもありだな。他には……」

「もう分かりました!」


 だん、と拳で机を力任せに叩くと空斗は席を立った。


「それ以上は聞きたくありません」


 強い苛立ちを込めて見下ろす空斗に、凱健は平然と腕を組んでみせただけだった。ただその顔には少しの疲労が見えた。


 退屈そうに双然が頬を掻く音だけが響き――やがて凱健がぽつりとつぶやいた。


「……誰もがお前のようであればいいのにな」


 意味が分からず無言で見つめてくる空斗に、凱健が苦笑いを浮かべた。


「いや。先ほどお前が言っていただろう? 憎しみのためではなく恨みを晴らすためではなく、今ある幸せを護りたい、と。ああ、その通りだよ。だが憎しみこそが己を生かす力となってしまった人間はいったいどうすればいいんだろうな」

「どういう、ことですか」


 一言で言えば――弱気。


 常に威風堂々、冷静沈着なふるまいを崩さなかった凱健が、初めて空斗の前で弱った言葉を吐いている。


「私のことでもあり応のことでもある。十番隊のことでもある。他にもいる。数ある男共のことだよ」


 名を呼ばれた瞬間、双然が小さく体を逆立てた。だがそれは一瞬のことで、「このまま座ってると眠くなるんでちょっと表出てきますね」と席を立っていなくなってしまった。


 凱健と二人きりになるという機会はこれまでなく、否が応でも空斗の緊張は増した。しかもなぜか話が終わらなそうな雰囲気になってしまっている。


 そこで空斗は勇気を振り絞り、もっとも触れやすい十番隊について尋ねた。


「十番隊がどうかしたんですか」


 零央の十番隊がごろつき共の集まりだということは、ここに住んで半年立たない空斗でも知っている。遠目から見かけたことが数回あるが、自ら近づきたくない類の人種ばかりで構成された集団、それが零央の十番隊なのだ。


 案の定、凱健が物騒なことを言い出した。


「報復をしたんだよ」

「報復?」

「お前も知っているだろう。夏に隊長の毛が恥をかいた一件のことを」

「噂は聞いています。でもあれはだいぶ前の話ですよね」

「そこが面白くもあり哀れでもあるな。あいつらにとっては恥を雪ぐことは重要なことなんだ。だが強い奴にくってかかる度胸はさらさらない。そのつり合いがとれていたから今まで何も起こらなかったんだが……」


 滅多に世間話などしない凱健が饒舌に語る様からして、その一件が大きな事件であることは空斗にも察せられた。


 つい先ほどまで凱健に感じていた強い反発心はするするとしぼんでいき、気づけば空斗は話に引き込まれていた。


「妻がな、行方不明なんだそうだ」


 話が大きく飛び、空斗は束の間理解できなかった。だが少し考えれば分かった。十番隊によって報復された男がいて、その男の妻が行方不明なのだ、と。


「しかもその女、妊婦なんだそうだ」


 ひゅっと、空斗の喉が奥の方で小さく鳴った。軽く目も見開かれた。だが己の語りの方に意識が集中していた凱健はその変化にどのような意味があるのかまでは気が回らなかったようだ。


「その男のことはこの街に来てからずっと注視していたんだよ。あの毛を倒したという男、気にならないわけがないだろう? 一度応が手合わせを願ったが、まあなかなか腕の立つ男らしい」


 凱健の言い方は上の者が下の者を評価する類のものだが、それはこの男が己の腕に自信があるからだ。御史台に長年勤めてきた経験から、他者の力量を測る能力にも長けているのである。


「言っていなかったがね、私は複数の人間の捜索を命じられているんだよ。あの芯国人だけではなく」


 凱健が皺の寄った眉間を親指と人差し指で強く押さえた。そして目を閉じた。そうすると凱健が今非常に悩み苦労していることがはっきりと分かった。


 話が本筋からどんどんずれていく。しかしそれを指摘できるような雰囲気ではない。


「特に私は八年前に開陽から逃亡した武官を探していてね。もう八年もだ、八年もの間探し続けているんだよ。今年に入ってようやくこのあたりに数名隠れ潜んでいることを突き止めたんだが……まだ一人しか捕縛できていない」

「八年前……」


 空斗は武官に就いて三年ほどで、凱健の言う八年前に何があったのかまったく見当がつかなかった。


「夏に環屋で妓女が殺された事件があっただろう」


 話はまた飛躍した。


「犯人はその捜していた武官の一人だったんだよ。近衛軍第一隊の武官だ」

「こ、近衛軍?! しかも第一隊ですか!」


 ここにきてようやく驚愕を示した空斗に、凱健は複雑な笑みを見せた。


「正確には元武官だがな」

「……そんなことってあるんですね」


 空斗が思わずといった感じで深いため息をついた。


 それは空斗の有する倫理、常識にはそぐわない暴露だったからだ。


 開陽に住む武官、つまり禁軍の武官は武力を公的なことにしか利用しない。そのように徹底されているのだ。自らの体や能力、知識がその他大勢にとっては凶器となり恐怖となることを十二分に理解しているからである。


 近衛軍第一隊といえば、それこそそのような不祥事を犯すような面々は配属されないはずなのである。武芸の腕だけではなく知力体力精神力、どれもが人並み以上でなければ入隊できない、この国随一の集団であるからだ。


