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2.最優先にしたいもの

 氾空斗が零央の街に足を踏み入れたのは夕餉時もとっくに過ぎた遅い時分だった。


 街中はいつにもまして閑散としていた。年末の夜、しかも明日は徐夕だから、ほとんどの人間が働くことも学ぶこともやめ、家でゆったりとした時間を過ごしているのだ。もちろん、宿や料亭や酒楼等、とある種別の店は営業をつづけているが、それらはほんの一握りのことで、居並ぶ店のほとんどが閉まっておりなおかつ寒いときたら、外を出歩く者もほとんどいない有様だった。


 ただしどの建屋にも春節の飾りが賑々しく取り付けられていた。春節を祝う詩を書いた赤い紙が門や軒先に貼られ、「福」の一字が大きく書かれた色鮮やかな布は不定期に吹き付ける風にあおられるたびに揺れている。


 二代皇帝の時代に彩色――鮮やかな色――の利用が庶民にもゆるされ、それ以来、彩色は民の生活に少しずつ入り込んでいる。春節はその最たる例だ。めでたいと思う気持ちを色で表す、これはなんとも単純かつ分かりやすい行為だろう。ただ、どれほど見目の良い色であっても、街全体を覆う灰色の空気の中では虚しさすら感じられた。


 半月ほど前、類を見ないほどの吹雪が起こった日から、街は完全に曇天に覆われてしまっている。降っては止み、止んだかと思えばすぐさま降りだす雪――。日の光は一切入らず一日中どんよりとしている。夜ともなれば、もはや打つ手もないほど暗澹たる雰囲気に支配されてしまう。


 そんな暗がりの中を空斗の足は迷いなく街の中ほどへと進んでいく。


 雪を踏みしめながら通り過ぎる家のそば、いたるところではためく赤い布はどれも乱雑な音を発していて、それはどこか吹雪の音を彷彿とさせる。


 自然と早足となった空斗の足は途中で裏道へと入っていった。しばらく歩くと一軒だけ営業している店が現れた。戸の隙間からはいくばくかの光が漏れている。


 空斗が無言で戸を開けると、勘定台の向こうから寡黙そうな店主が筆をおいて軽く頭を下げてきた。空斗はそれに会釈を返すと、いつも使っている安い紙を一束買い求めた。だがそのまま店を出ようとはせず、勘定台の脇をすり抜けて奥へと入っていった。店主はそんな空斗を気に留めることなく、金を箱にしまうと帳面付けを再開した。


 空斗が入った小部屋には待ち人が二人いた。


「や。ご苦労」


 片手を上げて応じたのは応双然である。


 御史台所属の官吏、監察御史である彼は廂軍の第五隊に所属する新人武官でもある。


 武官としての双然しか知らない者にとって、応双然という男は苦労知らずのお坊ちゃまだとか、はたまた直情的で好奇心旺盛な若者という印象を持っているだろう。


 だが今、ここにいる双然はそれとはやや違った雰囲気を放っていた。


 怠惰で、退屈そうで、しかもかなり眠そうだ。


「応御史。お待たせしまして申し訳ありません」


 あわてて空斗が謝罪すると、双然の隣でもう一人の人物が感情の乗らない声で言った。


「気にするな。我々もまだ来たばかりだ」


 この男、名をしゅう凱健がいけんという。机の上で両手を組み、慇懃に見上げてくる様は、人を使い慣れた貫禄に満ちあふれている。それもそのはず、彼は双然のより上位の侍御史じぎょしであって、双然の直属の上司である殿中侍でんちゅうじ御史ぎょしのさらに上に立つ者なのだ。


 髪に幾分か白いものが見えるが、若い双然よりもよほど威圧的な空気を放っている。猛禽類を思わせる顔には、ただのいかつい力自慢の男にはない、深みのある鋭利さも見えた。


「座れ」


 促され対面の椅子に座った空斗であったが、その姿勢の良さが一層際立ったのは武官特有の上官に対する態度そのものである。表情がやや強張っているのも、腿の上に作られたこぶしを硬く握りしめているのも、同じ理由だ。一度血肉に叩き込まれた習性というものはそう簡単には消えてくれない。


