3.馬鹿野郎
晃飛が目を覚ましたら、太陽はすでに半分ほどを山々の稜線上にのぞかせていた。
「あー……」
座ったまま寝ていたせいで背中と尻が痛い。
「眠るつもりはなかったんだけどなあ」
晃飛は立ちあがると大きくのびをした。ぼきぼき、と体のいたるところで軋む音が鳴ったのは、間違いなく昨夜の荒行のせいだ。吐く息は室内だというのにくっきりと白い。
机の上には手つかずの茶が残っている。透明な水と褐色の茶の二層に分かれた、見るからにまずそうな茶だ。昨夜はあれから随分長い時間起きていたのだが、眠気覚ましにと濃い目のお茶を入れ座り直したところで……記憶が途切れている。
昨夜以上にひどい筋肉痛に顔をしかめながらも、晃飛は椀に手を伸ばし中身を一気に飲み干した。茶は凍る直前のように冷たく、胃の腑に至るまでの道のりをきゅっと縮めた。味を感じる間もなかった。
「さっむう……」
見れば、足元に置かれた鉢の中ではすべての石炭が完全に燃え尽きていた。眠くならないように、とわざと少量しか入れていなかったのがあだとなったようだ。
あれほど超常的な経験をした後なのだからきっと眠くなどならないだろう、そう思っていたのだが、肉体の方は正直だったらしい。いや、それは心も同じか。眠ることでようやく様々なことが軽くなったのは、人間が有する生来の防御機能だ。
「……やっぱ俺、あのばばあの言うほど強くはないな」
晃飛は素直に己の非力さを認めた。
だが頭は非常にくっきりしている。明瞭に言葉が思い浮かぶし、さくさくと思考が進む。こうやってあらためて昨日までの自分を振り返ると、やはり自分はおかしくなっていたのだと如実に分かる。一切考えることをせず、入力に対して型通りの出力をぽんと吐き出すだけのからくり人形のようだった。
では正常に戻った今、一番にしたいこととは。
「よし、妹の寝顔を見に行くとするか」
昨日までは嫁だ嫁だと公言していたが、よくもまあそんなことを平気で口にできていたものだ。確かにあの思いつき――珪己を嫁ということにして芙蓉に出産もろもろの協力をさせる――は『自分の意志』で提案したものだったが、それ以降の自分は絶対におかしかった。
度の過ぎる過保護はまだいい。大枚をはたいて韓に過剰なほどに診せたのもまだいい。環屋から目の玉が飛び出るほど大量の高級食材をくすねて食べさせていたこともまだいい。
だがあれは駄目だ。
本当の夫のようなふるまいをしていたことだけは――絶対に駄目だ。
思い出すだけで顔が赤くなってしまう。
室内は底冷えするような寒さだというのに、だ。
他にも妹相手に色々とやらかしたことは、こういう時に限って躊躇なくするすると思い出されていった。
仕事以外ではなるべく外出せず、用事が終われば走って家に戻り。珪己が起きている時には常にそばにいて、くっついて。頬を触り、頭をなで、飽きることなく見つめて。ちょっと移動するにも手を繋ぎ、時には横抱きにして運んだりもしていた。
(……なんだよ俺。ただの馬鹿野郎じゃないか)
そしてその卑下すべき馬鹿野郎とは自分自身のことなのである。
恥ずかしすぎてそれだけで死ねそうだ。
「妹も起きたら色々思い出していくのかなあ……。うわ、そしたら俺、どんな顔して会えばいいんだろう」
あれこれ考えていたら、久しぶりの正常な活動に脳も喜んでいるのか、極端な結末ばかりがぽんぽんと予想できてしまい、晃飛はとうとう考えることを放棄した。
「……駄目だこりゃ」
考えなさすぎても駄目だが、考えすぎてもやっぱり駄目だ。
口づけだとか、そういった方面の行為にまで及んでいなかったことだけがせめてもの救いである。女嫌いな晃飛だが性的な機能を有していないわけではないから、たぶん一歩間違えたら盛った犬のように腰を振ってしまっていただろう。たとえば珪己が妊娠していなかったら……。
「ああもう、やめやめ」
顔の前で手を振ったのもつかの間。
「……でもあれは妹もよくないよなあ。全然嫌がらないんだもん」
思わず独り言ちてしまったのは、誰もいないとしても自分自身を正当化してみせたいからだ。
仁威がいなくなる直前に、晃飛は仁威と実剣による立合いをしている。そこから晃飛は大切なことを学んだ。すなわち、自分自身にこだわりすぎては駄目だということだ。それゆえ、晃飛はこれまでの自分と決別したいと強く願うに至った。
そんな立合い直後の夜、なんの偶然か激痛に苦しむ珪己を発見したのだが……この時、晃飛は珪己の願いを叶えると決めている。それはまさしく自分自身を優遇することをやめると決めたことと同義だったからだ。
――晃飛の感覚ではそれから数日しかたっていない。
だが実際には、季節は秋を巡り、冬真っ只中に差し掛かるほどにうつろってしまっている。
晃飛の内情など無視して時は流れに流れ、結局その間晃飛は阿呆としか思えない振る舞いをしていただけだった。あれほど強く決意したというのに、だ。
敵が非人間であれば仕方ないと諦められるか?
――否、それはできない。
敗北など認めたくはない。
たとえ相手がどんな奴であろうとも、どんな力を使う輩であろうとも、やり直せない過去のことであろうとも、人生の岐路を揺るがすような行為を容認できるわけがないのだ。のらりくらりと生きてきた晃飛がようやくたどり着いた超えるべき壁、これを前に条件が悪かったからとしっぽを巻いて逃走するようなことはしたくないのだ。あの日の決意を貫きたいのだ。
(……でも俺、これからどうしたらいいんだろう)
(どうやったら取り返せるんだろう?)
今からでもやり直したい。まずは妹の願いを叶えてやりたい。やはりそれこそが自分自身を変える鍵なのだと、正気に戻ったばかりの晃飛はなぜか強く信じていた。
そうこうしているうちに、主人の意志を汲んだ足はもう珪己の室の前まで来ていた。
だがその瞬間、晃飛は半分開かれている戸に気づいた。ずっと考え込んでいたから眉間に皺を寄せたままだったのが、さらに狐目を鋭く尖らせたことで、一転して剣呑な雰囲気をまとった。
「まさか……!」
加減なしで勢いよく戸を開くと――案の定、珪己の姿は見当たらなかった。
「ど、どうしてっ?」
まず思ったことは誘拐だ。自分たちに変な術をかけていた輩の一味にさらわれたのではないか、と。
だがその順当な予想は室内の様子をざっと観察したところで即座に否定できた。確かに寝台の上の掛布はぐしゃぐしゃに乱されているが、そこには脱ぎ散らかされた寝間着も混在していたからだ。誘拐ならばいちいち服を着替えさせるなんてことはしない。
となると――珪己が自らの意志で出ていったと考えるしかない。
実際、沓がなくなっているし、半分開いたままの箪笥の引き出しの中には外出着が一式見当たらなかった。買ってやったばかりの外套も見当たらない。他にも何かなくなっているものがあるかもしれないが、そこまで突き詰める余裕は晃飛にはなかった。琵琶や木刀など、分かりやすい大物は残っているがそれだけだ。
それよりなにより、晃飛はみつけてしまった。
箪笥の上に一筆したためられた紙が置かれているのを。
「……探さないでください、だあ?」
それしか書かれていない、そっけない紙をしばらく見つめていた晃飛だったが。
やがて勢いよく二つに引き裂くや室を飛び出した。
「そんなことできるわけがないだろう、あの馬鹿っ!」




