6.もしも誰もが愚かな存在だとしたら
懐に手を入れると滑らかな木の感触を捉えた。結局仁威は桔梗の手彫りの簪を家族に渡すことはできなかったのである。
確かにあの家族はひどい貧困に陥っていた。男がやや足をひきずっていたことにも気づいている。むき出しの足首の腱には古い切傷痕があり、おそらく元武官に違いなかった。
今、この国のどこにおいてもそれなりに食い扶持を稼げる職はある。なのに敢えて武官に就く男というのは、いわゆる世間一般からはみ出した者であることが多い。才のない者、何かに失敗した者、故郷にいられなくなった者、罪びと……そういった人種だ。
だが武官という仕事はそう簡単に勤められるような職ではない。特に地方は教育がいまだ不十分なうえに治安が悪く、採用された素人がいきなり現場に派遣されて怪我をする、なんてこともよくあった。その際の退職金が十分とはいえないのも実状である。
では足をやられた男は、以降、どのような手段で生を繋げばいいのか。もとより他に就ける職もないような男が、足をやられてどうやって食い扶持を稼げばいいのか。――あの男にとっては、子を売ることが答えなのだ。
気づけば仁威は元来た道を戻っていた。急ぎでもないのに往路以上の早足で、眠る時間すら惜しんで黙々と歩み続けた。そしてそのまま砂南州の北の方、山の中へと分け入っていった。これにより、ひと月以上仁威をなぶり続けていた砂まみれの風とようやくおさらばができた。だが仁威の頭の中は大きな疑問に支配されてしまっており、以前までの心労の原因すらどうでもよくなっていた。
(子とは、人間とは……そもそもどういう存在なのだろう)
手の中で渡しそびれた簪を弄びながら、足場の悪い山道を進み続ける。
もうどこにも仁威が行くべき場所はない。なのに歩き続けていた。待ち人がいないわけではない、だがその待ち人の元へは帰ることはできない。故郷にも開陽にも、そして零央にも――。なのにあてもなく歩き続けていた。本人ですら理由も分からずに。
ただひたすら、仁威は考え続けていた。
山中はひどく静かだった。往路で幾度か見かけた動物の姿が見えないのは冬という季節のせいだろう。より暖かな方へ、または冬眠できる場所を求めて山の奥深くへと移動したのだと推察できる。
大きく翼をはためかせ、一羽のフクロウが頭上の枝を揺らして空の彼方へと消えていった。はらはらと、いまだ緑の濃い葉が数枚、仁威のそばに舞い落ちた。
深い緑の静寂に包まれながら、仁威は己自身との問答へと集中していった。もうそれは習慣であり、この放浪の旅において唯一の人間らしい活動でもあった。
深く呼吸をすると、肺腑の中に静謐で冷たい空気が流れ込んできた。
(……確かにあの男の言い分にも一理あったかもしれない)
生きていくために子を売ることは、この国では暗黙の了解となっている。そしてこの国では親は子を売る権利を有している。であれば子は親の所有物なのだろう。
(だが親であれ子であれ、人間であることに変わりはない)
その一点だけは譲れない。
(……では人間の生とは何なんだ。自らの自由にならない、ただ生きて死ぬだけの生にどのような意味があるんだ)
この思索の拠り所として桔梗のことを思い出すのは自然なことだった。本名は紫明という名であることを知ったばかりの女のことを、つい先日死んだばかりのように錯覚するあの女のことを――。
(あのような生き方をして……死んで。それでは家族のために命を売ったのと同じではないか)
いや、正確には父親一人のためだろう。
(あの父親も父親だ。子を片っ端から売り飛ばすくらいならばどうして働こうとしないんだ。家族四人、汗水たらして働けばどうにかなったのではないか。足が少しくらい不自由でも、探せばできる仕事はあるだろうに)
考えていると胃のあたりにこみあげてくるものがあった。
そんな自分に気づき、簪を弄んでいた仁威の指がぴたりと止まった。
「……俺は一体何様だ?」
自分自身が大した生き方をしているわけでもないのに、この若さで生涯を放浪せねばならないような大罪をおかしたくせに、よくもまあ他人を否定できたものだ。しかも怒りが沸いてこようとは……本当に何様だろう。
