1.たとえ過去をやり直せたとしても
急速に陰った空に仁威は一瞬不安を感じた。だが周囲には忌むべき者の気配はなく、闇空に幾筋もの雲が流れていく様を確認できただけだった。
仁威は野ざらしの大地で眠りにつく準備をしているところだった。
零央を出立して以来、山中を進んでいた時も、山を下りた後も、仁威は常に外で眠っている。安い宿坊を利用できる程度には金銭的な余裕はあるが、人との関わりを極力避けようとすれば人通りのない道を進むべきだし、究極的には野宿こそが最良の選択であるといえた。
運のいいことに零央を出て以来一度も雨が降っていない。
なぜ『運がいい』と言えるのか。確かに水は生き物にとっての生命線だが、この国には千を優に超える湖があり、それらから四方八方に河川が生え広がっているので、この程度の晴天がつづいてもどの土地でも極端な水不足に陥るようなことにはならないからだ。
確かに首都・開陽のように人が密集する地域や農作物を育てる地帯では水の価値は高い。それでも『死活問題になるまで』追い込まれるような事態にはめったにならない。そのように灌漑設備が整えられているからだ。それゆえ、少なくとも旅をする仁威にとっては雨が降らないことは『運がいい』ことだった。
仁威はいったん起こしかけた身をもう一度緩やかに後ろに倒していった。重い体が硬く乾いた地面にぶつかった瞬間、細かな砂埃が薄布を広げたかのようにあたりに一様に舞った。
組んだ両腕に頭を載せ、仁威は遮るもののなにもない闇色の天空をあらためて眺めた。星や雲の動きを見ていれば明日の天候を予測することができるからだ。
(……とうとう晴れ間も終わりそうだな)
ほおっと一息つく。
確かに晴天が続いてくれたおかげで旅は順調だった。だが山を下りて以来、陽光を遮るもの――背の高い木々や建築物――の一切ない大地をひたすら歩く旅路は過酷なものとなりつつあったから、仁威の心は正直に安堵したのである。
人相が人目に触れないよう常に目深に外套をかぶっているせいで、蒸し暑さと息苦しさも相当な負荷となっている。夏場に山中を歩いていた頃に比べて今の方が厳しく辛い旅路となろうとは、さすがの仁威も予測していなかった。確かに雨に打たれ続けるよりはましなのだろうが……。それゆえここ最近は鋼のごとき仁威の体にもじくじくとした疲労が蓄積されつつあった。
だが。
(今夜はよく眠れそうだ)
眩しいばかりの星々の光にもいい加減辟易していたのだが、今夜は適度に雲が流れており星の輝きも静まっている。強すぎる光は常時監視されているような気分にもなって落ち着かなかった。
今日すべきことはすべて終えた――そう確信したところで目を閉じることにしている。
目を閉じてもすぐに眠りに入るわけではないし、たとえ眠りに入ったとしても神経の一部は常に覚醒させているのだが――野宿で深く寝入るようなことはしない――目を閉じた方が考えがまとまりやすいから閉じることにしている。
するべきことを終えたら、あとは自分だけの時間だ。
何も持たない仁威にゆるされた唯一の自由、それがこの思索の時間だった。
(あと数日ほどで桔梗の家族の住む村に入れるだろうか)
脳内でこの辺りの地図を思い描いていたら、ふっと、ごくわずかに気が抜けた。これでようやく長い旅路を終えることができる、と。だが正直に言えば達成感などかけらもなかった。
芙蓉のしたためた文を渡せば――桔梗が死んだ事実を家族に伝えることはできる。
だがもしも死に際のことを訊かれたらどう答えるべきだろうか。
ここにきてそんなことに意識が及んだ。
「幸せに暮らしていましたか」
「安らかな死に顔でしたか」
そのように訊ねられたらどう答えるべきだろうか……。
自然と思索の蔦は追憶の深層へと潜り込んでいった。
あの晩夏の夜へと最短距離で近づいていく――。
仁威はあの日のことをつぶさに覚えている。
