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3.探り合い

 昇龍殿を抜け、初秋の強い日差しがさす外をいくらか歩けば、もうそこは武殿だ。普段、中書省のある昇龍殿で過ごすだけの祥歌にとって、枢密院のある武殿は心理的には他国のように遠い。しかも歩いているだけだというのに不作法な視線を常に感じた。いくつも、いくつも。


「ここでは女の上級官吏が物珍しいんですよ」


 前を歩く侑生の発言に、祥歌は「馬鹿らしい」と吐き捨てた。


「鳥獣園でもあるまいし」

「おや。馬侍郎は鳥獣園に行かれたことがあるのですか」


 三代皇帝の即位を記念して造られた鳥獣園は、貴青三年、つまり七年前に完成した園だ。ここで飼われている獣や鳥の多くは他国から親交の証として譲られたもので、というか、そういったものを収集し飼育する場が以前から必要とされていて、それゆえ国庫を利用して建てられたのである。ちなみに見栄えや格式のある園を作る必要性を提案したのは礼部である。


 祥歌が軽く鼻を鳴らした。


「馬鹿なことを言わないでください。行ったことくらいありますよ。私は礼部侍郎ですよ?」

「そうですね。いや、失礼」


 そう言った侑生からは珍しくも和らいだ気配が感じられた。顔に大怪我を負って以来、侑生は厳格かつ研ぎ澄まされた面を表に出すようになっていたからだ。人好きのする親しみやすい性格もまたこの青年の一面のはずだったのに、だ。


「あそこは男女の密会の場としてよく使われるそうですから」

「……は?」


 砕けた会話はおそらく故意に続けられている、そう分かってはいても一瞬思考が停止し目が点になった。


 本来、鳥獣園とは皇族や貴族、それに諸外国の重鎮が楽しむための場所なのだが、彼らが訪れない日は官吏にも開放されている。それは彼らから入園料を徴収することで園の維持費を賄うためなのだが、物珍しさも相まって高額にもかかわらず利用者はそれなりに多い。来る者のほとんどは複数人で連れだってやってくるのだが、その中に恋人との逢瀬を楽しむ者がいても不思議ではない、というわけだ。恋人と共に珍しい鳥獣を眺める――こんな非日常的かつ刺激的な体験は、いくら開陽が貿易の要としての機能を有しているとはいえなかなかできることではない。


 不本意な発言に祥歌の眉がひそめられた。


「私は色恋には興味ありませんから」

「ほお」

「あなたに信じていただく必要はありませんけどね」


 そんなたわいもない話をしているうちに二人は最上階の侑生の室にたどり着いた。


 室に入る瞬間、すぐそばで執務していた緋袍の青年二人がちらりと祥歌を見た。彼らはまず間違いなく枢密院事すうみついんじだ。若き李侑生の腹心の部下、これまた若き枢密院事二人のことを知らない官吏がいたらお目にかかりたい。この三人の青年は遠く中書省においても名を知られている。


(これはまた……李副史にお似合いの部下ですね)


 さらりと人物を見極めつつ、室に入るや適当な椅子にさっさと座った祥歌に、侑生は苦笑しつつも向かいに座った。


「嘘をつかなくてもいいのでは?」

「は? 嘘? 私は嘘などついていませんが」

「何を言ってるんですか。色恋に興味がないなどと嘘ばかり。あなたは袁仁威に惚れていたではないですか」

「な……!」


 予想外かつ的確に痛いところを突かれ、祥歌の目が大きく見開かれた。

 くくっと、侑生が笑った。


「恋に興味がないのではなくて、恋人がいないだけですよね」

「……あなた、よくよく失礼な方ですね」

「ああ、すみません。つい本当のことを」


 ですが、と侑生が続けた。


「今日こうして声を掛けてきたのは袁仁威の消息について知りたいからではないのですか」


 またも図星を突かれ、今度こそ祥歌は言葉を失った。


 時は金なりを地でいく祥歌がこのような劣勢に落とし込まれることはめったにない。常に複数の手を考え、どのようなことが起ころうとも手を緩めないようにして押し切る、それが祥歌のやり方だからだ。


 盛大に眉をひそめて見つめてくる祥歌からは、『なぜ分かったのか』と疑問符だらけだ。


 やれやれ、と侑生がわざとらしく肩をすくめてみせた。


「私は枢密副史ですよ」

「……あんな末端の武官まで監視しているのですか」

「監視だなんて大げさな」


 軽く鼻で笑われた。


「今朝、正門に立つ武官の一人から聞かされただけですよ。馬侍郎が第一隊の五人に囲まれて何やら騒いでいた、と」

「……なるほど。ばれて当たり前だったというわけですね」

「ええ。その五人がことさら袁仁威を慕っていていることもよく知っています。あなたに声を掛けたのは、以前あなたが武殿の食堂まで袁仁威を追いかけてきたことを覚えていたからでしょう?」

「追いかけたなどと! あれはよう珪己けいきに渡してもらいたいものを預けたかったからで……!」


 己の名誉を挽回するために力説を振るいだした祥歌だったが、急に様子が変わった侑生に気づき口を閉ざした。


「どうされたのですか」

「え? ああ、いえ。なんでもありません」


 指摘され、侑生は常のすました面持ちを取り戻した。


 眼帯さえなければおそらく官吏一の美丈夫であっただろうに……。そんなことをつい考えてしまった祥歌は、何が侑生に変化を及ぼした原因であるのか、そこまで考えるに至らなかった。


 楊珪己。


 楊という姓も珪己という名も、この国ではそれほど珍しくはない。

 だから祥歌は今でも珪己が楊玄徳の娘であることを知らない。


 なので当然知らない。


 侑生の婚約者である女性がかつての己の部下であったことを。

 春の一時、自分の元で濃紺の袍衣を身に着け走り回っていたあの少女であることを。


 何か掴むべきものが靄の向こうに見えたような気がしたが、祥歌がそれに目を凝らすよりも先に、


「それで袁仁威についてですが」


 侑生が話を元に戻した。


「彼は実家に戻ったようです」

「実家? どうしてですか」

「父親が亡くなったそうです。実家の稼業を継がねばならないと、問答無用で辞表を置いて出ていきました」

「実家とはどこですか。それに稼業とはどのようなものなのですか」


 祥歌の問いに侑生は「そこまでは把握してません」とだけ答えた。第一隊隊長であったとはいえ、一武官の細かい事情までは知らないのは――当然といえば当然だ。


「そうですか……」


 束の間考え込んだ祥歌だったが、すぐに次の行動へと出た。


「では。その袁殿の辞表を見せてください」

「馬侍郎」


 侑生が困ったように、諭すように笑った。


「それは無理です。礼部の管轄外ですよ」

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