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2.濡れ鼠の三人

 妊婦を抱えた二人は、陽が落ちきる直前になんとか家にたどり着いた。二人の借家は未曾有の吹雪にもびくともせず、借主の帰還を悠々と待っていた。さすがは豪雪地帯に建てられ、幾星霜の年月をこの地で耐えてきただけのことはある。


 ここまで二人は最速で戻ってきた。妊婦は生きてはいたが気を失っており、しかも全身が氷のように冷たくなっていたからだ。最悪の事態を想定しつつ、それでもなんとか助けたくて、二人は吹雪の中を一心不乱に歩いてきたのである。


 ぎっしりと食料の詰まった袋を背負った状態で、空斗が妊婦の頭を、空也が足を持ち……この国随一の近衛軍でもこれほど過酷な条件下での訓練はしないだろう。正直、食料を捨てるべきかどうか、二人は常に迷うはめになった。だが今度いつ下山できるか分からない状況下ではそのような危険は冒せなかった。それほどの予想外の降雪量、吹雪だったのだ。


 とにかく必死だった。妊婦の命を救い、かつ食料を失わないためには、平常時を超えた気力と体力が必要だったのである。二人がこれほどまでに切実な思いに突き動かされたのは、奇しくもあの晩春の日以来のことだった。


 だから居間へと入り、氷のように冷えた妊婦を床に置くや、二人は示し合わせたように揃ってその場に尻餅をついていた。ようやく気を緩めることができ、一気に脱力したのだ。かじかみしびれた手で背負っていた荷も下ろすと、袋に積もっていた雪がはらはらと零れ落ちた。


「無事帰ってこれて……ほんとよかった……」


 だが空也がそうやって安堵するのもつかの間、兄の方は再び立ち上がって火を起こし始めた。確かに室内は風が入らない分暖かく感じるが、吐く息の白さからもここで気を緩めている場合ではない。


 室内にいくつも置かれている暖房用の鉢を中央に集め、台所から火種を持ってきて、と、てきぱきと動く兄に感化され、達成感で幾分ぼんやりとしていた弟の方もようやく頭が回ってきた。


 髪や服についた雪を払い落し、それから妊婦を横抱きにしてそっと持ち上げる。


「ちょっとごめんね……」


 室の中央に敷きっぱなしの毛皮の上に冷えきった妊婦をそろそろと寝かせる。この国では自宅でも机や椅子を使うのが主流だが、二人はここでは床に敷いた毛皮に直接座ったり寝転がったりして過ごしていた。その方が楽だからだ。


 次に空也は妊婦の体に付着している雪を払っていった。だがそれらの多くはもはや雪ではなく氷に変化していて、硬く透明な氷は払っても払ってもなかなかとれなかった。特に髪は氷で固められてしまい、ちょっとやそっとのことでは取れなくなってしまっている。


 髪についた氷もどきの雪をかじかんだ指先で砕きながら取り除いていると、その指から時折力が抜けることに空也は気づいた。重量物――つまり妊婦――を長時間運んだ反動で握力が落ちてしまったのだ。指だけではない、二の腕の筋も硬直し動きが悪い。


 ずきん、と、背中の傷がひきつれたように痛んだ。


 空也が肩を回したり両腕を振るったりして感覚を取り戻している間も、空斗は黙々と作業を続けている。一つ、また一つと、鉢の中に新しい薪と炭を入れていき、その上に台所から持ってきた火種を載せていく。暗がりの中でそれらが妊婦を囲うように並べられていく様はどこぞの呪術の儀式のようでもあった。


 やがてすべての鉢に火を入れると、空斗は今度は燭台の芯に火をつけていった。一つ、二つ、三つ。それでようやく居間が明るくなり、視覚的にも心理的にも温もりを感じられるようになった。


 空也が寝室から掛布を持ってきた。


 だがそれを妊婦にかけようとしたところで――なぜか手を止めた。


「……なあ。兄貴」

「なんだ」


 ようやくすべての作業を終え、濡れた外套を脱いでいた空斗は、掛布を持ったまま固まる空也に気づいた。


「どうした? お前も早くそれを脱いだ方がいいぞ」

「あ、あのさ。この子の服も脱がさないとまずくないか?」

「……ああ。確かにそうだな」


 二人が血だと勘違いしていたのは妊婦のまとう外套の色だ。明るいところで見れば牡丹を思わせる深い赤で、冬着らしい温かみのある色である。これを血の色に結び付けてしまったのは、ひとえに二人の深層心理の問題だったのだ。


 綿が幾重にも詰められた外套は、きっと普段は持ち主のことをしっかりと温めてくれるのだろう。だが今は見るからに冷たそうだった。雪解けの水分を含みぐっしょりと濡れてしまっているし、その表面には除去しきれていない氷のかけらがまんべんなく付着している。この妊婦が長い時間を外で過ごしていたことを二人はあらためて理解した。


 外套がこれだけ水分を含んでしまっているのだから、その中に身に着けている衣も十中八九濡れているだろう――。


「やばいよやばいよ! 俺、女の子の裸なんか見たことないもん!」


 突然おろおろとし始めた空也の様子は、先程血塗られた人間――二人とも口には出さなかったが息絶えていると思っていた――に果敢に近づいていった人物と同一に思えない。


「兄貴がやってくれよお!」

「俺が?」

「ああ。兄貴がやってくれ」


 弟に涙目で見つめられ、空斗は腹をくくった。


「分かった。俺がやる。じゃあ着替えさせるものを持ってきてくれないか」

「この家に女の子の着替えなんてあるわけないだろ」

「お前の服でいいんだよ。今は非常事態なんだから」

「分かった! 取ってくる!」


 しゅたっと走り去る姿は脱兎のごとくだ。そして空斗が妊婦のそばに膝をつくまでのわずかな時間で、空也はすべてを揃えて戻ってきた。


 空也は兄の向かい側に座ると妊婦の青白い顔をじっと見つめだした。


「この子、たぶん俺よりも年下だよな」

「だろうな」


 答えつつも空斗の方はさっそく新たな作業にとりかかっている。寒さで強張ってしまった妊婦の体を少し横にずらすと、まず沓を脱がせ、次に外套を脱がせにかかった。だが思ったとおり、厚手の生地は柔軟性がないゆえに脱がしにくい。とはいえ下手に力を加えると妊婦の体を痛めていまいそうで……これがなかなか難しい。腹を膨らました妊婦になど空斗とて触れたことがないから、どうしても恐る恐るの作業となってしまう。


 そんな兄のことを空也は手伝う気はさらさらないようで、ただじっと妊婦の顔を見つめているだけだった。自分自身は濡れた外套を身に着けたままで、何が面白いのか飽きることなく見つめている。


 ようやく片腕を抜けば、そこからは少し作業が楽になった。あとはもう片方の腕がおさまったままの袖から外套を引き抜いていけばいい。


「なんかこの子、可愛いな」


 空也ののんきな一言がこの場を少し柔らかくした。


「兄貴は女を抱いたことはあるか?」

「あるさ」


 何を突然、と思いつつ空斗は正直に答えた。

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