5.なんのために子を産むのか
誰かに呼ばれた気がして仁威は足を止めた。
だが振り返っても人の姿は皆無だった。
常に張り詰めている神経をより鋭利にする。辺りを注意深く見回す。だがやはり自分以外の人間の存在は周囲には見当たらなかった。
冷たく乾いた風が地面で渦を巻きながら通り過ぎていく。
去りゆく風とともに気が緩みかけ、仁威は深い吐息をついた。だが、息を吐く、そんな些細な動作にも負荷を感じるようになってしまっている。
(……そろそろ疲れがたまってきているようだ)
零央の街から出立して以来、仁威は一度も屋根の下で睡眠をとっていない。それどころか心が休まるような時間をとる機会すらもたなかった。唯一、浅い睡眠だけが心身を癒す手段で、幸い飲食には困っていないが……そろそろ認めざるを得ない状況にあるようだった。己の限界に近づきつつあることを。
だが今は目前にある成すべきことを成さねばならない。そう、仁威はとうとう桔梗の住んでいた村にたどり着いたのであった。桔梗の家族はこじんまりとした村のはずれに住んでいて、家の前に立つと、言葉にしがたい感傷を覚えた。
(これで、ようやく……)
とはいえ仁威の心中には、喜びや達成感といった、単純かつ晴れやかな感情は見当たらなかった。それどころか両肩にはいっそうの重みを感じ、頭には軽い痛みを覚えたほどだった。
それでも心の淀みを無理やり押さえつけ、戸を何度か叩くと、
「……なんですかい」
ひどくゆっくりと戸が開かれ、髪の半分が白く染まった中年の男がうっそりと汚れた顔をのぞかせた。
赤黒く荒れた肌には無精ひげがまばらに生えており、薄く開いた口元からは欠けた前歯が見える。おどおどと見上げてくる両目は黄色く濁っており、おそらく病気もちなのだろうと見て取れた。一見して典型的な貧困層の身なりだと言えよう。
だが、どことなく男の容貌にはあの美しい桔梗の面影が見えた。
頭から外套をかぶり、鋭い両の目だけを出し見下ろしてくる仁威に気圧されたのだろう、目が合った途端、男の腰がさらに低くなった。
「すんませんねえ。正月にならないと金はできないんですよ。娘が帰ってくるまで待ってもらえないですかねえ」
こちらが何も言わない内にこびるように言い募ってきた父親の息は酒臭かった。
「俺は環屋の使いの者だ」
早めに訂正しておくべきかと、仁威が事実を告げたところ、
「……へ? もしかしてうちの娘が逃げたとかじゃないでしょうね」
男は素っ頓狂な声を出し、やがて段々と怒りをあらわにした。
仁威は懐から芙蓉の文を取り出した。
「これを読んでもらえば分かる」
淡々と事実だけを述べよう、そう決めて仁威はここに訪れていた。言葉を重ねることは自分のすべきことではないからだ。だが男は文を受け取るどころか、今度は一転、分かりやすくうろたえた。
「俺は字は読めないんでさあ。済まないが読んでもらえないですかね」
いつの間にか、男の後ろに一人の少年が近づいて聞き耳を立てていた。こちらは探らなくてもよく分かるほどに桔梗に瓜二つだった。涼やかな顔つき、細長い首、南の人間の割には色の白い肌、小さな唇。年の頃は十二、三といったところか。
仁威は文を開くと、そこにしたためられている通りに読み上げた。この時まで仁威は芙蓉の文に目を通していなかったが、案の定、そこには感情や詳細を排除した事実の羅列のみが記されていた。つまりは店の客が暴れて桔梗を殺したこと、その荼毘は店の方で手厚く葬ったこと、桔梗のこれまで貯めた金に心づけ程度ではあるが店の方からも足して届けさせること――。
男は黙って話を聞いていたが、やがて当初のへりくだるような態度は幻だと言わんばかりにふてぶてしい表情になった。そして仁威が文を閉じるや薄汚れた手を突き出してきた。
「じゃあその金を早く渡してもらおうか」
言葉の端々に焦りと期待、それに怒りが読み取れる。
仁威が懐から金の入った袋を取り出し男の手に載せると、男は恐ろしく素早い動きで袋の紐を解いて中身を己が手の上にぶちまけた。銀や銅でできた貨幣の山は、このような田舎の村で傾きかかった家に住む者にとっては相当な大金だが、男は恐縮するどころか仁威に食ってかかってきた。
「これっぽっちなんですかい」
「……は?」
「娘を殺されたっつうのにこれっぽっちしかもらえないんですかい」
ぐらぐらと煮えたつような男の視線を受け、仁威はもう一つの袋をその手に載せた。それは仁威がこれまで稼いだ金の大半で、これからの余生のごとき隠匿生活を送るための貴重な資金だった。
だが男はその袋の中身も容赦なくぶちまけた。それによって最初に積まれた金の山は幾分か高さを増した。だが男はこれにも満足しなかった。
「もっとないんですかい」
「すまない」
