1.馬祥歌と五人の武官
時はやや戻り、初秋。
湖国の首都・開陽は相も変わらずこの国一番の活気にあふれていた。
初代が興したこの国も三代の御代ともなれば、国は安寧という名のぬるま湯に浸かりきっているようなものだが、穏やかな平和を満喫するがゆえの曇りのない賑わいは、ここに住む者にとっても訪れる者にとっても歓迎されるべきものだった。
夏が終わり秋となってもこの街の賑わいは衰えを知らない。
木々の葉が赤や茶といった典型的な秋色に着々と色づいていき、吹く風の冷たさに時折鳥肌をたてつつも、人々の顔は往々にして明るかった。すぐそこに希望に満ちた未来があることを確信しているかのような、または今ある平和が続くことを疑っていないような、そんな楽観的な様子だ。だがそれは事実で、確かにこの四方五十里を囲まれた街の中には人々が思い描く幸福の源がぎっしりとつまっていたのである。
さて、では街の活力の源をきちんと挙げてみろと言われれば、それはもちろん政治の中枢機構である宮城の存在、これに尽きる。高く大きな壁で四方を囲まれた開陽、その中央にこれまた高い壁で囲んだ秘密の区域、それが宮城だ。
宮城に足を踏み入れる人々は、唯一の門・正門を通過すると二対の楼閣にまず目を奪われる。複雑な彫刻が施された瑠璃瓦を冠するこちら、一方を鏡楼、もう一方を慶楼という。外交用の楼、そして祭事用の楼であるから、ほとんどの者はここを素通りすることになる。
だが楼閣以上に人々を驚かせるのは、その先にそびえるこれまた二対の巨大な殿である。対称的に作られた四階建てで成る建築物はこの時代において最高層を誇っていて、一方を文政を司る中書省のための昇龍殿、もう一方を軍政を司る枢密院のための武殿という。この国の政治はここで取り仕切られているのだ、そう感嘆しつつ二殿の前で足を止める者はきっと政治を志す者に違いない。
だがこれまで紹介した何よりも誰もの心をつかむのは、この宮城に皇族が住んでいるという事実だろう。宮城内においてさらに壁に囲まれた一角――華殿――に住んでいる彼らを拝むことは高貴な身分の者でないかぎり願うべくもないことだが、すぐそこに彼らがいるのだと、そう考えるだけで光悦を交えた恐れに身をすくませたくなる。なぜなら皇帝は神の子孫であり、誰もがそう信じていたからだ。
しかし、だからこそ、このような時代であればこそ、街の人々は日々の生活の片隅に常に宮城の姿があることを誇りに思っていたのである。
*
さて、この宮城において今日は珍しい出来事が起こった。
ここ宮城に朝早くに姿を見せる官吏の顔ぶれはほとんど決まっていて、その中には礼部侍郎である馬祥歌の姿もあるのだが、彼女の身に起こったことがこれから語ることである。
ひっつめ髪と紫袍の組み合わせが特徴的なこの女性は齢三十半ばの働き盛りで、若くしてこれほどの地位に就く女性は、女文官が採用されるようになってはや数十年、いまだ珍しかった。つまりは将来を有望視される稀有な女性、それが馬祥歌という人物なのである。ちなみに彼女はこれまで恋人がいたことはなく、独身を貫く気概でその身を政務に捧げている。
自宅から宮城までの道中、祥歌の頭の中はするべき仕事ではやくも飽和状態にある。何が最優先事項で何を後回しにすべきか、何を自らがしなくてはならず何を部下に一任していいか、そういったことを整理するための時間だからだ。
なぜなら執務室に入った瞬間に即座に行動を開始したいから。
そう、祥歌はせっかちなことでも一部の間で有名だった。
だがこの日、宮城に乗りつけた馬車から降りたところで、祥歌は五人の武官に囲まれることになった。屈強な男たちにあっという間に距離を縮められ、祥歌が叫び声をあげそうになったのも無理はない。
だが至近距離で見た彼らの顔が一様に思いつめたものだったので、声を発する直前で祥歌はなんとかこらえた。
息を整え、姿勢を正し、礼部侍郎たる威厳をようやく取り戻したところで。
「どうしたのですか。私に何かご用でしょうか」
きりりとした顔で彼らの顔を一つ一つ見比べた瞬間――。
涙とは無縁そうな彼らの目が一斉に潤んだ。
まるで捨てられた子犬のように。
「お願いします。相談に乗ってください!」
お願いしますお願いしますと、自分よりも背が高く体格のいい男達に次々に頭を下げられ、祥歌が押さえ込んだばかりの動揺に支配されそうになっていると。