桔梗との最期の会話も忘れたことはない。
『もしも神様がいて』
唐突に語られたたとえ話も、まるで昨日のことのように鮮明に覚えている。
『もしも神様がいて……今隼平さんが私を抱いてくれたら死なせないでやるって、そう言ったら……。そしたら、さすがに私のこと……抱いてくれる、でしょ……?』
それにうなずけなかった自分は仕方がないと思っている。桔梗が仁威に並々ならぬ想いを抱いたのと同じように、仁威もまた比類なき想いを別の人間に抱いているからだ。だが思い出すたびに苦しくなる。……それもまた仕方のないことなのだろう。
自分にとっての最善、最大、最良が他人にとって違うことはよくある。
だが。
『私が願ったのは……たった一つよ。あなたに一度でいいから抱かれたいってこと、それだけだったの……。そんなに不相応な願いだったの……? 私、隼平さんにとってそんなに嫌な女だったの……?』
死に際の人間にそこまで言わせてしまったのも事実だった。
『でもあなたは私を抱いてくれなかった……。だから私、不幸だったなあって思いながら死ぬのよ……』
これまで仁威は女人を抱くという行為に愛を交わすという意味付けを与えたことがない。ならばあの夜ももっとうまくふるまってやればよかったのだろう。言葉だけでも謝罪するなり、手を握ってやったり涙をぬぐったりしてやってもよかったのだろう。あそこまで言わせる必要は――きっとなかった。
それでも。
(たとえ過去をやり直せたとしても……)
(俺は同じようにふるまうだけだ……)
自分が頑固な部類の人間であることはとうに自覚している。
(ゆるしてくれ、桔梗……)
『分かるわ。だって私、これまでたくさんの人を見てきたもの……。生まれてから今まで、たくさんの男を見てきたもの……』
(そうだ……お前には俺のことが分かっていたはずだ)
『分かるわ……。私には分かったの、あなたがそういう人だってこと……』
(俺はそういう人間なんだ……)
(だからゆるせ……)
こうして毎夜思い出す――それ以外に桔梗のためにしてやれることはない。
だが桔梗のことを思い出すと、どうしても己の内に秘めたはずの恋情が呼び覚まされるのだった。
『私にもできることはありませんか? 私にもあなたのためにできることは何かありませんか……?』
涙で顔をぐしゃぐしゃにさせながら訴えてきた少女のことが――。
『私の大切な人なんです』
そう言いきった少女のことが――。
『罪があろうがなかろうが……私たち、同じ人間なんですよ……?』
一つ一つの台詞を噛み締めながら――あの刹那の幸福を懐かしんでしまうのはいけないことだろうか?
こうして長い時を一人で過ごし、仁威はあらためて確信した。
あの少女のことを愛している、と。
だが同じように、あらためて己のすべきことを見直すのだった。
(俺は俺の進むべき道を違えたりはしない。二度とだ)
八年前の盛夏、開陽で初めて味わった悔恨は今も深くこの胸に刻み込まれている。
(護るべき者を護る、それを違えることはしない。もう二度と……決して)
楊珪己のことは愛している。そう、この気持ちに名を与えるならば、やはり愛こそがもっともふさわしかった。それゆえ仁威はあらためて誓ったのである。あの少女を全力で護る、と。
仁威にとって『全力で護る』とは、掛け値なしですべてを懸け護ることを言う。そこに己自身の願望や都合を考慮することなど、絶対にゆるされてはならないのだ。
まず、楊珪己は開陽に戻らなくてはいけない。生まれも育ちも気性も性格も、何もかもが首都・開陽で暮らすべき少女だからだ。少女の父や李侑生が少女の帰還を渇望しているだろうことも想像に難くない。きっと自分以上にあの二人は少女との再会を待ち望んでいるだろう。
そして――このことも分かっている。
(……たとえあいつが俺に好意を抱いているとしてもだ)