実際、仁威は他には貨幣を一枚たりとも所有していなかったのである。
しばらく仁威を睨みつけていた男だったが、やがて「ふん」と鼻息荒く背を向けた。
「紫明がくたばったっていうんなら仕方ないな。次はお前だ」
この一言に、ずっとこちらの様子をうかがっていた少年の顔がこれ以上はないというほどに白くなった。だが少年は気丈にうなずいた。
「……分かってる」
「ちょっと待ってくれ」
突如この場に満ちた不穏な空気に、仁威はたまらず口をはさんでいた。
「それはどういうことだ。それにあの女の妹はどこにいる」
仁威は懐に手を入れた。
「これを妹に渡してやりたいのだが」
それは木彫りの簪だった。仁威が仕事の合間に簪を作る様子を眺めていた桔梗が、見よう見まねで妹のためにこしらえたものだ。完成したのは桔梗が亡くなる前日のことだった。
『どう? すごいでしょ?』
得意げに胸を張ってみせた桔梗は年相応の朗らかで明るい女の顔をしていた。それほど手先が器用ではないようで、桔梗が作った簪は『私も桜にしたの』と言われるまで何を彫ったのか分からないほどだった。
だが、それでも――桔梗はその簪を手に新年の帰郷に想いを馳せていたのだ。早く妹と弟に会いたい、と。
『弟には砂糖菓子を買ってあげるって約束してるの』
と、気づいた。
(土産を用意していたのは妹と弟だけなのか……?)
仁威が悟ったのと男が吐き捨てるように言ったのはほぼ同時だった。
「紅明はもう売っちまった」
「……なんだと?」
「紫明の金だけじゃ足りなくて売っちまった。もうだいぶ前のことさ」
振り返りざま、男が大きく体を揺らがせた。よほど酩酊しているのだろう、足をもつれさせ、手の上に載せていた貨幣を数枚足元に落とした。
「文句あるかあ? 俺は俺のやりたいようにやるんだよ。俺の子は親である俺のもんだ」
「それは違う。親も子もただの一人の人間だ」
仁威の毅然とした否定は即座に一刀両断された。
「んなわけあるか。だったらどうして親は苦しい思いをしてまで子を産み育てるんだ? 自分のものにならないのに苦しむなんて馬鹿のすることだろう。違うか?」
射貫くような視線は、学のない酔っ払いのくせに鋭く仁威の心をついてきた。
仁威には子はいない。だが親子の感情は理解している。自分にも子供時代はあったからだ。
いや――理解しているつもりだったのかもしれない。
「人間っつうのはな、自分のために子を産むんだよ」
酒臭い息をまき散らしながら述べられていく見解は、仁威には到底理解できないものだった。
「いや、そんなことはない」
男の背後でうつむく少年のことを気にしつつあらためて否定したものの、この男には一向に響かない。それどころか挑むようにつっかかってきた。
「はあ? じゃあなんのために人間は子を産むんだ。言ってみろよ! 跡取りにする、身の回りの世話をさせる、金にする、それ以外のためになんのために子を産むんだよ!」
「人間も動物と同じだからだろう。それ自体に意味はない。男と女が寄り添えば子ができることもある、それだけだ。だが人間は生まれ出た瞬間から確固たる一個人だ。誰もが等しく幸福に生きることができるべきだ」
言いながら、仁威は己が言葉に矛盾を見つけていた。
(……だが俺は本心からそんなことを思ってはいない)
人は真に平等ではない。生まれながらに尊ばれる者がいるということは虐げられる者もいるということも認めなくてはならない。どんなに慎重に生きていても失敗をすることはあり、罪の重さによっては残る生涯を罪をそそぐために捧げなくてはならないこともある。その時点で罪びとは幸福を求めることがゆるされなくなる……まさに自分のように。
楊珪己が開陽に戻らなくてはならないのも、己が今生を忍ぶように過ごさなくてはいけないのも、つまるところはそういうことなのだ。
この愛を封じなくてはいけないと仁威が決断した理由も同じだ。つまりは己が幸福を何かと比較する必要があって、かつ劣っていたからに他ならないのだ。
視界の片隅で少年はうつむき佇んでいる。よく表情は見えなかったが、その静けさもまた仁威には到底理解できなかった。諦め、受け入れ、すべてを捨てる覚悟を決めた――そんな達観した雰囲気はこの年頃の少年には不釣り合いにすら思えた。
「お前さんの言うことが本当ならよ、なんで俺らはこんなに貧乏であいつは妓楼で殺されなくちゃいけなかったんだよ」
問われたことに仁威が答えを導く時間は与えられなかった。
「俺だって真面目にやってきたさ。ちゃんと働いてたこともある。悪いこともしなかった。なのになんでこんな風になるんだよ。なんでこんな惨めな暮らしをしなくちゃいけないんだよ。ああ?!」
何も言い返すことができないうちに、目の前の戸は乱暴に閉められた。




