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4.手を貸してくれないか

 もう体中が痛いとか動けないとか言っている場合ではない。

 寒いだとか腹が減っているだとか文句をつけている場合でもない。


 朝もまだ早い零央の街を晃飛が全速力で駆けていく。


 外は今にも雪が降りだしそうだ。厚い雲に覆われた空の向こう、高山の方だけが奇跡的に晴れ渡っているのが見える。だがそれはこの街ではごく当たり前の冬の光景だった。晴天ばかりが続いた昨日までの方が異常なのだ。


 水が凍りつくほどに気温が下がったせいか、通りにはちらほらとしか人の姿は見られない。太陽の姿が見えないというだけで体感気温もぐっと低く感じられる。それもまた人の心理というものが絶対的なものよりも相対的なものに影響を受けやすいからだろう。


 そんな気の滅入るような曇り空の下、閑散とした通りを晃飛がひたすらに走っていく。


「くそっ! どこに行ったんだよあの子は!」


 悪態をつきながらもその表情は必死だ。周囲をくまなく入念に見ていく目つきも、視線の動きの素早さも、誰が見ても明らかなほどに『大切な何かを探している』人間そのものだ。


「あの体だしそんなに遠くには行っていないはずなんだっ……!」


 不覚にも眠りこけてしまった晃飛ではあるが、その時間は長くても二刻ほどのはずだった。やはりあれだけの超常現象を直視した後だったし、老婆の脅し、もとい不吉な予言、『おそらく心が戻ればあの子は荒れるぞお』が気になっていたから、眠らないようにとあれこれ考えていたからだ。


 たとえば仁威の所在について。

(今はどこでどうしているのだろう)


 たとえば珪己の今後について。

(ばばあの言うようなことにならなければいいんだけど)


 たとえば珪己の腹の子の父親について。

(神または神と同等の人間って、一体どんな奴なんだ……?)


 考えるべきことはたくさんあったから、時間をつぶすという概念などなくても随分長い時間起きていたはずなのだ。


 しかし、この零央という街は狭いようでいて広い。なんといっても、開陽から西にもっとも近い都市こそ、ここ零央だからだ。


 だが今日はこんな天気だ、きっとこれ以降もあまり人の往来は激しくならないだろう。


(妹がいればすぐに目につくよな、きっと)


 しかしこの楽観的な思考は、いともたやすく悲観的なものへと変わっていった。


(……この広い街の中で本当に見つけられるんだろうか)


 四方八方を一人で探し回るのではすぐに見つけられるとは限らないし、最悪、見つけられないかもしれない。


 ふわり、と晃飛の鼻の先を白い雪が舞い降りていった。


 つい足を止め天を仰ぐと、手が届きそうなほど低く垂れこめた灰色の雲から雪の花がいくつも生まれ降ってくる様子が確認できた。


「……これは本格的にまずいことになるぞ」


 吐く息の白さも晃飛を焦らせるばかりで、晃飛は己を叱咤すると再度駆けだした。



 *



 晃飛がわき目もふらずに一番に向かった先は環屋だった。


「あれ、こんな朝早くにどうしたんだ?」


 ちょうど仕入れ先から戻ってきたばかりなのだろう、魚の入った大きな桶を二つ、棒の両端に縄でくくりつけ首の裏に載せた状態で、料理人見習いの男が晃飛に顔を向けてきた。


「あ、この魚はやれねえぞ。今夜は上客が来るってんで仕入れたもんだからよ」


 腰をひねって桶を隠すようなそぶりを見せた男に、晃飛は荒い息のまま叫んだ。


「こっ、ここに俺のいも……いや俺の嫁は来ていないかっ?」

「来てるわけねえだろ。なんでこんな時間に妊婦が妓楼に来るんだよ」


 それもその通り。とはいえめったに外出することのなかった珪己が来そうなところと言えばまずはここしか思い浮かばなかったから、返答は確認程度、晃飛はさっさと中へと入っていった。なんでも自分の目で見ないと納得できない性質たちなのだ。


「あ、ちょっと待てっ」


 反射的に手を伸ばしかけたせいで、重い桶に大きく揺さぶられた男はあっけなく体勢を崩した。その隙に晃飛は階段を上り、通い慣れた芙蓉の部屋と向かった。


「おい、ここに俺の嫁は来ていないかっ!?」


 ばん、と問答無用で戸を開けた晃飛の視線の先――そこにいたのは芙蓉だけではなかった。


「……応双然? どうしてお前がここにいるんだ?」


 二人は机を挟んで対面に座っており、晃飛の突然の乱入に芙蓉が大きくため息をついた。だがその寸前、芙蓉は確かに動揺していた。わずかな動揺は芙蓉の内心を暴露するもので、どう考えても続くため息は動揺をごまかすためのものとしか思えなかった。


