3.この世を変えるほどの力を
晃飛の家で超常現象が起こり、仁威の内面に未曾有の暴走が起こった夜――ほぼ同時刻に遠く首都・開陽でも小さな騒ぎが起こっている。
その事実を英龍は自室で一人酒を嗜んでいる時に侍従から聞いた。
「陛下。後宮の北の方に落雷があったとのことです」
「雷?」
英龍は窓の外を見た。
だがわずかに期待した雨雲は見つけられなかった。
英龍がまず第一に天候について関心を寄せたのも無理はない。今年、湖国では秋口から雨量が激減していて、特にこの一か月ほどは一滴の雨も降らない異常事態が続いていたからだ。天変地異とは予測しがたいものであるが、人々の生活の基盤を揺るがしかねない重要事項であるし、つい先日、治水事業に追加予算をつけることを検討するよう中書省に命じたばかりでもある。いくらこの国に千の湖があるといはいえ、それに胡坐をかいてはいられないのが政というものだろう。
皇帝の無言の疑問を推察し、侍従が深々と頭を垂れた。
「雨は降っておりませんし雨雲も出てはおりません。実は誰も落雷の際のそれらしい音を聞いてもおらず、やや奇怪な現象だったようです。そのため報告にあがった次第です」
「なるほど。確かに奇怪だな」
「ですが落雷の瞬間、爆発が起こったかのように辺り一帯が明るくなったとのことです」
「ふむ。相分かった。ところでこの件は龍崇には伝えてあるのか」
龍崇とは英龍の異母弟である趙龍崇のことだ。本来であればこのようなことは華殿を取りまとめる龍崇が対応すべきことで、英龍の耳には入りさえすれば十分なのである。
「知らせは出しております」
そう応えた侍従が、いまだ下げたままの頭をより深く下げた。
「とはいえ黒太子は慶楼にて勤めており、こちらに戻られるまでにはもう少し時間がかかるそうです」
「ふむ」
「やや奇怪な現象であったと先ほど述べましたが、被害もなく、あまり緊急性も重要性もないと思われるため問題はないかと存じますが……いかがいたしましょう」
それに英龍は思案する顔になった。
英龍はこの異母弟と晩春に決裂している。さらには晩夏において自らの信義の下いっそうの距離を置いてきた。それから二人は私的な言葉を一度たりとも交わしていない。英龍にはかけるべき言葉がなくなり、龍崇の方もそれに異議を唱えることなく身を潜めているからだ。
だが。その龍崇がなぜか近頃、皇族としての任にこれまで以上に精を出すようになっていた。また、華殿内のことのみならず広範囲において政務に積極的に介入するようになっていた。
必死さも感じるその様子は、肉親の色眼鏡かもしれないが兄である己の信頼を取り戻すためのものに思えていた頃だった。
日々多忙を極めるようになったからか、龍崇は自室に妓女を呼ぶこともしなくなった。
今、龍崇が慶楼に詰めているのは、半月後に迫った年明けの行事、春節の準備のためだ。この日、開陽には各州の長や貴族、通方に住む皇族らが一堂に会する。そこで英龍は皇帝としての自らを、この国の繁栄のほどと盤石なる国力を改めて示さなくてはならない。
よって、行事関係は通常礼部主導で実施されるものの、この春節だけは皇族にとって重要視すべき特別な行事であるといえた。つまりは両者どちらにおいても失敗は許されない最重要行事だということだ。だから礼部にとっても、英龍にとっても、龍崇が春節に積極的に関与してくれる現状は渡りに船だった。
つと考え、英龍は盃を置いた。
「龍崇にはやるべきことがあるゆえ、此度は余が動こう」
「陛下が、ですか?」
「後宮内のことであるし妃や姫のことも気になるからな」
後宮は皇族以外の男性の立ち入りが禁じられているし、現在、後宮に住まう高貴なる女人は皆すべて英龍に関わる者ばかりで――となれば、龍崇の次に動くべきは自分だろうと英龍が決断したのはあながち間違ってはいない。……その身がこの国随一の皇帝であり、このような些細な出来事で動くような人間ではないことを除けば。
侍従の何とも言えない表情を一瞥し、英龍は立ち上がった。
「時間が惜しい。すぐ水を持て」
