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5.お前を傷つける奴をゆるさない

 だがその深夜。


 けたたましい音によって熟睡していた氾兄弟はたたき起こされた。


「なんだなんだ……?」


 寝ぼけまなこでうつぶせになった空斗の視界すれすれを、飛び跳ねるように起きた弟・空也の鹿のような脚が通り過ぎていく。


「うわっ」


 空斗が身を逸らして避けた隙に、空也は大きな歩幅で奥の方へと消えていった。そちらにあるのは空也の寝室だけで、つまりは少女が閉じこもっている部屋だ。


 空斗が遅れて追いかけると、すでに問題の部屋の戸は開け放たれていた。というより、その寸前に強い衝撃音がしていたとおりで、空也が体当たりをしてこじあけた直後だったのだ。


「兄貴、気をつけろ……!」


 空也の叫びに反射的に半身になった空斗は、今度は鼻の頭すれすれを椀が飛んでいく様を目撃した。気を利かせた空也が就寝前に水を入れて寝台の近くに置いておいたのだが――つっかい棒などコツを掴んでいれば簡単にはずせる――その好意は当の少女には伝わらなかったようだ。後ろの壁に当たるや椀は木っ端みじんに割れ、飛んできた水しぶきが空斗の頬を濡らした。


 見れば、問題の少女は完全に正気を失っていた。


 ざんばらの髪、乱れた着衣、上気した頬。

 つり上がった両の瞳には闘争心しか見えない。


 しかも壁を背にし距離をとる様は、空斗の指の関節をきめた時のように動きにそつがなく、やはりこの少女は武芸に精通しているのだと二人に再確認させた。


 しかも少女の手には危険なものが握られている。


 金属製の簪だ。


 しかも髪に刺す方、つまり鋭利な方を向けて威嚇してくるではないか。


 だが取り上げようにも、少女が交互に兄弟に視線を動かす速さは尋常ではなく速い。これではうかつに近づけない。元武官の二人ではあるが、下手なことをすれば容赦なく串刺しにされるであろう近未来が如実に予想できた。


 だがこのまま手をこまねいているわけにもいかない。


 簪とはいえ、その先端は金属だ。刺されば間違いなく痛いし、場所によっては致命傷にもなり得る。刃のない懐剣、または短い包丁。そう考えて対処すべきだろう。


 無手の二人がほぼ同時に腰の位置を下げ、重心を落とした。


「兄貴っ!」

「分かってる。隙を見て動くぞ」


 密やかに告げられた指示に空也がうなずいた。


 このような状態が続いては非常に危険だ。だがそれは二人にとってではない。向かい合う妊婦にとってだ。強い闘気を纏い続けることは心身へ過大な負担をかけるからだ。


 たとえば今、少女の心臓は最高潮に飛び跳ねているだろう。それは少女の口からこぼれる息遣いからも伝わってきている。体の方は何とか制御できているが、呼吸は嘘をつけないようで――息がどんどん荒くなってきている。


 超人の域に達すれば平素と変わらない状態で同様のことができるらしいが……そんな人間は現実世界にはそうそういない。


 あまりに興奮しているのだろう、少女が苦し気にあえぎ、一度大きく肩で呼吸をした。吸って、吐いて。そしてすぐに元の体勢に戻ろうとしたのだが、突如少女が顔を歪めた。やや折り曲げた腰は腹に異常を感じたからのようだ。


 その瞬間――。


(今だ!)


 以心伝心、二人は動いた。


 少女との距離を一気に詰める。


 先に少女に到達したのは相も変わらずすばしっこい弟の方で、少女がはっとした顔を上げたのと、簪を突きつける少女の右手を空也が手刀で打ったのはほぼ同時だった。


「うっ……!」

「ごめんなっ!」


 謝りながらも少女の両手首を上からきつく握る。まだ年若いとはいえ、男の手であれば少女の手首などやすやすと掴めてしまう。


 だが、もうこれで大丈夫だと思ったら。


「……えええっ?」


 掴まれる寸前で少女が手首を返してきた。


(やっぱりこの子、武芸に通じてる……!)


 元武官の若い男二人、それに対して狂った妊婦一人。本気でやり合えば確実に兄弟の方に軍配があがる。だが本気でやり合えるわけがないのだ。何せ相手は空也よりも年若い少女で、しかも腹の大きな妊婦なのだから。しかもその妊婦が武芸に通じているとなれば――これは相当難しい状況だと言わざるを得ない。


 手首を回しがてら少女の手のひらが空也の手首を器用につかんだ。触れた少女の手のひらの硬さは明らかに年単位で生成された剣だこによるもので、


(この子、一体どれだけ稽古つけてきたんだよ……!)


 内心舌を巻いた空也の手首が、くん、と唐突に引っ張られた。ただの少女であればなんてことのない力だ。だがこの少女は武芸者で、そんな弱い力でも相手の体勢を崩すことのできる方法を熟知している、とくれば。


(うまいっ……!)


 あっぱれと感嘆しつつも引きずられ膝をつきかけた空也だったが、その体の真上を長い腕が走った。


 空斗だ。


「……この野郎っ!」


 日頃から冷静に物事を考え進める空斗であるのに、野蛮な怒声を上げ少女に迫っていく。


 その手が少女の顎にかかり――次の瞬間、ぐっと左の方へと回し込んだ。


 回しながらさらに距離を縮める。同時に少女の空いている左の手首を掴むや自身の腰骨の方へと強く引きつける。自身の体を軸にして右手と左手で回転させながら、そのまま少女の背中に回り込んでいく。


 今度は空斗が一瞬で勝利をおさめた。


 今、少女はその背を空斗の前身ごろに押さえつけられていた。首から上、それに左手をきめられているせいで、背後に立つ空斗に一切の攻撃ができなくなっている。もはやどんなに暴れてもどうすることもできない体勢だ。


 だがこれに異を唱えた人物が一人いた。


「兄貴、それはやりすぎだ! 放してやれよ!」


 こんな状況でも握り続けてくる少女の手を無理やり振り払い、体勢を立て直すと、空也は助けてもらって感謝するどころか強い剣幕で空斗にくってかかった。


「この子は妊婦なんだぞ? それにこんなふうになるのには訳があるに決まってるだろ!?」


 寝付く前に会話したことを思い出せ、と睨む空也の目が語っている。


 だが空斗はそんな弟を睨み返した。


 その目には薄暗い炎を宿していた。


 荒ぶる双眸が兄の激情を痛いくらいに伝えてきて――。


「兄貴……」


 空也は言葉を失った。


「俺にとってはお前の方が大事なんだよ。知らない女、知らない妊婦よりもな」


 その言葉に嘘偽りないことは空也とて理解している。

 だが。


「それとこれとは違うだろうっ……!」


 認めては少女のことを救えない。

 腹の子にとっては命にも関わる大事だ。


 だが今の空斗には理屈も正道も一切通じないようで、


「いいや違わない。俺はお前を傷つける奴をゆるさない……!」


 呪詛のように唱えながら両手に力を込めていった。


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