 対する双然はいたっていつも通りの能天気そうな笑顔を向けてきた。


「やあ、梁先生。これは奇遇ですね。朝からそんなに急いでどうしたんですか」

「お前こそなんでこんな時間にこんなところにいるんだよ。……って、もしかしてお前、年増好きなのか?」

「やだなあ。僕は梁先生とは違いますよ」

「俺だって違う。お前は知ってるだろうが」


 そう、芙蓉は晃飛の実の母親だが、事情を知らない街の者は晃飛のことを芙蓉の部屋に足しげく通う情夫と勘違いしているのだ。だが双然はこの二人が身内であることを知っている。先日、双然に問われた晃飛が事実の一部を珍しく素直に暴露してしまったからだ。


「あ、そうでしたね」


 あはは、と笑った双然の声は無邪気なものだ。


 芙蓉が小さなため息をついた。今度は本心からのものだ。


「こちら、仕事で来ていなさるんだよ。勘違いするんじゃない。それにお嬢さんはここには来ていないよ」

「……そうか。な、ちょっと二人だけで話せないか。すぐ済むから」


 双然のことを気にしつつ強引に話を進めようとする晃飛に、芙蓉が形の良い眉をひそめた。


 それに双然があっけらかんと言った。


「あ、僕のことはいないものと思って話してもらって大丈夫ですよ」

「いやいや。気になるに決まってるだろうが」


 否定してみせたものの、目の前に座る双然の存在がなぜか急に頼りがいのあるものに感じられ――晃飛は思わず双然をじっと見つめてしまった。


(こいつ……もしかして使えるんじゃないか?)


 品定めをするかのようなその視線に、双然は気づいたのかどうか。一瞬の間を置いて無言でにこっと笑ってみせた。


 その緩急のうまさは、その道の人間が横で観察していたら思わず唸ったことだろう。


 晃飛はもともと他人を信じない性質であり、言動に胡散臭さを感じ取ればさっさと一線を引いて近寄らないようにしている。完璧にふるまう人間なんてその避けたくなる人種の代表例だ。……なのだが、今は緊急事態なこともあり、かつ双然の笑みが完璧であったがゆえに、生来の警戒心が常よりも簡単に取り払われた。


「あのさ、もし時間があったらちょっと手を貸してくれないか。他の誰にも内緒で」


 双然は軽く目を見開いたもののあっさりとうなずいた。


「いいですよ。何かお困りのことでもあるんですか?」

「ああ、大あり」


 自分も椅子に座り、晃飛は両脇の二人を交互に見た。


「実は嫁が行方不明なんだ」

「えっ? お嬢さんが?!」


 気色ばんだ芙蓉は、珪己が妊娠後期に入っていることを知っているからだ。


 それとは対極の驚きを見せたのは双然で、「うわあ、梁先生はご結婚されていたんですね」と無邪気に喜んでみせた。


「あ、今はそういう話をしているんじゃありませんね。で、梁先生の奥さんはどうしていなくなってしまったんですか? 誰かにかどわかされたとか?」

「かどわかされたわけじゃない。自分で出てったんだ」

「それって梁先生に嫌気がさしたからじゃないんですか」


 飄々と述べていく双然の推測は事実と全然違うから、晃飛はいら立ちを感じた。


「違う違う。そういうことじゃないんだ」

「じゃあどういうことなんですか?」


 そうやって真っすぐに問われると答えづらいんだよな……と思いつつも、晃飛はなるべく事実に沿って答えた。


「混乱……しているんだと思う」


 それでも言葉を選びつつ。


「混乱?」

「ああ。ちょっといろいろあってさ。でもあいつ、ここでは他には誰も知り合いはいないし、金も持っていないし。こんな寒空の中行く当てもないし……な、やばいだろ?」


 話していくうちに、精査しない言葉がするすると出ていった。


「それにあいつ、ちょっと訳ありでさ。その……昔の男にしつこく追いかけられてるんだ。そいつがけっこうやばい奴らしくて、だからずっと家に閉じ込もってたんだけど……そのことも気がかりなんだ。俺がそばにいないのにそいつに見つかったら……って」

「ああ、なるほど。だから梁先生の奥さんのことを屯所の誰も知らないんですね」


 自分も含めて、そう双然は言いたいらしい。


 言いたいことは分かる。嫁を娶れば一人前の男とみなされるような、そんな旧来の風習が息づくこの街で敢えて秘密にしていたこともそうだし、この広いようで狭い街で嫁と連れ立って歩くこともせず、あまつさえ芙蓉という女と爛れた関係にあるという噂を放置していたこともそうだ。


 まあ、実際には珪己は嫁ではないので、


「うっせえ。お前も誰にも言うんじゃないぞ」


 そう誤魔化し釘をさすに留め、晃飛はさっさと話を元に戻した。


「まだ家を出て長くても二刻ちょいってところだと思うから、そんなに遠くには行っていないはずなんだ。金がないから馬車にも船にも乗れないしさ、このあたりを徒歩でうろついているか、どこか親切な人の家で休んでいるんだと思う」


 最悪なのは誰も気にも留めないような場所で具合が悪くなり倒れてしまっていることだが……そういったことは言葉に出したくもないので敢えて言わなかった。

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