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4.恋をあきらめるために

 だが祥歌は引き下がらない。そう言われるとは最初から分かっていた。


「ではこの恋をあきらめるためだと言ったらどうします?」

「は?」

「なぜ袁殿がいなくなってしまったのか、知らずしてこの恋をあきらめることなどできないのです。なんといっても初めての恋でしたから」


 真剣な面持ちは、侑生にも本物かどうか測りかねた。


「このままでは床に伏して仕事ができなくなりそうです。そうしたらあなた、私の上司が怖いですよ? それでもいいんですか?」


 祥歌の上司とは当然、蘇礼部尚書だ。

 そして蘇は年明けから吏部尚書となる。


 ということは、同時期に吏部侍郎となる侑生の将来の上司を怒らせることになる。


 そう祥歌は暗に脅しているのだ。


「あの方、普段冴えないですけど怒るとけっこう怖いんですからね」


 とどめとばかりに言いきると、ふうっと、侑生がため息をついて立ち上がった。窓側、普段愛用しているのであろう執務用の大きな机へと行き、そこに積まれた幾多の箱の一つを迷いなく取る。そしてそれを祥歌の前に置いた。ことり、と木工製品特有の乾いた音が鳴った。


「どうぞお開けください」


 勧められ、祥歌が蓋を開けると、そこには紅玉の飾りと油紙に包まれた紙が入っていた。


「読んでもいいですよ」


 促され、油紙を取り外し折りたたまれた紙を開くと、それはまさしく祥歌が望んだものだった。ちなみに目を通した瞬間に一番に頭に浮かんだ当然の疑問については、


「もちろんそれは袁仁威が自ら書いたものです」


 先回りをされてしまった。


(まあでも。確かに)


 詩歌を教える家で生まれ育ってきたため、祥歌は書の方についても幾分かの知識を有していて、見た限りでは筆跡には嘘がないように読めた。日頃からまめに筆を持っていなさそうな、力強い成人男性の筆だ。勢いがあり、迷いなく記されたことも推測できる。上司に指示された部下が慎重に記したとしたらこういった筆跡にはならないだろう。


 墨の色と紙の質はあの袁仁威が使いそうな類のものだし、紙のよれ具合や変色の程度も晩春の頃のものと推測できる。


 元の通り油紙に包み箱にしまい、蓋をし。


「では不躾ですがあなたのその傷の原因について教えてください」


 祥歌は最大の疑問について一気に踏み込んだ。


 不躾ですが、と付け加えているだけ普段よりは言葉に気をつけてはいるのだが、ほぼ他人同然の侑生に対してその質問は無礼極まりない。


 ただ、侑生はそれに何ら表情を動かすことはなかった。


(なるほど)


 それだけで祥歌には得心がいった。


(私がそれを尋ねることも分かっていたのですね)


 であれば話は早い。これ以上遠慮することはない。湾曲した尋ね方をする必要もない。そのどれもが時間の無駄だ。


「あなたのその傷と袁殿の辞意と、両者には関係があるのではないですか。まったく同じ日に起こった出来事だと聞いています」


 実際には第一隊の武官ら五人衆はそうは言っていない。芯国がらみの業務を終えた週明けに仁威が隊長を辞して行方不明になり、かつ侑生が大怪我を負ったと言っただけだ。同じ日に起こったなどとは一度も言っていない。


 だが祥歌には確信があった。


 きっとこの二つは同じ日に起こった出来事なのだろう、と。


「何をおっしゃっているのやら」


 侑生は変わらぬ笑みを浮かべている。


 だがそのことが祥歌の背筋をひやりとさせた。


 これまで幾多の猛者と渡り合ってきた自負のある祥歌が、『表情を変えない』というだけでこの年下の男に対して恐れを感じたのである。


(……想像以上の手練れですね)


 さすがは次期吏部侍郎とでもいうべきか。


 そう、吏部は中書省五部において別格であるから、祥歌の属する礼部よりも当然格上であり、つまりは年明けからは侑生の方が立場は上となるのである。まだ二十代半ばであるというのにこの破格の出世は枢密使の溺愛の所以だろうと揶揄されていて、そのことは暗黙知なのだが――本人と接すればそれはまったくの誤りであることが分かる。


(この人は……本質的に私たちとは異なる人種なのかもしれませんね)


 ではそのような手ごわい相手にどこまで攻め入るべきか。


 普段から猪突猛進型の祥歌が、ここにきて一寸迷った。


 ここで手を読み違えれば二度とこの話題に触れることはかなわなくなるだろう。それはもうはっきりとしている。だが猶予はない。考え込むようであれば、時間がないとでも言われてこの室を追い出されるだけだ。


