4.恥じない人間になりたい
「これは芯国人にやられたんだ」
やや青ざめた珪己に空也は気づいていない。あの日のことについて関係者以外に話すのは初めてで、当時の状況や気持ちを整理しながら話すことで精いっぱいになってしまっているのだ。
「偉い人の娘さんを警備することになってさ。初めての大役だからってちょっと浮かれてたんだよな、俺。……罰が当たったんだろうな。斬られた時はすげえ痛かったし、正直死ぬかと思った。血もたくさん出たし」
はは、と空也がから笑いをした。
「幸い命は助かったけど、斬られたせいで右手の動きが悪くなっちまった。ほら見て」
机の上に置いた手を握ったり開いたりしてみせる。
「な。ちょっと震える時があるだろ? だから兄貴も俺も不安に感じてしまうんだ……珪亥と二人でいることに。この手じゃ万に一つでも珪亥に負けるかもしれないからさ」
「あ、あの!」
立ち上がり頭を下げかけた珪己を、それよりも早く空也が両肩に手を置いて押しとどめた。右手が触れている部分がやや小刻みに震えたのを感じ、珪己はなぜか泣きたくなった。
「謝らなくていい。あの夜の珪亥は相当興奮していたし仕方なかったんだ」
「でも……!」
「それで俺が珪亥にびびっているのも俺が弱いせいであって珪亥には関係ない」
きっぱりと空也が言いきった。
「俺、やっぱりまだ闘うこととか血とか……少し怖いんだ。腹に力を入れてないとぐらっとくる。こうして二人でいるよりもさ、部屋にひきこもっていたくなる」
声が小さくなっていくのは空也の吐露が真実だからこそで――。
「でもこのままではいけないってことも分かってるんだ。俺が弱いせいで兄貴に迷惑をかけているから……」
空也は衝撃のままに覚えている。
兄がこの少女を捕捉し、なおかつ業をかけたあの夜のことを――。
これだけ腹の膨れた妊婦に対して一切の遠慮なしで首を絞めることのできた兄は、暗闇のせいではなく鬼のように見えた。
だが心優しい兄をそんな風に変えてしまったのは――自分なのだ。
弱い自分を護るために過保護な母親のごとくふるまい、頼りがいのある父親のごとくふるまい、そして冷酷非道な鬼のようにふるまってみせた兄――。
しかし、本当はただの他人なのだ。
「甘えているのは心地いいけどいつまでも甘えていてはいけないって……分かってるんだ。だから俺は兄貴を解放したい。そのためには俺自身が強くならなくちゃいけないんだ。だから珪亥は何にも悪くない。俺が勝手に怯えて、俺が勝手に強くなるために利用させてもらってるだけなんだから」
*
凱健が黙りこみ、隣で双然が大きなあくびを一つした。
空斗は様々なことを覚悟しつつ返答を待っている。
上官の命令には従うべきである。そのことを武官であった空斗は骨身にしみて理解していた。誰か一人でも己の信条を優先し命令に背くようなことがあれば、それすなわち仲間の身に危険をさらし任務を阻害することになるかもしれないからだ。
『な、兄貴。俺たち、今はこうして自分たちだけのために楽しく暮らしているけどさ、珪亥がここに来て思い出したんだ。なぜ武官になろうと思ったのか』
昨夜、枕を並べて横になったところで弟が突如語り出したことを反すうしていく。
『誰かの役に立ちたいって思ったから、だから武官になったんだ』
弟の言葉と意志こそが空斗を力づけてくれるから――。
『俺、ガキの頃からすばっしこさだけは村一番で、でもそんなの大人になってからは何の役にも立たないって思ってたんだ。でも親戚のおっさんが言ってくれたんだよね。お前なら立派な武官になれるって。すばしっこくて優しいお前に護ってもらえる人間はきっと幸せになるだろうって。俺さ、そんなふうに自分のことを認めてもらえたことなかったから……すごく嬉しくてさ』
あの時、空也は兄ではなく天井を見つめていた。へへ、と鼻をこする仕草は分かりやすい照れ隠しだった。
『俺、やっぱり誰かの役に立つようなことをしたいなあ』
そんなに早く色々決めなくてもいいんだぞ、そう応じたところ、『そうじゃないんだ』と空也は言った。
『兄貴に甘えているだけなんて嫌なんだよ。俺も誰かを甘えさせてあげたいし頼られたいんだよ。いじいじと過去をひきずっているだけなんてかっこ悪いし、どうしようもない憎しみはいい加減捨ててしまいたい』
間接的とはいえ二人の間で晩春の古寺での闘いのことが話題に出たのはこれが初めてだった。
『それにこうして自分のやりたいことばっかりしていられる毎日も楽しいけどさ……でも楽しいだけじゃなくて生きてるっていう実感がもっとほしいんだ。せっかく助かった命をもっと役立てたいんだ』
あの子さ、と続ける空也の横顔はいつの間にか晴れやかになっていた。
『あんな体で俺ら二人に闘いを挑んでくるなんてすごくなかったか? それってきっと無謀なだけじゃないよな。諦めることをしたくないんだよな。何かに抗ってでも自分の道を護りたいんだよな。でも俺のしていることってその逆だよなって……そう気づいてさ』
空也の自覚は空斗にも同様の重みをもって突き刺さった。
逃げているのは空斗も同じだったからだ。
嫌な思い出のある開陽から。武官という仕事から。死の恐怖から。闘うことへの恐怖から。逃げて逃げて、逃げることで弟と自分自身を護り……でも逃げたところで根本的なことは何も変わらないことも分かっていて――。
どんな自分でいたいのか。
どんな自分になりたいのか。
この問いを自分自身に投げかけた瞬間、弟は立ち直ることを決意した。
では、空斗は?