「面白いだろう? あの近衛軍第一隊の武官でもそこまで堕落できてしまうんだからな。しかもこの街の十番隊とやったことはなんら変わってはいない。哀れではある、だが面白い」


 複雑な感情にとらわれた空斗は何も言えないでいる。


「その元武官を当時環屋の用心棒をしていた男が倒している」

「それは……すごいですね」


 ありきたりなことだが空斗はようやく意味のあることを言えた。


 どのくらい武芸から離れていたかは知らないが、あの最強の近衛軍第一隊に所属していた男を倒せるとはよほどの猛者なのだろう。


「だがすぐに行方をくらましてしまい、この男の捜索にもだいぶ時間をかけてしまった」


 侍御史なのだから双然以外にも配下は何人もいるのだろう。一体どれだけの御史台の官吏がこの街に集っているのか、想像するだけでひやりとするものを感じながら、


「ということは見つかったんですね」


 空斗が相づちを打つと、「見つけてはいない」と即座に否定された。


「え?」

「私の探している人間ではなかった。年齢からして違っていたんだよ」

「ああ……なるほど」


 捜索者の具体的な特徴がいくつか挙げられていて、そのうち年齢が違っていた、そういうことのようだ。


「私ではなく枢密院が探している人間ではあったが、それを私が教えてやる義理もない」


 さらりと不穏なことを述べつつ、凱健はようやく話の本題に戻っていった。


「十番隊に報復された男というのは環屋の女将の息子でな」

「そんな偶然ってあるんですか?」


 目を見開いた空斗に、凱健が愉快気な表情になった。


「ああ。偶然とは面白いものだな。元々、その男は妻のことで心労がたたり体調を崩していたんだ。だが懲りずに毎日妻を捜しまわっていた。雪の舞う街を毎日毎日、朝から晩まで。歩くので精一杯なその様子は誰もの涙を誘うものだったよ」


 表情を変えることなく語り続けていた凱健がここでやや苦し気になった。


「だが十番隊だけは違った。奴らはその男を見つけるや袋叩きにした。……あれは本当にひどい有様だったよ」


 空斗はもう何も言えないでいる。


 先ほどから空斗は気づいていた。その男の探す妻というのは、まず間違いなく家で預かっているあの少女だということに。この真冬の時期に行方不明となっている妊婦など、そうそういない。


(あの娘の夫がそのような無体な目にあっていたとは――)


 少女がなぜ女の身で武芸を身に着けているのか、その理由がようやく合点できた。夫が腕の立つ武芸者であったから、つまりはそういうことだったのだ。


「その人は無事ですか」


 今夜はいつもの宿に泊まり、明日にでも少女の知り合いだと聞いていた男――梁晃飛の家を訪ねるつもりであったが、空斗はたまらず訊ねていた。


「幸い命に別状はなかった」


 ほっとしたのも束の間、


「あばら骨二本、それに片足を折ってはいるがな」


 凱健がさらりと付け加えた。


「実はここに来る前に応とその男の家に寄ってきたんだ。環屋での聞き込み調査をしていた流れで、応がその男から妻の捜索を頼まれていたのもあってね。まあ、芳しくない状況の説明をしに行ってきただけなんだが……いやはや」


 凱健が軽く頭をふるった。


「うちの奥さんを探してくれって、そればかりを言っていたよ。十番隊の奴らのことなんて一切訊かずにそればかりを。……久しぶりに目が覚めた思いがしたよ。一向に成果の上がらない捜索に己が人生を捧げているような錯覚にとらわれかけていたが、いやはや、この世には生粋の悪人というものがいて、そういう奴らを野放しにしておいてはいけないことを痛感させられた」


 それで、と、凱健がまた話の方向を変えてきた。


「私はこれから開陽に戻らなくてはならない」

「あ、ご家族と春節を祝うんですね」


 誰もが思いつくことを述べただけなのに、凱健が不愉快そうに眉をひそめた。


「違う。宮城でひらかれる宴に参加できるような人間が御史台にあまりいないだけだ。逼迫した任に就いている者や開陽から遠い地にいる者を除くと、これがなかなかいないんだよ。頭数として出席するだけだから楽しくもなんともないし、わざわざこの雪の中を開陽まで行ったりきたりするのも正直気が重い」

「……へえ。そういうものなんですね」


 空斗は開陽の春節の賑わいを何度も体感したことがある。宴は十日続き、その間、国内外の重鎮がひっきりなしに開陽に訪れるのだが、大行列が通るたびに元から騒がしい街が飛び上がるほど騒々しくなるのだ。だから元警備団所属の空斗にとって、春節とは一年でもっとも多忙で、もっとも心躍る期間だった。


 凱健の言う宮城内でひらかれる宴というのは、きっと想像もできないほど豪華なものなのだろう。見たこともないような美女に食べたことのないような上手い料理と酒が供され、華やかで煌びやかで、きっと桃源郷にいるような素晴らしい時を過ごすことができるのだろう。庶民の賑わいなど足元にもおよばない、極上の宴に違いない。


 なのに目の前の侍御史は心の底から嫌そうだった。


「来月末には戻ってくる。だから次に会う時までには家を移しておけ」


 あれほど様々な話をしていたというのに、結びの言葉は命令の繰り返しで終結した。



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