仁威は深くため息をつくとその場に腰を下ろした。その途端、尻は根が生えたかのようにその場に固定され、ひどい倦怠感で肩が大きく下がった。つられるかのように頭が垂れ、視線も地面へと動いた。
「……そうか」
何の前触れもなかった。
「……俺も同じなんだ」
悟りの領域、その片鱗に仁威はたどり着いていた。
また頭上でフクロウが羽ばたく音が聴こえた。
だが頭を上げる気力もない。
「……なんだ。俺も同じじゃないか」
ずるずると尻が滑っていく。
背中が、肩が、ゆっくりと地面に触れていく。
「今の俺も……ただ生きているだけじゃないか……」
八年前の事変以降、仁威は確かな信念のもとに最良の人生を選び取ってきた。罪を償い正しい道を歩むことでこの世界で生きる権利を勝ち得ていた。……そのつもりだったのだ。
なのに選びに選んだ結果はどうか。
今こうして山奥で一人途方に暮れている自分は何なのだ。
どの選択も正しかったと思えるのに、どうしてもこうも空虚なのか。
充足感に満たされているべきなのに、なぜこうも虚しいのか。
正しい道を選びさえすればいいと思っていたが、残ったものは『正しい選択をした』という事実だけではないか。その一点以外は辛く苦しいことばかりが手の内に残ってしまっているではないか。崇高な精神を保てたという事実以外、何も達成されていないではないか。
(いいや、違う。俺は楊珪己を護ることができたのだから)
ぎりぎりの波打ち際に立つかのごとく揺らぐ仁威にとって、その一点は最後の防波堤に等しかった。
(そうだ。それでいいんだ。俺があいつを護ることは八年前に定められていたのだから……)
だが幾度も繰り返してきたがゆえに、この文言すらただの言い訳のように思えてくる。
『私にもできることはありませんか?』
都合のいいことに、月食の夜、珪己にそう訊ねられた時の事が思い出された。
『私にもあなたのためにできることは何かありませんか……?』
あの夜、潤む瞳で言い募る珪己に、仁威はたまらず吐露している。俺もただの男なんだ、と。お前だけじゃなくて弱い自分を護ろうとしていただけの愚かな男なのだ、と。
それに珪己は泣き笑いの表情になった。
そしてこう言った。
私も同じですよ――と。
『私たち、同じです。お、同じなんです。罪があろうがなかろうが……私たち、同じ人間なんですよ……?』
先ほど立ち入ったばかりの悟りの領域に、突如一筋の光が差し込んだ。
(……もしも誰もが愚かな存在なのだとしたら?)
それは初めて考える題目だった。
(もしもどんな人間でも同じだとしたら? どのような生まれでも、どのような生い立ちや境遇でも、どのような成果をあげていようと……どのような罪を背負っていようとも)
(もしも人間とは愚かな生き物なのだとしたら? 誰もが不完全で完璧ではなく、清らかでもなく正しくもない一面を有しているのだとしたら?)
頭上を覆う木々の一部がにわかに大きく揺れた。ざわざわと揺れ動く枝葉の奏でる音はまるで遠い昔に耳にした大海の潮騒のようだった。
そして仁威はさらなる境地に達していった。
(この世界は……途方もなく広い………)
(そして俺が得られるものも成し得ることも、この世界に比べればなんと小さいことか……)
こうして寝転がっていると、海にただ一人浮かんでいるかのようだ。小さい頃、仁威は近場の湖でよく遊んでいた。そこは少し泳げば岸に着くようなごく小さな湖だったが、ここは海のようだと仁威は思った。見渡すかぎりなにもない大海のような場所だ、と。
(……この世界は俺には広すぎる)
これまで経験してきたすべての過去、そこから得たすべての知見、そして理解できたと思い込んでいた人としての道、絶対的な正しさ――その何もかもが無価値に思え、仁威はたまらず目を閉じた。
(もう何も見たくない)
(もうどこにも行きたくない)
(もう一歩も歩きたくない……)
仁威をここまで突き動かしてきたすべての物が、まるで正体不明の巨大な渦に吸い込まれたかのように――消えた。
次話から最終章です。