――そんな弟の望みを叶えたい、そう願ったのだった。
そのためにはもうこんな密偵のようなことは辞めたい。なぜなら空斗は以前から気づいていた。この任務が芯国人を捕縛するためだけのものではなく、自分たちを監視する目的もあることに。
きっとあの緋袍の青年官吏には見透かされていたのだ。空斗の胸にすくう芯国人への底知れない憎しみに、抑えきれない苦しみに……無尽蔵の恨みに。
この国にはきめ細かな法が整備されていて、犯罪についても当然綿密に規定されている。人を斬れば牢に収容されるのは異人でも同様で、逃亡すれば関係各所で総出をあげて捜索される。姿絵や特徴を記した印刷物が何枚も刷られ、これを貼った看板が各地に立てられる。特に殺人や傷害といった重犯罪者の検挙率はほぼ十割に近い成績を誇ってすらいる。
だが開陽にいる間、どこの立て看板にもその類の知らせは貼られていなかった。あの古寺での事件直後、空斗はそのことに一抹の不自然さを感じていた。だが弟のことや自身の退官、それに新生活の準備で忙しく、深く考えることはしなかった。
そこに枢密院事直々の命令である。
少し考えれば合点がいった。
あの憎き芯国人は位の高い人間なのだ、と。
他にも推測の道しるべになる出来事はいくつもある。国交が開かれたばかりで芯国の人間があんな古寺にいたのもおかしいし、湖国人並に湖国の言葉に精通していた青年はその事実一つでただの庶民とは思えない。護衛対象が枢密使の一人娘であったこともそうだ。近衛軍第一隊隊長直々に彼女を護衛していたことも、なにもかも……。
つまり高良季は兄弟二人が当の芯国人に危害を加えることがないように監視しているのだ。
なるほど、もう一人の枢密院事、心優しい呉隼平が口にしなかったわけだ。
空斗はあらためて唇を結んだ。
これからどんな脅しや責めを受けるか。強引に引き留められるか、はたまた肉体に教え込まれることになるのか……。
初めて会った時から、空斗は目の前の二人との力量の差を肌身で感じていた。元々御史台に配属される者は腕自慢の者が多いのだが、長年この任に就いている凱健からはそこはかとなく匂い立つ気の厚みからして違うのである。これまで二人以外には御史台所属の官吏に会ったことのない空斗であるが、語らずとも武芸の腕についてはすぐに察せた。
(……だが俺は弟に恥じない人間になりたい)
妊婦の少女を捕捉し業をかけたあの夜。批判する弟の視線は正直耐え切れないほど痛かった。弟を護るためならばと自らの痛みについては無頓着でいるように努めてきたが……。
しかし昨夜の弟の発言で、とうとう空斗は決意した。せざるを得なかった。
(あいつが自らを取り戻そうとするならば……俺も同じだ)
そのためにはまず、自分自身すら反吐のでるこの思考と言動を矯正する必要がある。
(……俺はまずこの憎しみをどうにかしなくはいけないんだろう)
空斗の行動の源はいつの間にか憎しみ一つになっていた。弟そのものではなく、弟を傷つけた相手への憎しみ一つに。だから妊婦相手に無体なことができてしまうのだし、弟が望まない非道な行為を選べてしまうのだ。
本来の自分はこうではなかった。弟もよくこう言っていたではないか。
『兄貴ってほんと優しいな――』
弟に嫌われても弟を護りたい、その気持ちは変わらない。
だがそれでは弟と共にいることはできないのだ。
これこそまさに弟の言う通りなのである。甘えるだけの関係、楽しいだけの日々では満足できないと言っていた通りで、空斗もまた弟に嫌われ続ける日々になど耐えられるわけがないのである。
(俺たちはまだ若い。人生はまだまだ長いんだ)
(だから今から妥協なんてするわけにはいかないんだ。最善を探さなくちゃだめなんだ)
(……そう思えるだけ俺たちはまだましなんだろう)
逃げ癖がつき、弱い自分に慣れ、妥協するのが当たり前になれば……堕落していく他なくなる。