「報告書をもらおう」


 これに空斗は胸元から折りたたまれた紙を取り出した。


 机の上、音もなく渡されたそれを、凱健は自分の懐にそのまましまった。これを読むべき者は他にいて、それなりに高位にある凱健ですらその仲介役を担っているだけだからだ。


「ところで」

「はい」

「そうやって山の中に引きこもっていたら君は任務を果たせないのではないか」

「それは」


 反論しようとした空斗を凱健が手をあげて制した。


「君の弟が言い出したらきかない性質だからだろう? それは聞いた。だが君は高枢密院事から直々に命じられているはずだ。行方不明の芯国人を直接見たことのある君に枢密院が期待していることを忘れないでくれ」

「……はい」


 開陽を出立する前日――空斗のもとにこう良季りょうきが突然現れている。


 緋袍の青年官吏は空斗が所属する(百人規模の警備団の名称)の団長を引き連れ、訳が分からず混乱する空斗を問答無用で密室に連行したのだった。


『呉枢密院事は言わなかったようだが私は言う。いや、命じる。君は武官であることを辞めてはならない。引き続き禁軍の武官としてこの国に、枢密院に忠誠を誓うのだ』

『……それは一体どういうことですか?』


 過ぎた驚きは空斗の思考能力を完全に奪った。


『言葉通りだ。君はこれから君の弟と各地を回ると聞いた。そこでだ。例の芯国人に関する情報を集めて定期的に私に報告するように』

『は……?』


 話についていけない空斗を置いて、良季は訥々と続けていった。


『どんな些細なことでもいい、情報を集めるのだ。まずは零央からだ。開陽から国内を回るとしたら零央を経由する可能性が高いからな』

『ま……待ってください! 俺はもう武官は辞めたんです! 退職の金もほら、こうしてもらって』


 捧げ持った袋の膨らみに良季はちらとも視線を送らなかった。


『それは退職のための金ではない。軍資金だ』


 空斗がとっさに送った視線に、いつもは陽気で人のいい団長がすぐさま目を逸らした。知っていてこれまで言わなかったのだと、はっきりと分かる態度だった。


 晩春の苦い回想は目の前の男によって容赦なく中断された。


「あまりに非協力的な態度をとるようでは、その旨開陽に報告せねばなるまいな。この件は国家機密であると以前伝えたはずだが?」


 普段、枢密院は単独で行動することが多い。だが今回の件は監察御史経由で枢密院に報告書を送ることとなっている。理由は――これまた国家機密なのだそうだ。


 この二人と定期的に会うようになるまで、空斗は御史台の人間と関わったことは一度もない。なぜなら御史台とは皇帝直下の秘密組織だからだ。


 もうこの一点のみでも理由の片鱗が見えてしまう。


「習侍御史」

「なんだ」


 二人に逆らうということは単に枢密院に反旗を翻すことではない。枢密院と御史台、二つの組織に逆らうということだ。だが空斗はここに来るまでに考えていたことを覚悟を決め、言った。


「芯国人の調査についてはこれからも精一杯やらせていただきます」

「当然だ」

「ですがそれは武官としてではなく一国民の責務としてやらせてください」

「はあ?」


 隣で聞いていただけの双然が示した反応は、驚きというよりも小馬鹿にする態度に近い。だが空斗はめげずに凱健に訴えた。


「俺はあの芯国人が憎い。弟を斬ったあいつが今でも憎い」

「だろうな」

「でも……!」


 空斗は腹に力を籠め、言った。


「でも俺が最優先にしたいものは憎しみではないんです! 恨みを晴らすためではなく、今ある幸せを護るために生きていたいんです……!」



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