一人の男が言った。
「俺たち、袁隊長の行方を知りたいんですっ」
その一言で、祥歌は次にとるべき行動を即決した。
祥歌は五人を中書省内にある合議のための一室へと引き入れた。まだ朝も早い時間だからこの付近には誰もこないことを経験上知っている。それでも部屋に入る際には用心を欠かさなかったのは、礼部侍郎たる自分が五人の武官と密室にこもるなど、あとで何を噂されるか分かったものではないからだ。公的にも、私的にも。
だがそれは祥歌が女であることだけが理由ではない。中書省の文官と彼ら武官の間に接点など皆無であるはずだからだ。文官は頭脳派を誇示し、逆に武官は絶えまぬ肉体作業で国に奉仕する――そんな両者に親交を深めるきっかけも必然性もない。しかも祥歌は紫袍をまとう上級官吏なのである。
室に引き入れた五人の表情はいまだせっぱつまっていた。だがここにきて腰がひけてきたようで、狭い室の中でお互いの顔をちらちらと盗み見はじめた。誰から話す。お前が言えよ。いやお前が。えー、でも。そんな彼らの心の声が聞こえてきそうだ。
さっきまでの気概はどこへ行ってしまったのか。内心呆れかえりながらも、無駄な時間を憎むがゆえに祥歌は自ら話を再開した。
「あなた方、確か近衛軍第一隊所属ですよね。武殿の食堂でお見かけした覚えがあります」
それに不安げだった五人の表情がぱっと明るくなった。
「そうです!」
「ああよかった、覚えていてくれて」
だが祥歌の方は彼らの歓喜の余韻に浸るつもりはさらさらない。
「袁殿は隊長を辞したと聞いていますが?」
この晩春、芯国に関する任務を終えた週明け、袁仁威の辞職は朝議の場で報告という形で公にされた。枢密使である楊玄徳の口から直接説明されたことだ。
「ですがあなた方の話や様子から推測すると、袁殿は実は行方が知れないと、そういうことですよね」
「は、はい」
一人の男が意を決したように口を開いた。五人の中でもひときわ小柄な、どう見ても十代半ばとしか思えない少年だ。
(……ああ、この少年には見覚えがある)
武殿の食堂でこの少年の若さを糸にして袁仁威との会話を始めたことを、祥歌は昨日のことのように思い出した。
「隊長がいなくなったのは突然でした」
少年武官は緊張しつつも祥歌を正面から見つめた。
「突然とは?」
郷愁的になりかけた心には即座に蓋をする。
「はい。本当に突然いなくなってしまったんです。隊長を辞めるつもりがあるとか、そういったことは一切言わずに」
勢いづいて他の面子も語り出した。
「でも郭将軍は何も教えてくれないんです」
「あの顔、絶対に理由を知っているはずなんです」
「隠しているのがばればれなんです」
一斉に話す五人をかわるがわる見比べ、祥歌は腕を組んだ。
「なるほど。では私の方から李副使に訊いてみましょうか」
武官を取りまとめる任は、現在、枢密副史の李侑生が担っている。
だが彼の名前が出た途端、五人が気色ばんだ。
「それそれ!」
「それですよ!」
「李副使が怪我されたのと袁隊長がいなくなった時期、同じだって知ってました?」
訝り顔になった祥歌に一人が畳み掛けてきた。
「芯国の大使方の警護をした週の週末のことなんですよ、両方とも。これって偶然なんでしょうか」
場の空気が一瞬にして凍りついた。
冷気を発しているのは紫袍の女性、ただ一人だ。先ほどまでは事務的に受け応えしていたはずが、一転、眉間に深いしわを寄せている。
五人の武官は女からこのような強い気を感じたことがなく、一斉に口を閉ざした。たとえば祥歌の双眸、一見どこか一点を見つめているだけのようだが瞳孔の動きは思考の動きに完全に同期している。知識人と触れ合う機会のない五人にすら、祥歌の気の出どころが察せられるほどだった。
触れるどころか声をかけることもできないほどの緊迫した気を纏いだした祥歌に、男たちは語るべき他の言葉をすべて飲み込み次の言葉を待った。
やがて顔を上げた祥歌は一つの意志を固めたようだった。
「それはよくよく調べる必要がありそうですね」
細められた瞳が鋭利に輝いた様――それは武官が鞘から剣を抜く間際と同質の覚悟によるものだった。
馬祥歌は少女篇2から登場した、楊珪己の元上司です。
彼女と五人の武官のすれ違いは少女篇2第5章に記されています。