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2.ほどけていく会話

「君のお兄さんって何歳なの? あ、君とかじゃなくて名前で呼んでいい?」


 生粋の能天気さでぐいぐい話を進めていく。


「あ……もちろんいいです」


 躊躇してしまったのは呉珪亥という名が偽物だからだ。


(そういえば……)


 偽名しか知らないのは逗留していた宿の夫婦と芙蓉、韓という名の医師、それにあの一度きりしか会っていない産婆さんくらいだったな、と思いを馳せたところで、誰にも偽名で呼ばれたことがないことにも思い至った。


 そんなことを考えていると、不意打ちで偽名で呼ばれた。


「よろしくな、珪亥。あ、俺のことも空也って呼び捨てでいいから」


 その名で呼ばれた瞬間、珪己は申し訳なさでいたたまれなくなった。


 長い間世話になってきたのに、名前一つ打ち明けられないでいる自分――。


「よろしく……お願いします」


 他には何もできることはないから珪己はまた頭を下げた。腹の上までしか下げられないと分かっていたが、それでも下げた。


 これ以上真正面から空也と会話と続けることが……苦しい。

 自分がどんな顔をしているのか……まったく自信がもてない。


「あ、俺台所で鍋見てくるわ」


 空也がぱっと立ち上がった。


「そろそろできたと思うんだよなあ。椅子に座って待ってろよ」


 さささっと立ち去るその速さに珪己が半ばあっけにとられていると、


「ほら。座れよ」


 こちらもいつの間に立ち上がったのだろう、空斗がかなり高い位置から珪己を見下ろしてきた。その言い方に威圧的な雰囲気を感じた珪己は、


「は、はい」


 返事をしつつすぐに立とうとした。


 だがうまく均衡をとれず、浮かせかけていた尻はすぐに床についた。床に直に座った状態から立ち上がる――妊娠後期の女にとってはやや難易度の高いこの行動が、今の珪己にとっては非常に難しかったのである。


 妊娠したという事実に正気の状態で向き合ったのはこの家に来てからで、だがそれ以来、珪己はほとんどの時間を寝台で過ごしていた。寝るのはもちろん、食事も会話も何もかも。当然、立ったり座ったりといった動作も寝台を使った楽なものばかりだった。


 初めての状況、局面に体も頭もついていくことができずにいる。


(重量が増えたのは腹の方なのだから……)


 珪己は少し考えると背後寄りの位置で床に両手をついた。そうやって支えながら、じわじわと重心をあげていく。その様子を空斗は黙って見ている。このままではうまく立てない、そう気づいた珪己が片手だけをついて姿勢を変えつつ再挑戦する間も、空斗は手を貸すこともしなかった。それどころか腕を組み、まるで観察するように不躾な視線を投げかけている。


 ようやく立ち上がった頃には珪己の息は幾分速くなっていた。


 逆に目的の椅子に座る時はあっけなかった。無理な体勢も過剰な力も、何もいらずに簡単に座れた。文明の利器というほどのものでもないのだろうが、今の珪己を感動させるには十分だった。


