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1.どうして怖がるんですか

 柔らかな眠りの世界に一筋の光が差し込んだ。


「う……ん」


 珪己が目をこすりつつ起きると、室内はだいぶ薄暗くなっていた。昼食後、体の冷えをとろうと掛布にくるまっていたら……自然と眠っていたらしい。


 眠る直前まで思い悩んでいたことすべてを封印し、ささっと身支度を整えると、珪己は急いで居間へと向かった。自分が起きるまで兄弟二人、食事を摂らずに待っていたら申しわけないと思いつつ。だが居間には空也しかいなかった。しかも大の字になって気持ちよく眠っていた。


 起こしたら悪いから、と静かに引き返そうとしたところで、ちょうど空也が目を覚ました。


「ふわあー」


 ぴんと両腕両脚を伸ばし大きくあくびをする。

 と、次の瞬間には軽い跳躍をし立ち上がっていた。


「どうした?」

「……あ、あの」

「ああ、腹が減ったのか。ごめん、ちょっと待ってて」


 にこっと笑って空也は台所へと消えた。


 珪己は一瞬ためらったもののすぐに後を追った。


「あれ? なんでついてきたの? まだ何の準備もしていないからあっちで座ってなよ」

「あの、私にも手伝わせてもらっていいですか」


 願い出ると、空也は意外にも黙りこんだ。


 これまで短い時間とはいえこの若者と接してきて、珪己は「もちろん」とか「ありがとう」とか、肯定的な返事を即もらえるものと予想していたので正直驚いた。


 しかも時間をかけて紡ぎ出された返答はこうだった。


「……珪亥にできるの?」


 心外な発言に内心傷つきながらも珪己はうなずいた。


「できます。そんなに上手ではないですけど」

「そっか……。じゃ、たとえばだけど、そこの魚さばける?」


 空也が指さした方向で、ちょうど黒く大きな魚が一匹跳ねた。庶民が食する魚として有名な四大家魚の一つ、黒連こくれんだ。水を張ったたらいの中で活発に動く様は、この季節特有の倦怠感をものともしない生命力、躍動感に満ちあふれていて、自然と珪己の顔を綻ばせた。


「うわあ、大きいですね! 釣ってきたんですか?」

「ああ、昼のうちにな。でも怖くないのか?」

「怖くなんかないですよ。美味しそうだとは思いますけど」


 まるで出会った当初の晃飛と話しているかのようだ。


 あの頃の晃飛はすぐに『お嬢様』と珪己のことを小馬鹿にしてきた。まあ、実際に珪己はお嬢様で、台所仕事を含めた家事全般を義兄となったばかりの晃飛に突貫工事で仕込んでもらったのだが。


「包丁を貸してもらってもいいですか」


 と、いまだに不安げな空也と目が合ったことで珪己は気づいた。


「あっ……」

「どうした?」

「あの……。やっぱり私、居間で休んでいていいですか」


 すると見るからに空也がほっとした表情になった。


「そうだな。その方がいい」

「すみません。お手伝いはまた今度しますから」

「いいって。この家では珪亥はお客さんなんだから。俺たち、女だから家の事をしなくちゃいけないなんて思わないし、ゆっくりしてくれよな」

「はい。ありがとうございます」


 笑みを浮かべて珪己は台所を後にした。だが無理やり浮かべた笑みは、空也に背中を向けた途端にあっけなく崩れた。



 *



「お待たせ。麺を作ってきた」

「ありがとうございます」


 丼の中、汁の上にはぶつ切りにされた黒連がてんこ盛りになっている。もくもくと湯気が立つ白身の肉は見るからにうまそうだ。


「たくさん食べな。お替わりもあるからさ」

「いただきます」


 刻んだ唐辛子やネギがいくつも浮いている汁は、色味からしてあの宿の隣の食堂の味を彷彿とさせた。実際、汁を一口すすると、その菜譜を一度しか食べたことがない珪己にもピンときた。


「……これ、もしかして」

「あ、分かった? あそこの親父に特別に教えてもらったんだ」


 魚の身は箸で取るとほろほろと崩れ、崩れた先から白く濃い湯気が生まれていく。横に添えてあったさじで汁ごと身をすくって口に入れると、まず第一にピリリとした辛味を舌が感じた。それは確かにあの食堂で味わった味そのものだった。しかしその後で淡泊な白身が辛さをやわらげ、追従してネギの爽やかな風味が鼻の奥まで届いた。


「これ、すごく美味しいです!」


 肉ありきの汁の味かと思っていたが、意外なほど魚にもよく合う。


「だろ?」


 得意げに麺をすする空也は、こうしてみるとやっぱり珪己が思ったとおりの好青年だった。


「……あの」

「なに?」

「お兄さんはどうされたんですか?」

「ああ、兄貴なら出かけてる」

「ええっ。まだ雪もすごいのにどうしてですか? それにもう暗いですよ?」


 箸を止めた珪己に、空斗が安心させるように笑ってみせた。


「大丈夫だよ。兄貴は俺と違って雪には慣れているし、ここに来てからも月に一度は一人で出かけてるんだ」

「でも明日は徐夕じょせきですよ?」


 徐夕とはその年最後の一日、つまり大晦日のことだ。


 年明けの春節が湖国民にとって一年でもっとも重要な行事であるのと同様に、徐夕もまた誰もが静かに時を過ごす大切な日とされている。また、多くの人々はその数日前から長い休日に入っているもので、つまり珪己が言いたいのは、なぜ空斗が雪山を下りるなどという重労働を今日する必要があるのか、ということなのだ。


 それに空也があっさりと答えた。


「だからだよ。春節には福字ふくじ春聯しゅんれんがいるだろ」


 福字も春聯も春節の飾り物であり、前者は「福」の一字が大きく書かれたもので、後者は春節を祝う詩を書いた赤い紙である。


「この前買い出しに街に出た時に買いそびれてさ。それに栄養のある食材がもっとほしいし、春節に珪亥に男物の服を着せるのはかわいそうだってことになってさ」


 確かに今日も珪己は空斗の衣を身に着けている。他に着替えはないからだ。帯で丈は調整できるし、だぼっとした胸囲や腹囲は珪己の大きなお腹にはちょうどいいのだが……兄弟には気になったのだろう。


 やっぱりいい人たちだ。


(ではどうして――?)


 珪己は箸を置くとたまらず訊ねていた。


「あの」

「なに?」

「どうしてさっきから空也さんは私のことを怖がるんですか?」



 *


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