 祥歌は武芸の経験が一切ない。だから他人の気の流れを読むなどという芸当はできない。だが一つはっきりとしていることがある。それは祥歌の問いかけが侑生に警戒心を引き起こしたということだ。


 ということは――たとえば。


「……芯国」


 祥歌の呟きに侑生の頬がわずかに動いた。


 筋肉がただ少し動いただけのようなその変化は、しかし祥歌が待ち望んでいたものだった。


 内心の歓喜は唯人である祥歌の顔にはっきりと表れ、それに侑生が切れ長の目をすっと細めた。そこには幾多の感情が見えたが、祥歌は読み取るよりも先に席を立った。


「今日はありがとうございます。失礼します」


 知れば身動きがとれなくなる情報など得たくはない、だから席を立った。このままここにいれば侑生が何を言い出すかは分からない。分からないが、少なくともその性質だけは祥歌にも予想できたのである。


 背を向け断りもなく室を出ていく祥歌を、侑生はその一つだけの瞳で追いかけたものの、戸が閉まり一人になったところでそっと目を伏せた。


 だがすぐに顔を上げた。


「誰かいるか」


 呼びかけに、外で待機していた武官が戸の外から応じた。


「はい」

「今すぐここに礼部の官吏補であるちょう恩忠おんちゅうを呼べ。馬礼部侍郎が昇龍殿に戻るよりも先に、かつ隠密にだ」



 *



 祥歌は昇龍殿、礼部に戻ると意中の若者の姿を探した。だがその若者はいつもの席にはいなかった。春までは主に雑用をさせていたから、その若者が席に座っていられる時間はほとんどなかったが……今は芯国に関する仕事を数多く任せているためここにいるべきなのである。だがいない。いなくてはおかしいのに――いない。


「張恩忠はどこにいますか」


 すぐそばの官吏補に尋ねると、


「少し前に呼び出しを受けてどこかへと向かいました」


 と、自分が悪いわけでもないのにひどく申し訳なさそうに答えられた。


「あの、張が戻ったら馬侍郎の元へ行くように伝えておきますか……?」


 官吏補が思わずそう提言したのは、祥歌の顔色がさっと変わったからだ。普段からきつい表情を見せる彼女が一層険しい顔になったのは、恩忠が何か失態を犯したとでも早合点したからである。


 祥歌は確かに厳しい側面を持っている。だが他人に対して強い怒りを見せることはめったにない。淡々と事実を指摘し改善を要求するのが常なのだ。


 だが今の祥歌の様子を一言で表すとするならば、それはまさしく怒りだった。


「……あの野郎」


 地よりも低く響いた声は、祥歌のものとは思えないほど恨みがこもっていた。ぎりぎりと歯を鳴らし、両の拳を握りしめ、やがて腹の底から――吠えた。


「あのすっとこどっこいがあ……!」


 この日の出来事は祥歌が官吏を務めている間、常に伝説のように彼女のそばにあったという。有能な女官吏が突然きれた、通称『すっとこどっこい事件』として。


 そして当然、礼部に戻ってきた恩忠は顔面を蒼白にしており、祥歌の一件を聞くとより一層怯えたようになった。だが祥歌は恩忠に対して何も追求することはなく、それ以来、恩忠は一切の無駄口をたたくことなく己の仕事にまい進するようになったという。



 *



 そしてこの時の武官五人は異動の辞令を下され、晩秋には離れ離れとなった。ある者は第二隊へ、ある者は第四隊へ、そして残る者は第一隊所属のままで地方の駐屯地へと派遣されたのである。


 その辞令ははた目にはやや急なことに見えた。だが若い彼らの年代的にはとりたてて珍しいことではなかった。経験を積むためでもあり、組織の循環をよくするためでもあり……どのような組織でも似たようなことはしているし、武官ならば同じ場所に長く腰を下ろしていられないことは承知している。


 だが五人はこのことでいよいよもって確信を持った。


 袁仁威の突然の辞職について李侑生が何か知っている――。


「これをいい機会にしよう」


 別れの前夜、五人はいつもの店で杯を片手に誓い合った。


「それぞれがそれぞれの場所で袁隊長に関する情報を集めよう。そして必ず真意を突き止めよう」

「おおっ……!」


 腹の底から声を上げ、五人は杯を一気に干した。


 五人の中でもっとも年若い武官――しゅう定莉ていりもまた、飲み慣れない酒を一息であおることで己の決意を確固たるものとしようとしたのであった。

次話からは第二章、前作のつづき、零央の街での描写から始まります。


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