命に従い早足で下がっていった侍従を、英龍は半ば申し訳ない思いで見送った。
実は英龍は先ほどから暇を持て余していただけで、特段急いではいなかったのである。
多種多様な命令、指示は出し終えていたし、考えるべきことは考え終えていたし、あとはもう寝るくらいしかやることがない、そんな状況だったのだ。
このような時間はなかなかない。だったら本を読んだり琵琶を奏でたり、家族を訪ねたり、好きなことをすればいい。……なのだが、英龍の心はずっと沈んでいて、そういったものを望む気持ちが起こらなかったのだ。だからさっきまで酒を飲んでいた、それだけだったのである。
やがて侍従が揺らめく盆に冷水の入った椀を捧げ持ってきた。早い呼吸に上下する肩は、英龍の命じたとおり全速力で駆けてきた証だ。
英龍は椀を取り上げるや水を一息で飲んだ。
普段から酒には飲まれないように気をつけている。だがこれから大勢の視線を集める場に出るのだから酒気は可能な限り消し去りたい。酒の香りがする皇帝というのは英龍の美意識にそぐわないからだ。
だが今夜は思った以上に飲んでしまったようだ。冷水を流し込んだ胃の腑の奥の方に、いまだにじんわりと熱を感じる。一人黙々と飲む酒は止める者も会話する者もいないからすすみやすいということを、英龍はいまさらながら知った。
東宮を出ると、闇色の空の下は身震いするほど寒かった。厚い毛で覆われた外套はおそらくこの国でもっとも温かいものなのだが、だからといって真冬の夜が寒いことには変わりはない。
(余が本当に神の子孫であるなら、少なくともここまで空気が凍てつくことを許しはしないのだがな……)
ほうっと吐いた息はどこまでも白く清らかで、それこそが神の支配する自然界の神秘さを物語るかのようだった。少なくとも英龍にはそう思えた。己が日々こなす政務ではなく、白い吐息一つにこそ神が宿っている――そう思えたのだ。
皇族とは神の子孫であり、皇帝とはこの世で唯一神の声を聴くことができる者――そう市井の民は信じているが、当の本人はまったく信じていない。
珪己を失って以来、英龍はずっと孤独の中で生きてきた。この春、菊花と胡麗というかけがえのない家族を手中に取り戻しはしたが……それでも強く欲した女人を失った事実はこの男をひどく傷つけていた。心はひどく空虚だった。
これほどまでに欠乏した心を抱える者が神であるわけがない。
だからといって自暴自棄にはならないように努めている。政務の指揮においても手を抜くようなことはしていない。今更皇帝であることを辞めることなど自殺でもしない限り不可能だからだ。それに皇帝であるがために愛した女を失ったのだ、愛と引き換えにしてもいいほどの尊い務めだと思わなければやってられないではないか。
(この世を変えるほどの力を本当に余が持っていたならば……)
天には幾千幾万の星が瞬いている。
冬の数少ない楽しみの一つといえばこの美しい星空だろう。どの季節よりも煌びやかな星空を鑑賞できるのは冬ならではのことだ。
だがこのような美しい光景を作ったのもまた自分ではない。
(……星の瞬きに己の無力さを実感する人間など、この国では自分だけだろうな)
そう思うと苦笑いがこみあげてきた。
物思う英龍であったが、一つの変化には目ざとく気づいた。
「今宵はあまり星が出ていないな。明日は久しぶりに曇りか雨になるのだろうか」
天を仰ぎ見ながら橋を歩く英龍の後ろにはいつものごとく数名の侍従がついている。そのうちの一人が「はっ」と低く応えたが会話は当然続かなかった。彼らはただついてくるだけの存在だからだ。
「それで雷が落ちたのかもしれないな」
推測を重ねる英龍の発言にも誰も応じない。
だがそんなことは英龍にとってはどうでもいいことで、あとは無言で夜道を歩いていくだけだった。
Sied storyの「朝でも夜でもない時間に」の数週間後、というのが裏設定です。Side storyのようなことがあったからこそ、龍崇の心は変化しました。未読の方はぜひシリーズから探して一読してみてください。