3.見返りはいらない
どうして私のことを怖がるのか。
珪己がそう訊ねた瞬間、この場にぴりっとした空気が流れた。
だが空也がすぐにその不穏な空気を打ち消した。
「俺が怖がる? どうして?」
笑みを浮かべて麺をすすろうとした空也だったが、
「怖がる……というよりは警戒されている、そう感じます」
続く珪己の言葉に自然と空也の手が止まった。
空也は束の間珪己を見つめ、今度こそ素直に箸を置いた。
「ああ。確かに俺は珪亥のことを警戒している」
「どうしてですか。どうして……?」
「兄貴に言われてるんだ。二人きりでいる間、気をゆるさない方がいいって。俺もそう思っている」
淡々と紡がれた分だけ、空也の言葉には真実味があった。
「この家に担ぎ込んだ日、珪亥は錯乱していけど……自分が何をしたか全然覚えてないんだな」
「錯乱、ですか?」
「兄貴の指の関節をきめたんだよ。珪亥が」
「わ、私がですか……?」
「ああ。でもそれは兄貴が珪亥の濡れた服を脱がそうとしていたからで、きっと勘違いしたんだろうなって分かってる。ちなみにその後は俺にも掴みかかってきたけどね」
明るみになっていく己の無体に、珪己は言葉が出なくなってしまっている。半分開いた口を閉じることもせず、呆然と空也を見つめている。
その様子に空也が困ったように笑った。
「珪亥がなぜ女の身で武芸に通じているのかは知らないけど」
ぴくん、と珪己の肩が震えた。
「闘うということを知っている珪亥になら伝わると思うから聞いてほしいことがある。いいか?」
ややためらいながらもうなずいた珪己に、空也もまた小さくうなずいた。
「俺と兄貴は武官だったんだ。この春まで開陽に住んでた。都って分かるかな、街の警備を担当してたんだけど」
「……分かります」
「よかった。じゃあこれは知ってるか。都に所属する武官にとってはさ、武芸はお稽古ごとの延長みたいなものなんだってことを」
「……お稽古ごとの延長、ですか?」
「ああ。もちろん日々の任務に訓練の時間は割り当てられているし、誰もが腕に自信はある。でもそれは実際に闘うためのものではなくてさ、都に所属するためだけに必要な能力って程度のものなんだ。なぜなら開陽の街は平和だから。開陽ってさ、すごく平和なんだよ。争いもけんかも小さなものがほとんど。うん、いいところなんだよ、すっごく」
空也の語る開陽の街の姿は真実だ――そう珪己は思った。
同じことを珪己は晃飛に話したことがある。開陽は平和な街なんです、と。この時、晃飛には即座に否定された。『でも君の家は襲撃された』と。本当に平和な街であればそんなむごい事件が起こるはずがない、と。
もちろん珪己は片時も忘れたことはない。八年前、自宅を元武官に襲撃され自分以外の人間を皆殺しにされたあの日のことを、どうして忘れることができようか。
開陽を出る直前に芯国人と命を賭して闘ったことも一生忘れることはないだろう。
本当に平和な街であれば、この手で他人を殺さねばならない状況など起こらない。起こり得るはずがない。
宮城内で王美人や侍女の果鈴に命を狙われたことも――絶対に忘れることはないだろう。
だが、これらを除けば珪己は開陽で身の危険を感じたことはなかった。兄弟子に稽古時にいじめられたことはあるが、あんなものは我慢できる類のことだ。
本当の危険とはのっぴきならない切実な状況に常に置かれる状況を言うのであって、そう考えるとやはり開陽は平和そのものの街なのである。
「都に配属されてさ、俺、内心嬉しかったんだ。そういう奴はけっこう多いんだぜ。同じ禁軍でも近衛軍だとか歩兵軍、騎馬軍なんかはそれはもう厳しいし、生涯五体満足で勤め上げることは難しいっていうし。給料は大してよくないくせにそれじゃあ、やりたがる人間がいないのも当たり前だろ?」
問いかけたものの、空也は珪己の返答は期待していなかったようでさらに熱を込めて語っていった。
「開陽では俺も兄貴も充実した毎日を送ってたんだ。そこそこ仕事をして夜はうまいもの食って、たまにぱーっと散財して遊んで。……あのままずっと開陽で暮らしていたらどんなによかっただろうって、そんなことをたまに思うよ」
ここで急に空也が声を落とした。
「……でも俺たちは開陽から逃げてきた。いや、開陽からだけじゃない。武官という仕事からも……闘うということからも」
ずっと誰かに聞いてもらいたかったのだろう、一度放出された水が留まることを知らないように、空也の話も止まらなかった。
「な、これ見てくれないか」
おもむろに立ち上がった空也は背を向けると上衣を脱ぎ素肌を露出させた。
右肩から左脇へと斜めに走る大きな傷跡は剣によるもので、珪己は思わず息を飲んだ。
その気配を感じ、空也が申し訳なさそうに上衣を身に着け直した。
「この傷は開陽でやられたものなんだ」
「こんなにひどい怪我をですか?!」
反応の良さは武芸に通じているが故のことでもあり、開陽という街をよく理解しているからでもある。だが空也は珪己の素性をあらためて察しつつも、今はそのことについては口に出さなかった。
「な、信じられないだろ? 開陽はくさっても首都なんだよな。人が集まり、物が動き、政治が動く場所なんだ。危険なことが起こらないわけがないんだ。自覚していなかった報いなんだろうなあ。これ、実は異人にやられたものでさ」
「異人、ですか?」
「ああ。珪亥は芯国って知ってるか?」
*
一つ息をつき、習凱健が噛みしめるようにつぶやいた。
「なるほど。憎しみのためには生きたくない……そういうことか」
「はい」
空斗がうなずいた。
「捜索には引き続き協力を惜しみません。無償でも、一生でも構いません。ですが俺は弟を幸せにしたいんです。弟は自分のことは自分でできると言っていますが、俺がそうしたいんです。そのためにこそ俺は生きているから……そのためだけに生きているから」
「人は人のために生きてはいけない。自分のためにも相手のためにもそのような生き方は選んではならない。そんなことも知らないのか」
鋭い凱健の指摘に、空斗が口を真一文字に結んだ。自分でも己の馬鹿さ加減が分かっているからだ。
弟と言いつつも結局は赤の他人、しかも男だ。田舎出身者にとって、成人しても独身でいることはある種の罪人のように捉えられるこの時代、義理の兄弟といえどいつまでも同じ地に住み同じ時を過ごせるわけがないことは空斗にも分かっている。
空斗は男を恋愛や性の対象にはしていないし、この時代、同性同士での結婚は認められていない。ならば弟ともいずれは離れなくてはならない。自分も、そして弟も、いずれはどこかの誰かと恋をしなくてはならないのだ。
いや、恋などしなくてもいい。だが誰かと必ず添い遂げなくてはならない。それが常識とされる世界に二人は生きていた。
だが――弟をこの世で一番大切に想っているのもまた事実だった。
たとえ肉欲が湧かなくても、誰かと恋をする未来を全力で応援できても、それでもその人がこの世で一番大切だと想う気持ちは……どこかおかしいのだろうか?
見返りはいらない。
ただあなたが幸せならばそれでいい。
あなたがなるべく苦しまずにいられますように。なるべく笑っていられますように。そう願うことはおかしいことなのだろうか?
いつまでも共にいたいと、自分を傷つけてでも損なってでも護りたいと、そう思うのはおかしいことなのだろうか?
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