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1.雪道での発見

 さて、少し時を戻す。


 珪己が行方不明となったその日、強まる吹雪にも負けずとある山中を歩く二人の若者がいた。それは今朝がた、街中で晃飛とぶつかった二人だった。


 若い方の鼻の頭には小さなひっかき傷ができている。ちなみに鼻血はあれからすぐに止まった。


 二人以外には無人の山道には、すでに小指の長さほどの雪が積もっている。二人の背後には新雪を踏みつけた足跡がどこまでも連なっている。だが陽が落ちつつある時間帯であるがゆえに、足跡どころか周囲の景色すら見えづらくなってきていた。


 とはいえ、この吹雪では松明をつけることなどかなうわけもない。今のところは両脇に茂る木々に沿って歩くことで支障なく前進できているが、本格的に暗くなってしまえばお手上げの状態――最悪、遭難――に陥ってしまうことは明白だった。だから二人は半分走りながら帰路を急いでいた。


 だが二人の顔には悲壮感は一切ない。それどころか楽し気でもある。


「雪っていいよなあ。今日は面白いくらいに降るなあ。な、兄貴?」


 自分たちの体力と地理勘に自信があるがゆえの行軍だと、悪天候すら楽しめてしまうものなのである。


「ほんとだな。このあたりは腐るほど雪が降るって聞いていたがなかなか降らなかったからなあ」

「そうだよ。ようやくだよ」

「よかったな、空也」

「ああ!」


 この二人、年上の方ははん空斗くうと、年下の方ははん空也くうやだ。そう、あの元武官の義兄弟である。古寺での凄惨な事件の直後、二人揃って武官を辞し、開陽を離れ――それ以来常に一緒にいる。


「空也の住んでいたところではあまり雪は降らないんだよな」

「そうなんだよ。降っても数年に数回、ちょっと降るぐらいでさ。積もったりはしないんだよね。兄貴の方はすごいんだろ?」

「ああ。といっても俺の方も積もってもくるぶしの高さくらいまでだがな」

「それでもすごいよ。ああ、明日が楽しみだなあ」

「明日?」

「真っ白な雪野原を歩いてみたいって、ガキの頃から思ってたんだ」

「へえ」

「積もった雪って布団みたいにふっかふかなのかなあ。きっと冷たくても気持ちいいんだろうなあ」


 夢見るように語る空也の頬は、寒さのせいだけではなくほんのりと赤く染まっている。


 こんなふうに雪が降ることに喜びを見出せる者は、雪の恐ろしさを知らないか、はたまた純粋無垢だからだろう。空也にはその両方が当てはまっていそうだ。


 苦笑しながらも、弟を見る空斗のまなざしはどこまでも優しい。


「荷物、重くないか」


 二人の背には体が隠れて見えないほどの大きな袋が背負われている。中身はすべて食料だ。この人里離れた山に暮らし始めてはや二か月、二人は時折こうして生活必需品を求めて下山していた。もちろん秋のうちに乾麺や粉もの、麦、根菜、それに乾燥させた肉や野菜、果物などは十分に運び入れているが、新鮮な生のものを食べたくなるのは人としての本能、さがのようなものだ。


「大丈夫、大丈夫。これくらい平気さ」


 とはいえ、下り道で荷物のない往路に比べると復路はその対極にあるから、背中の傷が十分に癒えていない空也にとってはなかなかの重労働であろうことは想像に難くない。


「辛くなったら言えよ」

「分かってるって」


 そう言った刹那、空也の顔に陰りが浮かんだことに空斗は気づかなかった。逆に世話を焼かんと「やっぱり俺が持つから」と荷物に手を伸ばしかけた――ところで。


 びくん、と、空也が大きく跳ねた。


「ああああ! 兄貴っ!」

「どうしたっ?!」


 空斗は弟のこととなると異様に過保護になってしまう。そんな兄を普段なら内心煙たく感じる空也だったが、今は驚きのままに兄にすがりついていた。


「やべえよ俺! 見ちゃったよ!」

「見た? 見たって何を?」


 弟の視線の先を探った空斗の目が、この薄暗い山中に不似合いな鮮やかな色を捉えた。


「なんだあれは……?」


 よくよく目を凝らしてみると、それは赤い何かだった。


 紫がかった赤、いや青みのある赤か。赤い何かが雪で白く染まった茂みの奥に見える。


 その色は直感的に血の色を連想させた。


 だからこそ。


「あれ、人じゃねえ……?」


 震える空也の指先、その赤色の物体は、空也が指摘するよりも先に空斗にも人に見えていた。


 一度そう認識してしまえば、もうそこに誰かが倒れているようにしか見えない。血塗られた衣をまとった人間が雪原に倒れているようにしか――見えない。


「どうしてこんな山奥に……? この山には今は俺らしかいないはずなのに」


 袖口から伝わる震えに気づき、空斗はとっさに呟きのつづきを飲み込んだ。


 空斗は弟の手に自分の手をとっさに重ねた。誰だって殺されかかった過去をすぐに忘れられるわけがない。死を身近に感じてしまったがゆえに死に結び付くものすべてに嫌悪を抱いてしまうのも仕方のないことだ。


 だがその実、空斗自身も恐怖を感じていた。大切な人が傷つき血だらけになった姿を空斗は忘れることができていなかったのである。――忘れられるわけもない。あれはまだ半年前のことだ。


 血をまとう人間と思わしき存在によって、各々の過去の残像が否応なく呼び起こされていく。そのたびに空斗の顔が少しずつ歪んでいく。


 だが次の瞬間――。


 何を思ったか、兄の手をすり抜けた空也がその人物に向かって駆けだした。


「あ、待てっ!」


 空斗の伸ばした手の先、空也はあっという間に小さくなっていく。雪景色に吸い込まれていく弟の姿はあまりにも儚げで、このままどこかに消えてしまいそうで……。


「空也……っ!」


 叫んだ声は、折よく吹き付けた風のうなりに飲み込まれ、かき消えた。


 だが空斗が一人で勝手に心細くなっているうちに、当の弟はあっさりとその場所へとたどり着いた。空斗が過去の残像に苛まれ息をすることも難しくなっている隙に、空也は恐怖を制圧し、なおかつ自ら距離を縮めてみせたのである。


 そして空也は赤色に染まる人間――やはり人間だった――をやすやすと抱え上げてみせた。


「兄貴いっ! この子まだ生きてる……!」

「何っ?!」

「しかもこの子、腹が大きい!」

「……は?」

「妊婦だっ!」


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