6.禁忌の術
「金昭儀。余だ」
やや声を張り上げ呼びかけると、奥の方、金昭儀が伏せていた顔をゆるゆるとあげた。初めて光ある場で見る金昭儀は、髪の白さもさることながら、肌も着物も何もかもが白かった。さながら熟練の人形師が造り上げた精巧な人形のように。
だがわずかに開かれた瞳の中央、見えぬはずの薄墨色の虹彩が英龍をとらえた途端――。
「へ、陛下……」
金昭儀の血の気のない唇が震えだした。
「……陛下っ!」
二度目の呼びかけはもはや叫びだった。
「おゆるしください! 私は月の御子を見失ってしまいましたっ……!」
「は?」
「陛下の大切な月の御子を、ずっとずっと慈しみ護ってきた月の御子を……!」
つ、と金昭儀の見えぬ瞳から涙が一筋流れた。
「陛下のために生きることが私の宿命であるというのに……!」
少し考えたものの英龍は冷静に指摘するにとどめた。
「いいや違う。そなたは趙家のための妃だろう」
これに金昭儀がかぶりを振った。
「いいえいいえ! 違うのです! 私はあなた一人のために生きてきたのです。皇帝となられたあなただけのために! 金家の妃とはそういうものなのです……!」
言い募る金昭儀の必死さが、英龍の怒りを針の先ほどの正確さで刺激した。
「いい加減なことを言うでない……っ!」
英龍には晩春から抱えて続けてきた無尽蔵の恨みがある。
「そなたは趙家のための妃であろうが! でなければ余に対してあのような愚行はできなかったはずだ!」
今――その恨みが矛先を完全に定めた。
「そなたは余のことを!」
ばん、と英龍が力強く自身の胸を叩いた。
「この余のことを利用したではないかっ!」
再度胸を叩いた英龍は、決して人前ではずしたことのない善なる皇帝としての仮面を脱ぎ捨てていた。
「余の触れてほしくないものに触れ、余の大切なものを弄んだではないかっ……!」
怒りに打ち震える英龍の姿は、強烈な波動となって金昭儀に届いている。目は見えないが、能力者である金昭儀は伝わる波動から相手の意図を読み解く術を熟知しているからだ。しかも金昭儀は相手の筋肉の動き、血流の流れ、心拍、息の荒さ、体温、気流と、様々な因子から、他者の心の内すら読み取ることもできてしまう。
ただ、その術を保つために金昭儀は昔からの侍女以外をそばに寄せずに暮らしてきた。そのため人の心の機微を理解する能力には欠けていて、英龍の言いたいことを咀嚼するまでに十数拍という長い時間を必要とした。
「……ああ」
ようやく怒りの原因に理解が追いついたのだろう、じっと瞳を閉じて考えこんでいた金昭儀が大きく息を吐いた。そしてまたあの薄墨色の瞳で英龍を見上げた。
「そうだったのですか……。陛下、私は失念していたようです。人を大切に想う感情の中には非常に強いものがあるということを。陛下はあの娘を愛していらっしゃるのですね」
人形のような面で淡々と語られ、英龍の怒りが倍増した。
「ふざけるなっ……!」
「ふざけてなどおりません、陛下」
言うや金昭儀の面持ちが変わった。先ほどまで気が触れたかのように謝罪を繰り返していたはずが、一転、冷静さを取り戻している。
ばたん、と英龍の背後で戸が閉まった。二人以外には誰一人おらず、戸には何の動力も仕掛けもないのに――閉まったのである。
しん、と静まり返った室内で、あれほど眩しかったはずの光も消え去った。燭台の炎にふっと息を吹きかけたかのように、あっという間にこの場が闇に転じた。
「……そなた、何をした」
睨む英龍に金昭儀は笑みで応じた――その気配がした。光源が失われた世界でははっきりとは見えないが、確かに金昭儀は笑った――そう英龍は感じたのである。
英龍の怒りが一瞬にして収まり、代わりに沸き上がってきた感情は恐れだった。今宵多くの女が自分に恐怖する様を見たが、まさか自分も同種の感情に襲われようとは……。
ぽお、と、金昭儀のいる辺りにだけ正体不明の淡い光が灯った。
やはり金昭儀は笑みを浮かべていた。
瞳を閉じたままで、唇をやや横にひいただけの笑みで。
「陛下。私にもまだできることがありました」
英龍は下がろうとした。だができなかった。足が動かないのだ。
「あなたの妃としてできることが……たった一つ。金家の女が生涯ただ一度だけ使える禁忌の術、これを使う時が来たようです」
「……何をするつもりだ?」
腕を大きく振ってみたもののやはり足は動かない。床に吸いついてしまったかのようだ。
おもむろに金昭儀が頭を下げた。顔も見えないほどに深々と。
途端に室内の空気が変わり出した。顔を伏せる金昭儀から何か未知のものが放たれ始めたのだ。
ずっとこの北の領域の空気がおかしいことに英龍は気づいていた。だがこの側妃から放たれ始めたものは比べ物にならないほど異様だった。一言でいえば生理的に受け付けない、これに尽きる。
だがもはや腕も上がらなくなり、口をふさぐこともできない。次第に息が苦しくなり、何か異質なものに内部から犯されていくかのような不快感が喉元からせりあがってきた。……だが為すすべもない。
『金家の女に自ら近づいてはならない――』
亡き父の晩年の声が遠く彼方から聴こえた。
「さあ陛下。陛下」
金昭儀が連呼しはじめた。
「陛下。陛下。陛下」
虫のように細い金昭儀の声が次第に明るみを帯びていく。
だが英龍は鳥肌をたてながら己の側室を注視するほかない。
(この女はただの女ではない――)
「陛下。陛下」
三十歳近い女の声が若返っていく。
「陛下。陛下」
健やかで快活な声に変化していく。
「陛下」
若返った声が特定の少女の声へと調整されていく。
「――陛下」
完全にその少女の声に一致した瞬間、金昭儀が顔を上げた。
英龍は一目見た瞬間、たまらず叫んだ。
「楊珪己?!」
突如、楊珪己が――ずっと焦がれていた少女が英龍の目の前に現れたのである。
「なぜそなたがここに……?!」
もう恐怖などきれいさっぱり忘れて、英龍は目の前の少女を食い入るように見つめている。
実際にはそれは楊珪己ではない。金昭儀だ。髪は黒くないし健やかさのかけらも有していない成人女性だ。なのに英龍の目には齢十六の剣女の姿が見えている。
これぞ金昭儀の語った禁忌の術だ。
人は光を通して周囲の物を認識する。金昭儀はそれを操作したのだ。光が波であることを利用し、我が身が英龍の求める少女に見えるようにしてみせたのだ。
少女の姿は夢を通して波動という形で『観察』し続けてきたから知っている。声も然りだ。声も紐解けば強弱ある波の重ね合わせだから真似ることは造作もない。
「なぜだ。なぜここにそなたが……?」
もっと冷静な時であれば英龍も気づいただろう。目の前の少女は幻であると。金昭儀の語りをしっかりと理解できていれば、これこそが金昭儀の術だと気づけただろう。
だが英龍は限界にきていた。
何もかもに疲れていたのである。
心のゆるみが常になく簡単に解かれていくのも金昭儀の操作によるものだと気づけないほどに、英龍は驚きに固唾を飲んでいる。
少女と目が合った瞬間、英龍の胸が大きく跳ねた。
だが心の臓が止まるのではないかと思えるほどの驚愕は決して不快ではない。跳ねた後の余韻は柔らかく甘く……そして温かかった。