5.理性、理性、理性
北の領域にはただならぬ気配が漂っていて、近づけば近づくほどに空気が嫌な方向に濃くなっていくのを英龍は感じた。
江春の行動をきっかけに心の均衡が崩れた英龍は、普段は奥の方にひそめている人間らしい感情の一つ、怒りに支配されかかっていた。まだ自我は残っている。だがふつふつと湧き上がってくる怒りに流されている方がずっと楽なのだ。
一人嗜んでいた酒の効果もあって、心の扉がたやすく開いてしまっている。
これが本能に従うということなのだろうと、英龍は頭の隅で考えた。
と、春の盛りに異母弟・龍崇と語ったことが思い出された。
『いいですか、英。あの男から放たれていた気は、まさしく牝を求める獣でした。確かにあの男は楊珪己の内面に興味を持っただけのようでした。しかしそれはきっかけの一つにしかすぎません。欲望に火をつけるきっかけなど、幾千幾万とあるのですよ。そしてあの男はあきらかに欲の虜となっていました。見ていて吐き気がするくらいに欲に忠実な獣となっていました』
『欲に忠実な……獣か』
『そうです。皇帝の前であのように欲を隠さない者など普通はおりませんし、もう二度とお目にかかることはないでしょうが、あれはなんとも分かりやすい男でした。覚えておいてください、ああいう気を放つ男は獣です。理性のある人間とは異なる種なのです』
理性、理性、理性。
ぎりりと奥歯が鳴った。
(余はいつでも理性を求められている)
(皇帝であることを求められている)
(では余は獣にはなれないということなのか)
(余は自らが選んで皇帝で在るのではなく、皇帝にしかなれない貧しき者なのではないか?)
この長い人生において人が選び取るべきものとはなにか。
義務か? 名誉か?
生か? 愛か?
それは誰が決めることなのか。
他人か? 社会か?
法か? 倫理か?
自分か? 神か?
(あの芯国人は本当に間違っていたのか……?)
幸福を実感できない自分と、自らが欲するところに忠実に行動していた芯国人と、どちらが正しくてどちらが間違っていたといえるのか。
人として目指すべきはどちらの生き方なのか。
人として幸福なのはどちらなのか。
(……どちらなんだ?)
それを決めるのは誰なのだろうか。
他人か? 社会か?
法か? 倫理か?
自分か? 神か?
(……堂々巡りではないか)
深いため息をついたところで、
「へ、陛下?!」
「陛下です、陛下がおいでです……!」
堂々と金家の領域に踏み込んできた英龍の前に、結わない長髪が特徴的な金家付の女官らが次々に姿を現した。だが誰一人として禁域に侵入してきた英龍を咎めることなく、それどころか口裏を合わせたかのようにその場に一斉に平伏した。
「陛下! どうか凛様をお救いください……!」
その途端、誰もの肩から流れ落ちた長い黒髪、それらが床に一斉にうねりを描いた。その独特の模様が渦巻く様には圧すら感じられた。それはまるでこの場に満ちている嫌な空気を具現化したかのようだった。
とはいえ金家の筆頭の女こそが奇天烈な人間であることを知っているから、英龍はただ眉をよせるに反応をとどめた。
「凛?」
言葉に出すことで英龍はその名の意味を思い出した。そうだ、金昭儀の名は藍凛であったな、と。
「妃はどうしたのだ」
だが動揺の続く女官らは誰も的を得た返答をしなかった……いやできなかった。頭を伏せ身もだえするばかりで、そのたびに床の上の黒髪が蛇のようにうねうねと動くから――不快感が増すばかりだ。
しびれを切らした英龍は側妃の室の戸に手をかけた。
「入るぞ」
だが英龍の手によって戸がわずかに開かれた瞬間――。
その隙間から尋常でない白光が漏れ出し、無数の弓矢のごとく四方八方に放たれた。
「きゃあああっ……!」
女官らの誰もが叫び、伏せた状態のままで次々に両手で顔を覆っていく。
そしてその場で皆が寄り添い合い、頭を抱えてうずくまった。
「凛様が、凛様が……!」
「このようなこと、前代未聞のことぞ……!」
その怯えようは先ほど以上のものだ。
「ああ、おいたわしや……」
両手をこすり合わせて一人一心不乱に祈りだしたのは、この一群でもっとも年老いた女だった。
「これほどの力の暴発を押さえることなどもうできまいて。このまま光に包まれて死するほかないて。ああ、なんておいたわしい……」
「どういうことだ」
英龍は呟き続ける老婆に近寄るや膝を折って問いつめた。だが老婆は聞いているのかいないのか、同じことばかりを繰り返すだけだった。
「凛様をゆるしてくだされ、陛下。お願いです、ゆるしてくだされ……」
「は……?」
老婆はその場で床に額をこすりつけ、両手を頭の上でこすり合わせた。
「凛様は金家の宿命に逆らえなかっただけなんだ。趙家のために生きることしかできないんだ……。ゆるしてやってくだされ……」
英龍はあらためて周囲を見渡した。
そうすればもうはっきりと分かった。
言葉にできない混沌によって皆が打ちのめされていることに――。
これは落雷程度のことでも、女達の主が気を失った程度のことでもない。もっとこう、それ以上のひどいことが起こったのだ。その証拠に女官らは皆一様に絶望していた。そう、これは絶望だ。何かしら最悪の事態がここで起こっているのだ。
(……なにが起こったんだ?)
英龍は立ち上がるや、果敢に再度戸に手をかけた。
強い光が漏れ続ける戸を、始めは少しずつ、だがすぐに大きく開いた。
強烈な光は無数の弓矢のごとく英龍を貫き、英龍の背後で寄り添い合いうずくまる女官らにまで届いた。それに誰もがこと切れる直前のようなか細い叫びをあげ、やがて一切の物音を立てなくなった。実際に死んだのではなく気絶したのだろうと、英龍は気配から察した。
(普段から暗がりの中で暮らしているせいで光に異常に弱いのかもしれぬな……)
たが英龍は違う。常に光り輝く世界で生きている自負すらある。だから眩しさに目を細めたものの閉じることはしなかった。
室内には光源はいっさいなかった。
また超常現象の類か、と不快に思いつつ英龍が視線を巡らすと、奥の方に金昭儀が一人うずくまっているのを発見した。