3.無力
胃袋が満たされたら眠くなるのはこのところの習慣なのだろう、少女は「すみません」と何度も小さく頭を下げながらもよたよたと寝室へ戻っていった。だがその目がややうるんでいることに二人はそろって気づいていた。
「……兄貴さあ」
片づけを終えたところで空也が言った。
「あの子のこと品定めするような目で見るのやめろよな。恥ずかしいだろ」
空斗は椅子に座ったまま腕を組んでいる。それは少女が退室した直後からずっとだ。
「何がそんなに気にくわないんだよ。俺は自分のことは自分で判断できるって言っただろ」
「……本当のことと嘘のことが入り混じっている」
「はあ?」
「呉珪亥という名はおそらく嘘だ。だが他のことは概ね本当のことのようだった。なのに兄弟の話は言いにくそうだった。よく分からない女だ」
「まったく……」
腰に両手を当て、空也が深いため息をついた。
「兄貴ってすぐそうやって色々考えたがるよな」
「気になるんだから仕方がないだろう。それに武芸に通じているというのもひっかかる。この国にそんな女がいるなんて俺は一度も耳にしたことがない」
難しい顔を崩そうとしない兄に、空也があっけらかんと言った。
「俺も知らない。だけどいいじゃないか。本当でも嘘でも」
「どうしてだ?」
「どっちだって何も変わらない。俺たちには何の弊害もない。そうだろ?」
この狭い家で三人で暮らしている分には。
「狂暴でないあの子になら俺たちが負けることは二度とない。違うか?」
「……まあそうなんだけどな」
大きなお腹を抱えてよたよたと歩く姿には、初めての夜のような俊敏さはかけらもなかった。もじもじと遠慮しつつ雑炊を口に運ぶ所作、さじの持ち方などには上品さすら感じられた。剣を持ち闘うよりも美しい花を愛でている方が似合いそうな少女だ。
二人は貴族とか豪商とか、いわゆるいいところの人間とは関わったことがない。でも、だからこそ、少女の言動の一つ一つから自分たちとは違う世界の人間なのだろうとあたりをつけたのだ。
「でもたとえあの子がお姫様だったとしても、雪がもう少し収まらないとどうしようもないぜ。誰もここに来れない」
「まあな」
「でもまあ、もう少し雪がやんでくれるといいな」
この時だけは空也が遠い目になった。
「このままだとここで俺たちが赤ちゃんを取り上げなくちゃいけなくなる」
*
兄弟二人に詮索されているとも知らず、珪己は昼も兄弟二人と居間で食事を摂った。
本当はあんまり接しすぎると隠しておきたい様々なことを訊かれそうで怖い。珪己にもそのくらいは察せられている。だが室にこもっている方がよっぽど非人間的だとも思っていた。
世話になっているのだから、できるかぎり誠実に付き合いたいし向き合いたい。それより何より、秘密を抱えているとはいえ嫌な人間にはなりたくなかったのである。
食後、茶を飲んでいると「誰か連絡を取りたい人はいないのか」と空斗に訊ねられた。
「年が明ける前に連絡を取りたい人間くらいいるだろう」
それに珪己は晃飛についてのみ正直に伝えた。
(……たぶん私、晃兄に黙って家を出てきたんだろうな)
晩春以降の記憶が曖昧なように、その直後のことも珪己はよく思い出せないでいる。ずっと黒だったものがすぐに白に戻れないように、じわじわと段階を経て珪己の記憶力は正常に戻っていく最中にあった。
(……晃兄、きっとすごく心配してるんだろうな)
そう思ったら居ても立っても居られなくなってきた。
「……珪亥?」
何を差し置いても零央に戻らなくてはいけないのではないか。体調だとか天候だとか、そんな言い訳を並べ立てていないで今すぐ戻らなくてはいけないのではないか。
「おーい、どうした?」
早く戻らなくては。
いや――戻りたい。
(私の家はあそこなんだから。晃兄は家族なんだから……!)
ふいに正面から鋭い視線を感じ、珪己ははっとした。
「どうした?」
「い、いいえ」
また空斗から見定めるような視線を受けていることに気づき、珪己は動揺を押し殺してかぶりを振った。
「なんでもありません。あの、ごちそうさまでした」
珪己は茶を半分残して席を立ちあがると、内心急かされるように玄関へと向かっていた。寝室ではなく、玄関へと。「ちょ、どうしたの?」と、背後で慌てる空也の声も無視して。
だが戸を開け、一歩外に出た瞬間――。
「ああ……」
珪己はたまらず深いため息をついていた。
一瞥しただけではっきりと分かってしまったからだ。
今の自分では山を下ることは、晃飛のもとへ戻ることは不可能だ、と――。
それでも、二歩、三歩と、珪己の足は自然と雪景色の中へと進んでいった。ばたん、と強風にあおられた戸が背後で勢いよく閉まる音がしたが、その音も重い雪の中に吸い込まれて一瞬でかき消えた。
雪は今や膝のあたりまで積もっていた。兄弟が雪かきをした部分だけは小道ができているが、それ以外、四方八方見渡す限りが白銀に覆われている。踏みしめられた跡が一切ない滑らかな雪の表面は遥か遠くまで続いていて、途方もない距離を想像すれば眩暈すら覚えた。
幸い吹雪はおさまり雪は止んでいる。だが常軌を逸する強風が大気中で暴れまわっていて、木々を揺らし積もる雪を無尽蔵にまき散らしていく様には息を飲むほどの迫力があった。それはまさに自然の狂暴さを具現化したかのような光景だった。
晃飛に会いたいと願った衝動も、極寒の中にいることも忘れ――珪己は呆然と立ち尽くした。
だが、ふいに。
足元に積もる雪が風にすくい上げられ、宙に放たれた。
舞い上がる雪はまるで小さな蝶のようだった。きらきらと、ひらひらと。だがその様は美しいというよりも恐ろしいという感情を珪己に芽生えさせた。ここでは人は無力なのだと、そういう場所に自分たちはいるのだと、その抗えない事実を実感させられたのである。




