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1.不協和音

 さて、氾兄弟が拾った妊婦の少女というのは、当然楊珪己のことである。


 珪己がようやくまともに人間らしい思考ができるようになったのは、年の瀬も近い頃だった。つまり、それまではこの山奥の家でただ食べて寝るだけの日々を過ごしていたことになる。


 と、表現すると、それでは未知の存在に操られていた時と同じように感じられるだろうだが、その実、同じようでいてまったく異なっていた。つまり限界だったのである。


 晩夏から盛冬まで、珪己は平静を保つことを何者かに強制されていた。思考や心を操られ続けていた。それが突然、何の脈絡も合図もなく自らのもとに主導権が返されたのである。多くの人間が当たり前のものとして有する、自らの意志で考え動く権利を。


 その結果、考えるべきことが怒涛のように押し寄せ――やわな心は浸食されるや壊れてしまった。それもそうだろう、長い間使っていなかったせいで珪己の心はちょっとの衝撃にも耐えられないほどに弱ってしまっていたのだ。


 だから重圧に簡単に折れてしまった。


 そして真冬に、この年初めての吹雪の中を歩き回り、気を失って――体の方への影響も相当なものとなった。


 ではなぜこんな山奥に来てしまったのか。それは珪己にも分かっていない。世話になっている兄弟の弟の方いわく、「そこらの茂みの中で倒れていた」そうなのだが、よくよく話を聞いてみれば、倒れていた場所と零央の中心部――つまり晃飛の自宅付近――までは若く健康そうな二人の足でも三刻はかかる距離なのだそうだ。


「それだけ腹がでかくて、しかもこの辺の地理に詳しくないのに。なんでこんなところまで来たんだろうな」


 心底不思議そうに言われたが、珪己に返せる言葉などなかった。


 それからの珪己はとにかくよく寝た。と言うよりも一日の大半は寝ていた。起きれば何かを取り戻すかのようによく食べたが、それもまた本能による行動だった。満腹になればほっこりとした気持ちになるしいい安眠剤にもなって一石三鳥だったのだろう。正気を取り戻した直後からは打ち身と筋肉痛に悩まされ、厠に行く以外には起き上がるのも辛いほどだった。


 とはいえ窓の隙間から見える景色は吹雪と豪雪以外には形のある物が見えないほどであったから、無駄に歩き回っても利はないことは珪己にも分かっていた。今はここにいるしかなかったのである。だから四六時中寝ていた。より深く検証すれば何等かの行動をとることもできたかもしれないが……思考を回すほどの気力も残っていなかった。


 寝込んでいる間、二人の兄弟のうち弟の空也だけが足しげく寝室に訪れた。食事や着替え、それに体を拭く水を持ってきたりと、まめまめしく世話をしてくれた。空也は気分転換を兼ねた無駄話を少しすると、いつでもあっさりと帰っていった。珪己の身の上やいきさつその他、一切詮索することなく。だから珪己もそれに甘えて養生することだけに務めていられた。


 空也は珪己が寝ている間にもよく訪れた。そのことは目覚めればすぐに分かった。雪を固めて作った意匠物が棚の上に置かれていたからだ。狐であったり熊であったり鴉であったり、子供が作るような可愛いものばかりが目覚めたら視界に入った。ちょこんと置いてあるそれらを見つけるたびに珪己の心は和んだ。花が咲いてないから代わりに、そう言った時の空也は少し照れていた。


 献身的な空也に接するうちに、珪己の中に充てんしていた負の要素はゆっくりと抜け落ちていった。本人が無意識のうちに幾度も爆発させた激しい感情も、自らを癒すことを自らにゆるせる程度には霧散していった。


 自分のことをもっと大切にしたい。


 数ある出来事が我が身に降りかかるたびに珪己が幾度も願ってきたこと、それは他人から与えられた労わりを受け入れることで改めて叶えられようとしていた。


 ただ。


 一人過ごしている時間にも、厳密には珪己は一人ではなかった。


 腹の中には今も命が育まれているからだ。


 覚悟も何もできていなかったのに突然つきつけられた命。今すぐ生まれてもおかしくないほど存在感を増した赤子。


 まだ生まれ出てもいないのに、自分とは異なるその存在は腹の中で四六時中活発に暴れた。昼夜かまわず痛いほどにうごめき、蹴り、うねってみせた。


(ああ、これが胎動っていうものなんだ……)


