1.目が覚めた
目が覚めた。
目が覚めたのはなにも朝のおとずれを察知したからではない。珪己の体内時計はそこまで正確ではないし、本人は知らずともずっと何者かに操られていたのだからなおさらだ。実際、灯りをともしていない室内は非常に暗く、閉めきった窓の向こうが見えなくても今が深夜だと察せられた。
ではなぜ目を覚ましてしまったのか。
それは正体不明の歪みに身も心も激しく揺さぶられたからである。
「な、なにこれ……」
胃の腑からこみあげてくるものをなんとかこらえていると、生理的な涙すらにじみでてきた。
「気持ち悪い……それに体がすごく重い……。あ、頭が……頭が痛い……」
まさか重篤な伝染病にでもかかってしまったのかと危惧しつつも、喉の渇きに耐えかね、珪己はひどく重い体をゆっくりと起こしていった。だが、
「な……」
驚愕のほどを正直に表す珪己の瞳は、己の体の一部――膨れ上がった腹へと一気に吸い寄せられた。
「なんで? どうして……?」
物心ついたときから平らだった腹が――なぜかあり得ないほどに膨れ上がっている。
「何がどうなってるの……?」
その時、珪己は気づいた。部屋の中央に置かれた石炭が控えめに、しかし強い熱を発しながら赤黒く燃えていることに。
その赤黒い色を映した大きな腹は、現実のものとは思えないほど禍々しく奇怪なものに見えた。しかも腹を包む寝間着は重ねた綿布の間に綿を詰めたもので――つまり、冬用だった。
「まだ夏なのにどうして……? 痛っ! 痛いっ……!」
考え始めたそばから頭を木刀で打ち据えられた――そう勘違いするほど、急激に頭痛が激しさをおびた。
ぶわっと、全身から嫌な汗が生じた。
尋常ではない痛みに、珪己は頭を抱えて横に倒れてしまった。だが丸まった体ゆえに、膨れた腹が余計に目の前に迫ってくる有様だった。
珪己の感覚では今は夏だった。そして自分はただの一少女でしかなかった。確かに枢密使の娘であり武芸者を志していた点は普通ではなかったかもしれないが、それ以外においてはただの娘でしかなかったのだ。
(……なのにどうして?)
つぶやきは声にならず、喉が奥の方で鳴っただけだった。
唐突に手が震え、指先がわななきだした。
もう意味のあることを考えている余裕は――ない。
はっはっと短い呼吸を重ねていくしかない。
痛みに耐えるにはこうするといいことを、珪己は長年の武芸の稽古を通して知っていた。息を止めると痛覚に意識がいってしまうから、呼吸法を決めることで痛みを逃すのだ。耐えられる程度の痛みならば細く長い呼吸を、それ以上の痛みならば短く太い呼吸を――。
しばらくそうしていると、少しずつ痛みに対する耐性がついてきた。しかしなんということか、痛みの方も珪己に追従するかのように強さを増していった。それにも珪己はひたすら耐えた。慣れようと努める他にできることはなかったからだ。
気絶するのはある意味簡単だ。
だがこの異常事態だ、今は気を失っている場合ではない。
呼吸の合間を縫って、珪己は少しずつ思索を進めていった。
(今は夏のはずなのにどうしてっ……)
珪己が真っ先に考察し始めたのは、季節が半分巡ってしまっているという『絶対に』あり得ない状況についてだった。
今は夏だ。
――夏だったはずだ。
続く酷暑にまず食欲がなくなり、次いで気力がそぎ落とされていき、このところ体調が良くなかった……そうではないのか。
しかも大して食べていないはずなのに食あたりにでもなったかのような腹痛が始まってしまったのが……そう、寝台から起き上がることもできないようなひどい腹痛を経験したのがつい数日前のことだったではないか。
だが――どうしてこうも記憶が曖昧なのだろう。
(ああ……でも……)
昼間でかけたことは覚えている。
しびれるような木枯らしの吹く大通りを晃飛と共に歩いたことは覚えている。
真新しい外套を着て、晃飛と手を繋いで、冬の香りのする風を受けながら歩いたことを覚えている。
――やはり、記憶が混在している。
(今は……冬なのね……)
一つの事実を確認できたら、次は当然の疑問、どの程度記憶が曖昧になってしまっているのか知りたくなった。
あらためて記憶を掘り起こしていく。
(……そうだ。あの時も今みたいな体勢でずっと耐えてたんだ)
夏の終わり、この部屋で尋常ではない腹痛に苦しみつつも耐え忍んでいたあの日――珪己は下半身の方が濡れてきたことに唐突に気づいた。力みすぎて失禁してしまったのかと、この年頃の少女にとってはあまり喜ばしくない推測をしつつ視線をやると――濡らしたものの正体は血だった。
すぐに気づいた。これは非常事態で、室にこもって一人で痛みをかみ殺している場合ではないことに。だがすでに時遅し、立ち上がることも、声を上げて助けを求めることもできない窮地に陥っていた。
そんな中、一瞬意識が浮上した合間に、珪己は晃飛に向かって何かを叫んだ。
(……あの時私は何て言ったんだろう?)
そして次に目が覚めたら、頭はぼんやりとしていたものの痛みはいくらか和らいでいたのだ。それがつい二日前のことだったはずだ。そう、そうだ。目覚めたら深夜で、いつも通り蒸し暑くて、開け放たれた窓から深い闇に覆われた庭の景色が見えて、そしてそばに晃飛がいたのだ。
晃飛は珪己を起こすと薬を飲ませてくれた。
そして『君は今、妊娠している』と言った――。
ぎゅっと、珪己は両腕を抱いた。
「そ、それから……? それからどうしたんだっけ……?」
痛みのせいではなく、珪己の体が小刻みに震えだした。
だがどうしようもない恐怖に襲われながらも、珪己は考えることをやめられなかった。
ああ、そう。確か次の日――珪己の体感では昨日のこと――晃飛はこうも言ったのだ。君は仁兄から離れた方がいい、と。
そして珪己がこの家を出るために預け先として芙蓉の名を挙げた。
そうだ、そこで仁威に内緒で子を産めばいいと、そう晃飛は言っていたではないか。
『子供ができたからって君にはまだいくつも選べる道があるってことさ』
仁威のことを好きだと自覚したばかりでの、予想外の妊娠。しかも父親が誰かは絶対に言えない。この二つのうち何一つとして珪己は口にしていなかった……できなかった。なのに晃飛はそれらすべてを汲んでくれたのだ。
(……ああ、そうだ。思い出した)
(私が言ったんだ……。運命を選ばせてって、そう私が言ったからなんだ……)
だから『心が定まるまではよく考えるんだよ』と晃飛は言ったのだ。『子供は産んで誰かにあげてしまってもいいんだよ』と言ったのだ。……そこまで言わせてしまったのだ。