6.兄貴は兄貴のままでいてくれ
「……ううっ」
顔を歪める少女の顔が次第に紅潮していく。
左の手首はまだいいが、首をねじ曲げさせられた状態は見るからにきつそうだ。真横以上に後ろに向かされているせいで、頬が背後の空斗の胸板に完全に密着してしまっている。しかも空斗は少女の顎を掴む指を滑らせて気道を圧迫し始めた。
「が、がはっ……」
「兄貴っ……!」
捕らえられた直後から、少女は空斗の右手――顎と気道を押さえている側――に爪を立てている。だが空斗は痛みを無視しているのか、それとも一切感じていないのか、出血までしているのに一切頓着していない。
いや、違う。
捕らえた敵を倒すことに意識が集中しすぎているのだ。
「俺はもうお前を傷つける奴をゆるさない……!」
ぎり、と空斗が歯を食いしばる音を鳴らした。
「あ、兄貴……」
見つめ合う二人の間に、つむじ風のようにこの晩春の記憶が流れ込んできた。
開陽の北のはずれ、鳳凰山を眺めるあばら家のごとき小さな寺。そこにいたのは憧れの近衛軍第一隊隊長でもなく、雲の上の存在である枢密使の娘でもなかった。やけに体格のいい二人の異人と、彼らに捕らえられ気を失った女僧がいただけだった。
そして青い目の異人が取り出したごく細い短剣――その刃が空を旋回した瞬間、空也の背は見事な直線で斬られたのであった。
あの時の痛みは日々薄れていくけれども――空也は確かに覚えている。
だがそれは空斗も同じだ。あの時の血しぶきの勢いも赤の鮮烈さも、苦痛に顔を歪ませ倒れた弟の姿も、空斗の脳裏には深く刻みこまれている。
そう、あの日の斬撃を空也が痛みと感覚で記憶したのに対し、空斗は視覚と映像で記憶してしまっていた。それゆえある部分は曖昧に、そしてある部分はより過剰に、空斗は記憶してしまったのである。
また、空也はこの時のことを我が身のこととしか考えていなかった。痛みも恐怖も当事者である自分一人のものだと捉えていた。……であればこの過去は自分一人で咀嚼する他ない。我慢し飲み込むことで苦しみへの耐性をつける他できることはない。もちろん言うほど簡単なことではないが、程度の差はあれ、この一件はあくまで自分一人の問題だと空也は考えていたのである。
だが空斗にとっては違った。
これは弟のことでもあり、また自分のことでもあった。
そして記憶が実際よりも過剰なものに変化しているとしたら――?
弟が大切であればあるほど、当時武官としての責務に忠実であったからこそ、より深く悩み苦しんでいるのは兄の空斗の方だったのである。
だから弟がやられる場面を目撃した瞬間、空斗の理性が吹き飛んでしまったのだーー。
そのことを空也は唐突に悟った。
「だめだだめだ!」
空也がたまらず叫んだ。
「兄貴、やめてくれ! そんなことをされても俺は嬉しくない!」
「嬉しいかどうかじゃない。俺がそうしたいんだ」
いつからだろう、見開かれた空斗の目は狂人のごとく瞳孔がひらいてしまっている。
「ずっと後悔していたんだ」
「兄貴……」
束の間、無言の時間が流れた。
はくはくと短い呼吸を繰り返す少女を間に、二人の兄弟は見つめ合っている。
先に沈黙を破ったのは空也の方だった。
「ごめん。そんなに兄貴のことを苦しませていたなんて……俺、知らなかった」
だがそこでかぶりを振った。
「……いいや、知ってた。ほんとは知ってたんだ、兄貴がそうやって苦しんでること。でも俺、一人になりたくなかったから……だから兄貴に甘えてたんだ。兄貴の罪悪感につけこんで。ほんとごめん……」
「いいんだ」
「兄貴?」
「俺はお前になら利用されてもいい。それでお前が少しでも救われるなら本望だ」
ふっと、空斗が充血した瞳で笑った。
「俺の罪悪感ごときでお前が救われるならいくらでも苦しんでやるから」
兄の見せた微笑みがあまりに痛々しく、空也は胸を突かれた。
「……俺、兄貴のことが好きだよ」
振り絞るような空也のつぶやきには切実な響きしか含まれていなかった。
「でも俺の好きな兄貴は今の兄貴とは違う。俺の好きな兄貴はその子を傷つけるような人間じゃなかった……!」
激しい思いを叫ぶや、空也が兄の腕をきつく掴んだ。
「早くこの手を放してくれよ! 俺の好きな兄貴はこんなことをするような男じゃないっ! この子はただの気狂いなんかじゃないよ、それくらい兄貴だって分かってるだろう?!」
「でもお前が……!」
「俺は自分のことは自分でどうにかする! どうにかできる! 俺は兄貴に護られたくて一緒にいたわけじゃないんだ! ただ一緒にいたかった、それだけだったんだよ……!」
真摯な弟の訴えにもいまだ迷う空斗に、とうとう空也が告げた。
「たとえこの子に傷つけられても殺されても、それは俺が悪いってだけだ」
「……なんだって?」
「兄貴は兄貴らしさを失わないでくれ。何があっても兄貴は兄貴のままでいてくれ。そして俺にも俺の誇りを護らせてくれ。頼むよ……この通りだ」
やがて――空斗の腕から力が抜けた。
その途端、羽交い絞めにされていた少女が力なく崩れ落ちた。すんでのところで少女を抱きしめた空也は、少女が気を失ってはいるものの息をしていることにほっと安堵の息をついた。
「兄貴……ありがとな」
「……全部お前のためだからな」
言い捨て、空斗が部屋から出ていった。
*
それから少女は三日間寝込んだ。吹雪の中長い間外にいたせいだろう、高熱が続き四六時中うなされることとなった。
腹の大きな妊婦がこれほどまでに体調を悪化したら――母子ともに最悪の結果になるかもしれない。
だが医師を呼ぼうにも猛烈な吹雪がそれをゆるさなかった。暴れる風は家にぶつかるたびに垂直に天に向かって駆けあがり、あたり一帯を白く煙らせ――誰かがここから出ていくことも入ることもゆるしはしなかったのである。
地面から空に向かって雪が逆流するかのように吹雪いたこの現象は、まさに少女の示した怒りによく似ていた。
誰一人近寄らせまいとする意志。
冷徹で強じんな態度。
それでも熱にうなされる少女からはあの闘う者特有の鋭利な雰囲気は感じられなくなっていた。当たり前かもしれないが、ただの病人であり妊婦であり、年下のか弱い人間にしか見えなくなっていた。
一度だけ、少女がうわ言で男の名を口にした。
その時、閉じられた少女の目から涙がつたい落ちて――。
(ああ、この子は頑張っているだけなんだ。一生懸命頑張っているだけなんだ、きっと)
それが分かってからは、空也はより献身的に少女を看病した。汗を拭き、雪を詰めた氷のうで額を冷やし、さじで水を幾たびも口に運んだ。
だが空斗はあの夜以来、一度も少女のそばに近寄らなかった。
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