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2.もう狂ってたんだ

 朦朧とする頭の中で過去の出来事が一本ずつ手繰り寄せられていく。ごく細い糸を、切れないように、丁寧に巻いていく――。


 痛みの刃に真っ向から立ち向かいながらも珪己は考えることをつづけた。考えることをやめようとはしなかった。


(それで……どうしたんだっけ?)


 そう、ここからがより曖昧なのだ。


 芙蓉の家に移り住むための準備は晃飛がしてくれていた。そして『とりあえず移動できるくらいには回復しなくちゃね』と諭されつつ苦い薬を飲まされていた矢先――昨日の今日でまた芙蓉が訪ねてきたのだ。ああ、そうだ。どうして忘れていられたのだろう。


『ごめんよ、ちょっとお嬢さんを預かれるような状況じゃなくなってさ』


 あの時の芙蓉はひどく落ち込んでいた。いや、落ち込むどころではなかった。何か非常に大切なものを失ったかのような、絶望に打ちひしがれた表情をしていた。


『うちの店でならず者が暴れてさあ……』


 そうだ。店の妓女が殺されたのだと、そう言っていたではないか。しかもならず者を倒したのは呉隼平もとい袁仁威で、それゆえ仁威は零央を出る他ない状況に陥ってしまったのだと、そう言っていたではないか。


 そうだ、仁威はこの街を出て行ってしまったのだ。


 義兄妹を名乗る晃飛や珪己に何の挨拶もなく、相談すらせず――。


『……ほんとまいったよ。生きていると辛いことばかりが起こるものだけど、今回ばかりはほんとまいったねえ』


 芙蓉のため息交じりの吐露に思わずうつむいてしまったのは、馬鹿正直に潤んだ瞳を見られたくなかったからで――。


『……そっか、仁兄いなくなっちゃったんだ』


 ぽつりと晃飛がつぶやいたような……気がする。


 言葉を失くした三人の均衡を破ったのは芙蓉だった。普段からゆるい胸元の奥に潜ませていたものを取り出し、『これ、隼平からお嬢さんにって』と珪己に手渡してきたのだ。


 そう、あの時芙蓉に手渡されたものは――。


「……かんざしだ」


 ただしそれは以前仁威にもらったような、武器を兼ねたものではなかった。幼児用のものでもなかった。純粋に髪を飾るためだけに造られたものだった。


 珪己の手が無意識に動き出した。痛む頭から離れ寝台の横の台へと移った指先は、やがて目的の物を見つけ、握りしめた。この春にもらった桃色の珊瑚の簪、それにこの夏にもらった桜の花びらがあしらわれた簪を――。


『それ、隼平が彫ったものなんだよ。ここ数日、暇さえあれば背を丸めて彫ってた』


 芙蓉がそう言った瞬間、あふれ出す涙をこらえることができなくなったのは――夢幻のことではない。


 仁威はいなくなったのだ――この簪だけを残して。


 掴むや、珪己は二本の簪を胸元にきつく引きよせていた。


 荒い息を繰り返す珪己の瞳から、苦しみだけが理由ではない涙があふれ出した。


(そうだ、あれから私はおかしくなっていったんだ……)


 日に日に健康を取り戻していき、これまで以上に溌剌とした毎日を過ごせるようになり、それとともに心の中から様々な重しが消えていったことを覚えている。そして秋が来る前には心の淀みはきれいさっぱりなくなっていた。予期しない妊娠への不安も、仁威との惜別の悲しみも……何もかも。


 それでもずっとこの二本の簪を使い続けていたのは……。


「仁威さん……」


 名を呼べば愛しさと寂しさで狂おしいほどだった。


 あの人は今どうしているのだろう。なぜあの人への想いを忘れていられたのだろう。一度思い出してしまえば自分の薄情さに反吐が出るほどだった。


 木彫りの簪はその造形からして非常に単純なものだ。二枚の花びらを扇のように重ねただけの、素人の手によるものであることが一目瞭然の代物だ。だがあらためてよく見れば、彫った線の力強さも、削られた表面の丁寧さも、何もかもが仁威らしさにあふれていた。


(あの人は何を思ってこれを彫ったのだろう……)


 震える指の先で、珪己は何度も表面の凹凸をなぞった。何度も、何度も。木工品特有の柔らかく温かみのある感触は、これまで幾度か触れたことのある仁威の肌を彷彿とさせた。


 耐え切れず、珪己は簪を強く握りしめた。


「仁威、さん……」


 名を呼ぶほどに愛しさと寂しさが募っていく。


(会いたい、会いたい!)

(あの人に会いたい……!)


 その強い願いが具現化するのとほぼ同時に、これまで深く考えずにいた事実が目前に迫ってきた。腹の子が誰か、ということに。


(……そうだ、お腹の子の父親は陛下なんだ)


 さあっと、珪己の顔から血の気が失せた。


 現皇帝の子を身ごもった――これほどの大事についてどうして失念していられたのだろう。珪己は上級官吏の娘であるから、皇帝の子を産むことの意味、その重大性を寸分たがわず理解できる。これは夢物語でもおとぎ話でもない。皇帝に見初められて幸せに暮らしましたとさ、で済む話でもない。


 現皇帝の子は今、菊花という名の幼い姫一人しかいない。初春に珪己が後宮にて出会い守護したあの姫、ただ一人しか。そして現皇帝は初対面の場で珪己にこう言った。『余は女人を抱けない』と。実際、今も妃を二人しか有していない。


 そんな事情を抱える皇帝の子を宿したということは、この国にとって非常に大きな意味を持つ。今後二度と恵まれないかもしれない、皇帝の実子。女子でも十分すぎる成果だ。だがそれが男子だったなら……?


 まず間違いなくその子は未来の皇帝となるだろう。そしてその母である珪己は正妃となり後宮で生涯を過ごすことになるだろう――。


 そうなればこの恋は捨てなくてはならない。不義など正妃にゆるされることではないからだ。どれほど仁威を好きで、どれほど胸を焦がす相手だとしても……。


 晃飛は言った。

 君はまだ選べるんだよ、と。

 未来を選べるんだよ、と。


 だが選ぶことなど最初からできなかったのだ。


 完全に袋小路の中にいるではないか。

 この大きなお腹、そしてこの子の父親の正体。


 そして唐突に悟った。


(最初から私はおかしくなっていたんだ……!)


 妊娠した事実を突きつけられた時に即断すべきことを、思索のための机に載せることもしなかった時点で――明らかにおかしい。


 たとえ体調が悪かろうが、初めての恋にのぼせていようが、するべきことをしなかった自分は――おかしい。


 正気であれば何もかもをすっぱり諦めていたはずだ。一人この家を出て、州城へ赴き、父の名を使って知州ちしゅう――州の長――への謁見を願い出て事情を説明していただろう。厳重な護衛を用意してもらって一路開陽へと戻っていただろう。そして父に、皇帝に妊娠したことを告げていただろう。


「わ、私……私……」


 わなわなと両手が震えだす。

 だが両手を見つめる珪己の瞳は焦点が合っていない。

 その瞳から様々な感情が急速に消えていった。


 虚ろな表情に涙が一筋こぼれた。


「私……もう狂ってたんだ……」


 その事実を自らの心に突きつけた途端――。


 くさびを打たれた心がぱりんと砕けた。


 

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