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3.突然の敗北

「武官になる前のことか?」

「ああ。よく分かったな」

「分かるさ。で、相手はどんな人だったんだよ」

「別に珍しくもなんともない。近所に住む知り合いだよ。好奇心に駆られた者同士でしてみたってだけのことさ」

「へえー」


 そういえば年頃の若い者同士、親密に接してきたというのにこの手の話はしたことがなかったな、でも実の兄弟であればそんなものだよな、などと思いつつ、


「お前の住んでいたところではそういうことはしないのか?」


 そう空斗が訊ねると、「ああ」と空也が素直に認めた。


「俺んところさ、伝染病で女ばっかりが早死にしたことがあったんだ。だからそういう、遊びとか好奇心でガキの俺に女が回ってくるようなことはなかったんだよね」

「そうか」


 ずるり、と、重たい外套を引き抜くと、空斗は無言でそれを空也に渡した。空也は受け取ると立ち上がり、これまた無言で壁に打ち付けてある釘にそれをひっかけた。その隣の釘に床に放り出してあった空斗の外套をかけ、それからずっと着ていた己の外套を脱いでさらにその隣の釘にかける。ぽたん、ぽたんと、三枚の外套から一斉に雫がしたたり始めた。


 戻ってきた空也はまた同じ場所に胡坐をかいて妊婦を眺め出した。


 空斗の作業は妊婦の腰帯をほどく過程に入っている。かじかみが取りきれていない指で帯を固定する紐を解こうと悪戦苦闘していた。


「俺、やろうか?」

「悪いな」


 晩春に右の肩の筋を斬られて以来、空也の右の指はやや動きが悪い。それでも元から器用な空也はわずかな時間で紐を解くことに成功した。


「武官になってからは?」


 弟の質問の意味を理解するのに空斗はしばらく時間を要した。結び目がほどけたら次は帯を引き抜く番だ。


「さっきの話の続きか?」


 帯も外套同様、なかなか引き抜けない。


「ああ」

「まったくないなあ」

「なんでだよ」


 手探りで床と腰との間に手を入れていくと、思ったとおりそこにも結び目があった。


「女と出会う機会がなかったし、遊びに行くお金も時間ももったいなかったしなあ」


 だがそれよりなにより。


「お前といる方が面白いしな」

「そっか」


 空也が照れくさそうに鼻の頭を触った。


「……もしかして」

「なんだ? ……うわっ!」


 言いにくそうな声音を発する弟に顔を向けた空斗は、妊婦の腰の下に入れていた手を突然掴まれて心底驚いた。視線を戻すと、まさにその妊婦がこちらを睨みつけていた。


 いつ目覚めたのか、二人はまったく気づいていなかった。


 ぎりぎりと握りしめてくる握力の強さはついさっきまで気を失っていた女のものとは思えない。しかもこの女――いや、容貌だけを見れば少女と例えた方がいい――は、握っている空斗の手首を少し回転させるや、何の脈絡もなく空斗の親指を手のひらの中に包み込んできた。


 と、思った瞬間。


 脳天を貫かんばかりの激痛が親指の爪の当たりに生まれた。


 関節をきめられたのだ。


「ぐっ……!」


 痛みから逃れるために空斗がとっさにとった行動は、力が作用しない方向へと親指を移動させることだった。だが実際には少女の手のひらにがっちり掴まれていて動けないので、体ごと床に伏せることになる。そうすることで『相対的に』作用する力を弱めようとしたのだ。


 だが少女の方も空斗の手を握りしめまま体勢を変えてきた。空斗の動きに追従して体を沈めてきたのだ。そうすると『相対的な』力の相殺は無効にされてしまう。つまり、空斗は痛みからは一向に逃れられなかったのである。


 ならば空斗は同じ方向にさらに動くほかなくなる。これほど崩れきってしまっては体勢を立て直すことなど難しいから、上半身ごと完全に床に伏せるしかない。下手に耐えていれば指をやられてしまう――それが分かるからなおさらだ。


 そうして元武官の空斗はあっけなく妊婦の少女に敗北を喫した。うつぶせにされ背中をとられた時点で明らかな負けである。


 ここまで、あっという間のことだった。


 呆然としていた空也は悪くない。予想外のことであったし、止める間もなかったし、本当に一瞬のことだったからだ。


 事の次第を理解できたところで「手を放せ」と叫びかけた空也であったが……その前になんとか言葉を飲み込んだ。当の少女があまりにも鬼気迫った表情をしていたからだ。


 両の瞳は爛々と燃え盛り、全身にまとう闘気は並外れて猛々しい。武官にとって気とは肌で感じるものであるはずが、この目ではっきりと見える、そう錯覚できるほどだった。炎のごとく揺らめいているのが――確かに見える。


 この少女は我が身を懸けて闘っている。


 そのことが空也にもはっきりと分かった。


 いったん口を閉ざした空也は、まず「ごめん」と謝罪することから始めた。


「起きたら知らないところで知らない男に体を触られてたらびっくりするよな。驚かせてほんとごめん」


 落ち着いた丁寧な物言いに、少女の視線がゆっくりと空也に向いた。


 だがその視線は弓につがえた矢先を向けるような、鋭く射貫いてくるものだった。


「俺たち泥棒じゃないし、君のことをどうこうしようとしたわけでもないぜ? 俺は氾空也、君がねじ伏せているのは俺の兄貴で氾空斗って言うんだ。安心してくれ。俺たち、君のことを傷つけるよう真似をするつもりはないから」


 信頼を得るために言葉を重ねていく。


「君は外で倒れていたんだよ。吹雪の中、かちこちに凍って気を失っていたんだ」

「……私が?」


 ようやく発せられた少女の声は思ったとおり若々しく、やっぱり自分よりも年下なんだな、と空也は思った。


「ああ。とても冷たくなっていたから、だから俺たちの家まで運んできたんだ。誰だってそうするだろ? 同じ人間なんだし倒れていたら助けるもんだろ?」


 少し伏せられた少女の瞳の上でまつげが弱々しく震えた。


(よし、もう少しだ)


「だから俺たちは見返りなんて求めていない。本当だぜ? だって君、そろそろ産み月なんだろ?」


 畳み掛けるように言い募り、空也はしまった、と後悔した。少女がひどく傷ついたような表情になったからだ。ぎゅっと眉をひそめた様は、確かに何かに傷ついていた。


(妊娠のこと、気軽に触れたらいけないことだったのか……?)


 沈黙という膠着状態に陥り、空也はとうとうどうすることもできなくなった。


 だが兄が低く呻いた声を耳にし、空也は臆病になりかけた自分を張り倒し言葉を継いでいった。


「外はすごい吹雪だし今夜はここで休んでいけよ。……で、一つお願いがあるんだけど」


 そう言った瞬間、はっきりとその身を強張らせた少女に。

 空也は途方に暮れながらも懇願した。


「その手、そろそろ放してあげてくれないか。兄貴がさっきから悶絶していて可哀そうなんだ……!」



 *


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