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4.なりませぬ

 後宮に入ると皇帝の突然の来訪だけが理由ではなく、確かに空気がざわついていた。淑やかで美女揃いの女官らの間にも常の落ち着きが欠けている。


「陛下」


 すっと目の前に現れ膝をついたのは女官長の江春こうしゅんだ。


「落雷があったということで様子を見に来た。淑妃しゅくひと菊花は息災か」

「はい。お二方におかれましては幸いにもすでに床についておりまして、落雷にも気づかれることなく眠られております」

「そうか。音がしなかったというのはまことだったのだな」

「はい。ですが多くの者が雷が落ちる様を目撃しております」


 その時、江春の後ろに並び座る女官らが一斉に首を縦に振って同意を示した。


 皇帝が会話をしている最中にこのような人間味あふれる動作を女官らがすることはめったになく、それが英龍の興味をひいた。


「詳しく説明せよ」


 よっぽど皆の心に残るような珍事だったのだろう。江春の方も実は事細かに話したかったようで、やや膝を前に進めてきた。


「西の方から一筋の光がこちらに向かってやってきたのです」

「ほお。西の方から」


 酒のせいか、ほんのわずかな情報を得ただけで英龍は空想の光を思い描くことができた。雷であればそのように動くわけがなく、ややするとおとぎ話のようにも聞こえる。


 だが江春は英龍が内心で笑いをこらえたことにも気づかない。


「その光はどんどんこちらにやって参りました。それゆえ皆が手を止め足を止め空を眺めました。その間にも光はぐんぐんとこちらに迫ってきたのでございます」


 語る舌を緩めるどころか、逆に白熱していく。


「最初の頃は皆で面白がっておりました。ちょっとした余興のように。ですが光は急激に大きな塊となって迫ってきたのです。危ない、と誰かが叫びました。私も思わず顔を背けたのですが、その瞬間、ぱっと辺り一帯が明るくなったのです。西宮や東宮までもがくっきりと浮かび上がって見えたほどでした」


 後宮と西宮、東宮の三宮があるここを華殿というが、華殿の敷地面積は縦十里横十五里ほどと広い。よって、このように夜遅い時間ともなれば全体を見渡すことなどできなくなる。一応星明かりはあるので、薄墨に染められた布越しに見えるかどうかといった程度でお互いの宮の存在を確認できるが……それらがはっきりと目視できたとなれば相当の明るさだったに違いない。


「ふむ。光の正体は花火のようなものだったのかもしれないな」


 この時代、火薬はすでに発明されており、花火は各種行事において打ち上げられていた。しかしこの発言は発言者自らによって即否定された。


「だが音がしなかったのであれば花火ではないな。ではなんだ? 星が落ちたのか?」


 星が落ちるとは隕石の飛来を指している。空から時折落ちてくる石は死んだ星の躯だと信じられていて、この時代にしてはそれなりに正しいものの見方がされていた数少ない事象の一つがこれだった。


「いえ。それが建物のどこにもそのような被害はありませんでした。ただ……」

「ただ?」

きん昭儀しょうぎが気を失ったとのことです」

「……気を失った? あの妃がか?」


 そのような繊細な女ではないと思っていたから、英龍は素直に驚きを感じた。


 先ほど江春に後宮の主要な人物三人のうち二人についてのみ訊ねたのは、愛情の有無だけではなく『あの女なら問題ない』と決めつけていたからなのだが……。


 だが江春は英龍の再三の確認にも首肯してみせた。


「はい。金昭儀付の者がそのようなことを叫び右往左往している様が目撃されています」


 いわゆる一般的な女官とは異なる金家付の女官――英龍が金昭儀のもとを訪れたことはこれまで二回しかないが、そのたびに彼女たちは一様に無表情を貫いていた。押し黙り座る様には鷹揚な雰囲気すらみられたものである。


 そんな岩のごとき女達が平常心を失ったということは……つまりは、それほどまでにただならぬ出来事が起こったということだ。


 英龍は興味をひかれた。


「とはいえあのあたりは私共が近寄ることは基本禁止されておりますので、現在金昭儀のご容態がいかほどなのかは測りかねますが……陛下?」

「余が金昭儀を見舞ってこよう」

「……陛下っ!」


 横を通り抜けるや大股で迷いなく突き進もうとする英龍を、あわてて江春が追った。


「陛下! なりませぬ! 金家の妃には……!」


 言い募る言葉は英龍によって打ち消された。


「自ら近づいてはならない、だろう? 分かっておる」


 だが英龍は足を止めない。

 金家の女に会う、そう決めたからだ。


「陛下! おやめください!」


 皇帝を制止するため、江春が責務一つで己を奮い立たせた結果――その手が無意識で英龍の黄袍の袖を掴んだ。


「……なんだ?」


 足を止めた英龍に見下すように睨みつけられたものの、気丈にも江春は手を離さなかった。周囲で様子をうかがっているだけの者など自らが叱咤されたかのように怯えだしたというのに、江春は黄袍を握る手を解こうとしない。


 ひいい、と誰かが小さく叫び、ややあって一人の女官が貧血を起こして崩れるように倒れた。他の者たちも二人の動きを注視しながらも様々な反応を示し始めた。


 そんな彼女たちには一つの共通点があった。


 それは皇帝の怒りにひどく怯えているということだ。


 なぜか。それは後宮に住む彼女らにとって、日々を共に過ごす皇族の女人は近しい主であるのに対し、それ以外の皇族――つまり成人男性――は別次元の存在だからだ。市井の民ほどではないが、彼女たちも皇族に対して十分な畏怖を抱いているのである。


 しかも英龍はこの国で最も尊ばれる皇帝だ。自ら話しかけることはもとより、触れることも、自らの意見を述べることも、あまつさえそれで怒りを買うことなど、ご法度――禁忌以外の何物でもない。


 やがて黄袍を掴む江春の手が小刻みに震えだした。


 崇高な使命感だけでは抑えきれない恐怖の源は本能によるものだろう。


「放せ」

「なりませぬ陛下っ……!」

「放せと……」


 一瞬、英龍の目の奥が陰った。


「……言っておろうっ!」


 英龍が大きく袖をふるった。


 回る袖に振りきられた江春は、後ろに控えていた女達の足元に叩きつけられた。


「女官長様っ!」

「江春様……!」


 だが誰も動くことができず、手を差し伸べることもできないでいる。


 それほどまでに彼女達にとって皇帝とは恐ろしい存在なのだ。


 しかも英龍のつり上がり気味の瞳ははっきりと怒りを示していた。ただ恐ろしいだけではなく怒りをもってふるまわれたら、もう誰にも手出しすることはできない。……できるわけもない。


 江春は軽い脳震盪を起こしたらしく、姿勢を正すことも乱れた着衣を直すこともできず、力なく床にうずくまっている。その江春を今一度睨むと、英龍は一人後宮の奥へと消えていった。



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