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4.会いたい

 この世界には自分一人しかいない――そう錯覚してしまうほどの圧倒的な孤立感が押し寄せてくる。


 開陽を出て以来、珪己はこのような気持ちになったことはなかった。苛立ちや不満、苦しみや悲しみは感じてきたが、こんなふうに心細さに身をすくませてしまいたくなったのは初めてのことだった。


 体の奥底から何かが沸き上がってくる。


「もう……やめて……」


 渦巻く何かが喉の奥からこみあげてくる。


「もう誰も私のことを振り回さないで……お願い……」


 しかしどんなに訴えても、珪己の内に目覚めた感情はおとなしくなろうとはしなかった。


「どうしてこんなことになったの……? どうして……?」


 問いかけは正面から強く吹きつけてきた風にあっさりと飲み込まれた。


 風は情け容赦なく珪己の体温をも奪っていった。手はかじかみ、唇は青くなり、雪が付着した髪は硬く凍りついていった。それでも珪己はそこに立ち尽くした。引くことも進むことも……できずに。


 ここには誰一人知っている人はいない。

 この苦しみを解きほぐしてくれる人も……どこにもいない。


(どうして?)

(どうして……?)


「……仁威、さん」


 たまらず呟いた最愛の人物の名もまた、突風にあおられて音にはならなかった。目を開けていられないほどの強風は雪を多分に含んでいて、無数のつぶてのように珪己を打ち付けてきた。それが泣きたくなるほど痛くて辛くて……それでも珪己は家の中には戻れなかった。いや、戻ろうとはしなかった。


 もはや誤魔化せなかったのだ、その人を渇望する強い気持ちを――。


「あなたは今、どこにいるんですか……?」


 何もかもが雪に覆われた場所で、まるで自分の人生そのものが迷いこんでしまったかのようなこの場所で、珪己はもっとも強い願いを呟いていた。


「会い、たい……」


 口にすることで願いは急速に力を増していった。


 心の奥の方から願いが、想いがぐいぐいと突き上げてくる。寒さが気にならないほど体が熱くなってくる。心の奥底で昏々と眠っていた恋情は、目覚めるや、驚くほど強じんなものとなった。そしてあっという間に珪己のすべてを支配してしまった。


 恋しいという純な想いに、相手への恨みがましい気持ちまでもが芽生えてきた。何の連絡も言付けもなく、簪だけを残して行方をくらましたあの人への恨みが――。


 今すぐ問い詰めたい。

 なぜ自分を置いて行ってしまったのか、納得いく答えが得られるまで問い詰めてやりたい。


 きっと何も言わないだろうけれど、それならば胸に縋りついて思いきり強く叩いてやりたい。

 叩きながら糾弾してやりたい。


 どうしてですか、と。

 ずっと一緒にいたのにどうしてですか、と――。


 だがその理由は当に分かっている。環屋での事件をきっかけに仁威や珪己の素性が明るみにでることを恐れたからだ。芯国の王子の件が解決し、かつ開陽が安全になるまでは身元を隠し身を潜めている必要があるからだ。――そんなことは当に分かっている。


 分かってはいる。

 分かってはいるけれど……。


 それでも……。


 私はこんなにも寂しくて辛いのにひどすぎるじゃないですか、そう大声をあげて抱きつきたい。


 どうして私も連れていってくれなかったんですか、そんな風に簡単に離れてしまえるなんて冷たすぎるじゃないですか、と、あの人が困るくらいに責め立ててやりたい。


 いいや、違う。

 そうではない。


 会いたいのだ。


 ただ一目会いたいだけなのだ。


(もう何も……考えられない……)


 たまらず目をつぶれば、雪景色を背にした仁威の幻が瞼の裏側に浮かんだ。


 鍛えあげられた体、揺らぎのない体幹、たくましい腕を組んで珪己に向かい合う青年――。

 彼の意志の強い瞳がこちらを睨みつけるかのように鋭いのは相変わらずだ。

 だがそこには彼のもう一つの姿、思慮深く慎重な性格も映し出されていた。


(会いたいよ……)


 この人のそばにいれば間違いはない、そう心から信じられるようになったのはいつからだろう。開陽にいたときからだろうか、それとも零央に住み出してからだろうか。


(……そうだ)


 突如、珪己は悟った。


(すべては繋がっているんだ!)

(すべては繋がっていて、だから私はあの人のことを……!)


 ゆるやかに夏の幸せな一夜のことが思い出されていく。


 仁威の手をとって語りかけた自らの言葉が正確に思い出されていく――。


『大使館で私を助けてくれたのもあなたです。開陽から私を連れ出してくれたのもあなたです。それからずっと、ずっと私のことを護ってくれているのは、他の誰でもない、あなたです。あなたが何者でも関係ないんです。たとえ……たとえ過去に私の家に起こった事変にあなたが関係していようとも』


 あの一言を発した瞬間に――この恋はさだめられていたのだ。


『私は剣をとることで八年前のことを乗り越えようとしてきました。剣なしでは、ただ息をしているだけの人形のような私だったはずです。……私、ずっとあの時の人に感謝して生きてきたんです。私に剣を持つ道を気づかせてくれてありがとう、私を強くしてくれてありがとうって……』


(そうだ、私はあの人を好きになるしかなかったんだ……!)


 珪己は気づいた。


 ――気づいてしまった。


 だが理性的な自分はこう反論する。いずれ開陽に戻らねばならない自分と、二度と開陽には戻らないと決めているあの人との間には同じ未来などあり得ない、と。


 上級官吏の娘であり皇帝の子を身ごもった自分と、元武官であるあの人との間には、同じ時を過ごす未来などあるわけがない、と。


(でも……会いたいよ……)


 離れ離れになり音信不通になり、すでに二つの季節が巡ってしまっているけれど。

 遠く離れた土地で彼の人はすでに別の生き方を選んでしまっているかもしれないけれど。


 もう二度と零央に戻ってくることはなくて、このまま二度と会えないかもしれないけれど。

 それより何より、女嫌いの彼の人が自分と同じ想いを抱いてくれる可能性は皆無だろうけれど。


 だけど――。

 それでも――。


(今すぐ会いたい……!)


 どうしてここまで複雑なことになってしまったのか、その理由が珪己には分からなかった。晩夏に具合が悪くなったと思ったらあっという間に瀕死の状態に陥り、かと思えば気づけば夏は終わり、秋を飛び越え、冬になってしまった。


 そして今、なぜかこんな山奥に一人でいる。


 しかも腹に子を宿して。


 珪己の口が小さく開かれた。だがためらいの後、もはや一言も発せられることなく閉じられた。もう何も言うことはなかった。できなかった。言葉すらこの場を支配する冬の魔物に奪われてしまったかのように――。




 珪己の肩にそっと外套がかけられた。


「そろそろ中に入った方がいいぞ」


 両肩に感じる温もりはどこにいても自分一人で生きているわけではないことを思い出させた。


 そう、いくら心細くても孤独を感じても、珪己は一人ではなかった。それは氾兄弟のことだけではない。この街でずっとそばにいてくれたのは晃飛だし、宿の夫婦や芙蓉にも世話になった。開陽には父や家人がいるし――この国のどこかには仁威だっている。


(私は一人じゃない、一人じゃないんだから……)


「泣きたいならあったかい部屋の中の方がいいぞ。ここだといくらでも気持ちが落ちちゃうからさ。な」


 ぽん、と肩に置かれた空也の手は優しかったけれど、珪己はしばらく振り返ることができなかった。



 *


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