7.あなたのために生まれてきた
「陛下」
深い黒の澄んだ虹彩がひたむきに英龍を見つめてくる。
「陛下」
冷え切った英龍の心に愛という名の温もりがしみ込んでいく。
「楊……珪己」
「はい。陛下」
「会いたかった、ぞ」
英龍の体を緊縛し続けていた目に見えない糸――それがふいに解かれた。
その足がためらいながらも進みだし、その手がためらいながらも少女に向かって伸びていく。
少女は今もまっすぐに英龍を見つめている。
英龍も瞳をそらさない。……そらせない。
その視線にさらなる術を忍ばせていることにも気づかないまま、英龍は決して目をそらさなかった。
「会いたかったぞ……」
「私も会いたかったです。陛下にお会いしたくて、だから会いに来たのです」
「そうか……」
歓喜に英龍の胸が打ち震えた。
これほどに嬉しいことはあの晩春の夜以来のことだった。
それでも英龍はこの男らしい謝罪をまずは述べた。
「そなたが李副史の婚約者だとは知らず……済まないことをした」
ずっと気になっていたのだ。
もしやあの夜、あの寺で、自分は少女に無体をしでかしたのではないか、と。泣き縋る少女を無理やり抱いてしまったのではないか、と。皇帝である己の望みを拒むことができなかったのではないか……と。
それに少女が首を振った。
視線をそらすことなく小さく首を振った。
そしてほほ笑んだ。
「陛下、あの夜のように私に触れてください。私のことを愛しているのであれば、あの夜のように私に触れてください」
無邪気な言い方は年若い少女によく似合っていた。
「私は陛下のために生まれてきたのですから」
『私は陛下のために生まれてきたのですから』
楊珪己と金昭儀の声が重なった――かのように思ったのは一瞬だった。
ためらいながらも英龍は少女に触れ、その身をゆっくりと引き寄せた。
「余もそうなのかもしれない。……いいや、そうだ」
気づけば、部下の婚約者である少女を、英龍は想いを込めて抱きしめていた。
「ああ……嬉しい」
腕の中、少女が顔を綻ばせた気配が伝わってきて、英龍の胸の内に無尽蔵の愛おしさがこみあげてきた。
こんな自分に抱きしめられて心から喜べる女がこの世に他にいるだろうか? いいや、いない。家族である菊花と麗はもはや抱きしめ合う関係ではないし、それ以外の女は恐れに身をすくませるだけだからだ。
(年も身分も関係なく、あるがままの自分を受け入れてくれる存在――それはもはや楊珪己しかいない)
なぜなら今、英龍は愛こそを求めていた。一度掴んだと錯覚してすぐに失ってしまった愛だけを求めていたのである。
外遊の機会もなくこの晩春から英龍は一度も宮城から外に出ていないが、心はずっとさ迷っていたのだ。愛を求めて放浪していたのだ。
そしてこの愛を求める旅の結末に待っているべき存在は――ただ一人しかいない。
「……もうそなたを離したくはない」
真実そう思っていることは腕の中の少女にも伝わっているはずだ。だからその願いを口にしていいものかどうか、直前まで英龍は悩んだのだが、
「離さないでください」
爽やかな声が英龍の背負うものを軽やかに取り除いていった。
「もう二度と私のことを離さないでください」
「……いいのか? 余が離さないということは、それはそなたを余のものにするということだぞ」
問いながらも英龍はただ一つの答えを待ち望んでいた。
そしてそれはすぐに叶えられた。
「私をあなたのものにしてください。いいえ、私はずっとあなたのものでした。私はあなたのために生まれてきたのですから」
何度味わっても飽きることのない感動は――もはや溢れんばかりだ。
これは奇跡だ。いいや、運命だ。この日、この時のために数々の辛苦に耐える必要があったというのならば幾度でも同じ人生を繰り返すだろう、そう英龍は思った。そうだ、いくらでも苦難に立ち向かうだろう。ただ一人、心から望む待ち人がいてくれるというのならば――。
「ああ……」
ただ一人のためにつくため息には甘さと熱情が入り混じっている。
理性はとうの昔に焼き付き灰と化している。
「余もこれからはそなたのために生きよう。そなたのために生きて、そなたのための皇帝となろう」
「うれしい……」
「そなたにふさわしい皇帝とは、つまりは最上の皇帝だ。そうだろう?」
「ええ。陛下、どうか。どうかあの夜のように……」
「ああ……」
あの夜を再現するかのように、英龍の唇が自然と少女の唇に触れた。最初は羽根のように軽く優しく、だが次第に望むままに――熱く激しい口づけを繰り返していった。
*
この夜、静まりかえった開陽の夜空に流れ星がいくつも観察された。
最後の星が地平線の彼方に消えた瞬間――それが金昭儀が術者としての力を失った瞬間だった。
次話から新章、本作の後半となります。