 実感したのは年の瀬もだいぶ迫った頃だった。



 *



 その朝、珪己はおそるおそる寝室から出た。厠以外の用事で外に出るのはこれが初めてだった。


 空也から借りている男物の服のまま、そろりそろりと狭い廊下を進んでいく。どこに何があるのか分からないし勝手に出歩いて大丈夫なのかと不安を抱えながら。


 だが杞憂だったようだ。すぐに暖かな居間にたどり着き、そこでは二人の青年が床の上の毛皮に寝転がって談笑していた。


 先に珪己の気配に気がついたのは兄・空斗の方だった。珪己は兄の存在を空也から聞いて知ってはいたが、実際に会うのはこれが初めてだった。背が高く思慮深そうな面立ちは、まだ十代の空也に比べて大人びて見える。


 だが先に珪己に声をかけてきたのは弟・空也の方だった。


「お、出てこれるくらいにはなったんだな。よかったなあ」


 はじけるような笑顔がまぶしい。


「は、はい。あの……ありがとうございました」


 いつもの癖、もとい習慣で深々と頭を下げようとした珪己は、大きな腹に阻まれて途中までしか腰を折ることができなかった。


「腹が減って出てきたんだろう? もうちょっとで雑炊ができるからここに座って待ってろよ」


 ぽん、と空也が自分の隣の領域を手で叩いてみせた。


「……すみません」


 応える珪己の顔が幾分赤らんだのは、実際、空腹を感じていたからだ。


 珪己がまごつきながらもおとなしく座るのを、空也はにこにこしながら見ている。


「あ、うちの兄貴とちゃんと会うのは初めてだよな」

「は、はい」


 ちゃんとってどういう意味だろうと思いつつ、


「あの、初めまして。ずっと顔も見せずに本当にすみませんでした」


 姿勢を正し床に手をついて頭を下げかけた珪己は、また膨れた腹に行動を阻害されてしまった。


 腹が大きいという事実になかなか慣れない。きちんとお礼を述べることも謝ることもできない。珪己はそっと唇を噛んだ。


「いいんだよ、無理しなくて」


 空也の優しさは言葉にしなくても伝わっている。伝わってはいるが……やはり同情されているようにも思える。それで余計に悔しさが募った。自分勝手だと分かってはいるけれど……。


「名前は?」


 ふいに兄の方が口を開いた。弟に比べて低い声音に、珪己はなぜか緊張を感じた。


「呉……珪亥です」

「年は?」

「……十六、です。あ、年が明けたら十七です」


 残る数日で十七になることを慌てて言い添えたが、空斗は別段何の感慨も抱かなかったようだ。代わりに空也が興味をひかれたようで、


「じゃあ俺とは三つ違いだな。ちなみに兄貴は年明けで二十三。俺たちさ、実は契りを結んで兄弟になったんだ」


 訊いてもいないのに年齢どころか義理の兄弟であることまで暴露してきた。


「あ、そうなんですね」


 この流れで和やかな雰囲気に持っていった方がいい、そう思った珪己はとっさに二人との共通点について口にしていた。


「私にも義理の兄弟がいるんですよ」

「へえ。お姉さん? それとも妹?」


 この時代、この国において、義理の兄弟というと普通は同性同士のことと考える。だから「兄弟」と言葉で伝えても「姉妹」と解釈されてしまったのである。


「いえ」


 根が正直な珪己は、これまた口が開くままに訂正した。


「私の場合は兄です。兄が……二人」


 口ごもってしまったせいではずみかけていた話がやや不協和音を奏でた。だが空也は珪己のためらいに気づくどころかいよいよ調子づいていった。

この作品の世界では年明けとともに年齢があがることにしています。なので誕生日という概念がありません。

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