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2.護ることを選んだのだから

 推論、いや確信は、うぬぼれや希望によるものではない。


 だがそれは二人きりの放浪、極限生活を経た結果でしかないと仁威は思っている。放浪を共にする相手が李侑生であれば、きっとあの少女は李侑生に好意を抱いたはずだ。


(……ならば開陽に戻れば俺のことなどすぐに忘れる)


 珪己の抱く想いはそんな程度のものでしかない、そう仁威は考えている。なぜなら仁威の知る十代の少女の恋とはそういうものだからだ。ちょっとしたきっかけや憧れ、外見――仁威に言わせれば軽薄な動機づけで生じる恋、それが初恋というものであり、幼き者の好奇心をくすぐる恋だからだ。


 基本的には淡くて甘い恋、たとえ激しく燃えることがあろうとも鎮静化するのも早い恋――それが初恋というものだと思っている。


 だったら、一生放浪せねばならない自分に少女を縛りつけてはならない。いや、たとえ仁威がそれを望み実行したとしても、遅かれ早かれ少女の方から離れていくだろう。もうこんな生活は嫌だと言って。


 深いため息が出た。


 あらためて別離の決意をしその日の思索を終了する――それは毎晩のことだった。


 だがなぜか――この夜にかぎって恋情が暴れ出した。


 呼吸が一瞬止まるほどにそれは突然かつ強烈な変化で、仁威はとっさに両手で胸を押さえた。感情や欲求を抑制することは得意とすることのはずなのに、突如覚醒した恋情の激流はやすやすと防波堤を乗り越えたのである。


「くっ……!」


 まるであの夜、あの古寺での一夜のように、胸の内から怒涛のごとく熱い想いが溢れだす――。


 あれ以来、仁威はたびたび強い欲求に身を焦がしてきた。だがそれは自らが望む理想とは真逆の状態だったから、そのたびに強じんな精神力でもって無理やり抑え込んできた。抑えるべきだと思ったから抑えてきたのだ。


 そしてとうとう楊珪己への想いを捨てると決意するに至り、零央を離れて一人になり――これでようやく本来の自分を取り戻すことができたと、そう仁威は思っていたのである。


 なのにまた――。


「くそっ……!」


 より一層身をかがめ、仁威は甘い誘惑に耐えた。


 だがどうしたことか、誘惑の蜜はより濃厚なものに様変わりしはじめた。全身が燃える、そう錯覚してしまうほど内から体がほてってくる。


 夜ともなれば一気に気温が下がるこの界隈で、仁威の全身からじわじわと汗が噴き出し始めた。額からしたたる汗の雫がぽたん、ぽたんとむき出しの大地に吸い込まれていく。その雫を追うかのように、あとからあとから汗が噴き出し、乾いた大地に沁み込んでいった。


 凝縮された熱が仁威を乱暴に揺さぶり続ける。


 理性や理想、正義といった無数の壁に囲まれた仁威の心を、あの手この手で陥落せんと攻め立ててくる。


 やがて――強じんに閉じられていたはずの心に突如き裂が入った。


 破壊はあっという間に伝ぱし、心がひび割れ、砕けた。


 それに仁威は手も足も出すことができなかった。


 あれほど心血注いで鍛えてきた心が――。

 これ以上はないというほどに磨きあげてきた心が――。

 八年前、大罪の刻印をこの手で刻みつけた心が――。


 脆い砂のように形を失っていく――。


 仁威にとって心とは己そのものだった。


 もう何も有していない、未来永劫において新たに得るものもない仁威にとって、心とは唯一の財産であり誇りであり、己自身だったのだ。


 だがその自分自身が無残に砕かれていく――。


 おぞましい光景を眺め続けることに耐え切れず、仁威は狂ったように声を張り上げた。


「うわああああ……!」


 闇の中、四方を地平線に囲まれた無人の大地で、頭を抱え、身をのけぞらせて咆哮した。


『今すぐ零央に引き返したい……!』

『今すぐあいつの元に戻りたい……!』


 その願いがくっきりと脳裏に浮かび、仁威はとっさに強く頭を振った。


「もうあいつには会わない、関わらない、そう決めたんだ……!」


 握りしめた拳を地面に強く押しつけ、うめくように何度も繰り返す。


「もう俺はあいつの前には現れない、そう決めたんだっ……!」


 これほどまでに幾度も繰り返し翻弄されてしまう理由は分かりすぎるほどに分かっている。それは芙蓉に以前指摘されたとおりだ。


『そんなあんたがそれだけ悩んで苦しんでいるってことはさ、たぶん結論は出ているんだよ。それはきっと愛だ』


 この時仁威は芙蓉に問うた。芙蓉にとっての愛とはなにか、と。それに芙蓉はこう答えた。何物にも代えがたいものだ、と。


 そう告げられた瞬間、仁威は確かにその言葉を受け入れていた。楊珪己のために芯国の王子を倒し、武官を辞し、開陽を出たという事実は否定するところがなかったからだ。他の誰でもない楊珪己のためだからこそ、仁威はそれらの行動を選択できたのである。


 それもひとえに楊珪己のことを愛してしまったからなのだが――。


「……だが俺にとっては違うっ!」


 腹の底から吠えるや、仁威は土や砂にまみれた顔をあげた。


「俺が優先すべきものはそんなものなどではないっ……!」


 仁威は楊珪己を護ることを選んだ。


 だが愛を護ろうとしたつもりはない。


 愛ではなく、楊珪己そのものを護ろうとしたのだ。


 愛は欲と直結してしまう。ああしたいこうしたいという我欲が芽生えてしまう。だが仁威は楊珪己を護ることと欲を結び付けたくはなかった。愛することで楊珪己を護れなくなるのであればそんなものは捨ててしまいたいと、そこまで思いつめていた。


 そう、愛など捨ててしまえばいいのだ。


(だから俺はこうして一人でいるのではないか……!)


 やおら仁威が跳ねるように立ち上がった。


 煙る砂ぼこりの中、両目は異様なほどにぎらついている。荒ぶる呼吸、上下する肩、露出した肌に浮き出る血管、全身の緊張のほど……仁威の様相の何もかもが己が苦悩を如実に表していた。


 仁威は目を閉じると細く長い呼吸に切り替えた。


 そうして丹田に意識を集中させていく。


 一点に気を集めて丹念に練っていく。


 しばらくそうしていると、やがて息を吐くごとに乱れた呼吸が落ち着いていった。だがまだまだ、呼吸の深さや速さが普段と同等になるまで意識して呼吸をおとしていく。心に影響されやすい呼吸は、だからこそうまく操作することで心を制御してしまえるものなのだ。


 ――やがて。


 額に浮き出た汗を腕で拭うと、もうそこには己が望む姿を取り戻した仁威がいた。


 外套を巻き、荷を背負い、仁威は夜道を歩きだした。頭上に雲が満ち、辺りは真の闇に飲み込まれつつあったが、仁威はその夜一睡もせずに歩きどおした。時折ふらつきながらも、高い精神力を支えとして歩き続けたのであった。



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