「はあ……。やっぱり椅子って便利ですねえ」


 腰を落ち着けての第一声に、遅れて向かいに座った空斗が軽く目を見開いた。その理由は簡単に想像できたから、珪己は体をすぼめて小さく頭を下げた。


「子供っぽいことを言ってすみません」

「……いや」


 否定の言葉を聞くまでに時間がかかったことから、本心からそう思ってはいないのだろうことは推測できた。だが当然のことか。


「街に住んでいたんだって?」


 ようやく会話らしい会話が始まった。


「は、はい」


 空斗の目つきも表情もいまだ硬く、有り体に言えば尋問するような口調だった。そのため、せっかくほどけかけていた珪己の心は再度緊張によって張りつめた。


「どの辺りに住んでいたんだ」

「ええと……」


 普通の人間にとっては簡単な問いだろうが、珪己にとっては違う。


「なんだ。言えないのか?」

「あ、いえ」


 剣呑な空気が漂い、珪己はとっさに打ち明けていた。


「言えないんじゃなくて……その、まだ零央に住んで日が浅くて、それでなんて言えばいいかが分からないんです」

「……なるほど」

「街の中央辺りなことは確かなんですけど」


 言い添えると空斗の態度がわずかに軟化した。


「いつから零央に住んでいるんだ」

「夏になる前……あ、でも零央に来てしばらくは宿に泊まっていたんです。西の方の。肉麺がおいしい食堂の隣の……」

「それは杜々屋(ととや)か?」


 割り込んできた空斗に、珪己は思わず顔を綻ばせた。「わあ」と両手を叩きながら、


「そうです。よくご存じですね」

「俺たちもあそこにしばらく泊まっていたんだ」

「あ、じゃあお二人もここに昔から住んでいるわけではないんですね」

「俺たちも夏に零央に来たばかりなんだ。ここに移り住んだのは秋口だ」

「でもこのあたりって雪深いし人里からも遠く離れているんですよね?」


 これは空也から聞いて得た知識だ。


 確かに窓の外から覗く光景はいつでも雪景色ばかりだ。と、いうよりも、雪の色しか見えない。凄まじい吹雪がつづいていて、形あるものが一切視界に入らないからだ。たとえば、ここは標高の高い山に囲まれているはずなのに、珪己はまだその姿を一度も拝むことができていなかった。


「何もないここにどうしてわざわざ越してきたんですか? しかも寒くなる前に」


 当然の珪己の問いに、


「それはこいつに訊いてくれ」


 立てた親指で空斗が背後を示した。つられて珪己が視線を移すと、ちょうど向こうから空也がやってくるところだった。片手に鍋、もう片方に食器を重ねて器用に持って。


「なになに? 何の話してたの?」

「どうして俺たちがここに住み始めたのかって話さ」

「それはさ」


 空也が給仕をしつつ答えていった。


「俺が雪の中で暮らしてみたいって言ったからなんだ」

「……それだけ、ですか?」


 まるで世捨て人のようなことを言う三つ年上の青年だが、


「俺さ、砂南州出身なんだ」


 続けられた話には「なるほど」と合点がいった。


「あそこは雪はめったに降らないみたいですもんね」


 当時の交通網や社会の構造を踏まえれば、この国は無限に広く――それゆえ、ある土地に住む者が他の土地にあこがれるというのはよくあることだった。そのうち、雪と海、砂漠と山脈、それに首都、それと他国――このあたりは最たる憧憬の対象だったのである。


「俺、砂漠とか蜃気楼は見慣れているんだけどさ。こう……吐く息が白いのとか、雪で一面真っ白な景色とか、一生に一度は見てみたかったんだよね」

「へえ……!」

「今は時間だけはたくさんあるから、やりたいこと全部やってやろうって思ったってわけ。な、兄貴?」


 はい、と空也が手渡した椀を受け取る空斗は苦笑いだ。


「何言ってるんだ。お前が行きたいっていうから来たんだろうが。俺は別にそこまで雪を見たかったわけじゃないからな」

「そっちこそ何言ってるんだよ。雪が降って以来、毎日雪玉投げて遊んでるくせにさ」

「お前がやりたいって言うからつきあってるんだろうが!」


 心外だとばかりに声を大きくした空斗に、「またまたあ」と空也が大げさに驚いてみせる。


「本当は楽しいくせに。な、珪亥ももう少し体調が良くなったら外に散歩に行こうぜ。家の周りだけは毎日雪かきしているから歩けるしさ、すぐ近くに湖もあって、さっきも見てきたら九割がた凍っていたから滑って遊ぶこともできそうだ」


 いわく、二人はその湖で生活用水を汲んだり魚を釣っているそうだ。なるほど、ここでの雪かきとは遊ぶためだけのものではなくて生活に必須の作業なのだ。


 珪己が居間に入った時、二人は寝起きの顔ではなかった。何かしら充足感に満たされた顔をしていた。その理由はこれだったのだ。


「はいどうぞ」

「ありがとうございます」


 渡された椀を受け取ると、ほかほかとした温かさが手の平を介して伝わってきた。中身は麦と根菜が中心の雑炊で、ところどころに見える葉物の緑の色鮮やかさと相まって見るからにおいしそうだ。


「いただきます」


 だがさじで掬って口に入れるとどの食材もいまいち硬く、柔らかい食感に慣れきった珪己の顎には負担となるものばかりだった。葉物だけはいったん乾燥させたものを使っているのだろうが――野菜が採れない季節、地域における一般的な保存方法だ――鍋に投入してすぐに火を止めてしまったのか、味が染みていないし飲み込みづらい。


(……でも私のために急いで調理してくれたんだよね、きっと)


 そうと気づけば、まだ熱を十分に含んでいる雑炊はことのほかおいしく感じられた。




 *


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