4.解放
だが隣の老婆は微動だにしない。じっと天を見据えている。
次の瞬間、星々の放つ光量は急速に減衰し、やがて周囲には一切の光がなくなった――かのように思えた。
「まだ目が慣れておらんだけだあ。もう星は普段通りだあ」
老婆の言うことが正しければ、どうやら急激な変化に目がついていかないだけらしい。晃飛が強く目をこすりあらためて空を見上げると、たよりない光を発する星をいくつか、どうにか確認できた。
(……さっきの現象はなんだったんだ?)
星があんなふうに光ったり光らなくなったりするわけがない。
「妖がいたのか?」
「妖い? 違う違う。それとは真逆の存在よお」
ただの産婆、ただの芋虫みたいなばばあにしか見えないのに、老婆は人としてごく当たり前の反応を一切とっていない。今も平然と、「さ、帰るかあ」と言うと、勝手知ったる家のように玄関の方へと向かいだした。
その後を晃飛は慌てて追いかけた。
「真逆ってどういうことだよ!」
「真逆は真逆さあ」
玄関の手前には老婆の麻袋が放置されたままになっている。それを老婆はよいしょと声に出しながら背負った。そうすると曲がった背中はより一層丸まった。
「神様……とか?」
晃飛がためらいがちに訊ねると、老婆はほんの少し首をかしげてみせた。
「そうさあねえ。そっちに近いかねえ。正確には神のしもべってところかなあ」
「なんでだよっ。なんでそんな変な奴があの子のことをっ?」
「変な奴……ふむふむ。その発想は悪くないなあ」
顎に手をやり思案し始めた老婆に、晃飛はいら立ちながら迫った。
「ちゃんと教えろよっ!」
「おお、青年よお。お前は正しくこの世を見ることができるようだあね」
振り返り、晃飛を正面から見据えた老婆は、なぜかしら急に神秘に満ちた風を纏いだした。
「神も妖もな、共通点があるんだよお」
「共通、点?」
「おお。それはなあ、どちらも人の都合など考えやしないってことさあ」
「……は?」
「そして都合の悪いことになあ、奴らには自分たちの我欲を満たすだけの力があるんだあ。唯人には逆らうことのできないような巨大な力がなあ」
何言ってるんだ、このばばあ。
そう辛辣に言ってやろうとした晃飛の口は、一度開きかけたもののすぐに閉じられた。
晃飛は一切の神仏を信じていない。鬼も妖も信じていない。もちろん奇跡も運命も信じていない。ただ一つ、己自身だけを頼りにしてこれまで生きてきた。
初めて誰かに祈りを捧げたのは、この晩夏に珪己の体調が悪化した時だけだ。だがそれも旧友の透威と愛犬・真白――すなわちすでに亡くなっている存在に縋ったものであって、祈りというよりは懺悔に近いものだった。
だが老婆の力強い視線を受け、確かな信念のもとに発せられた芯のある言葉を聞き――晃飛は唐突に理解した。理解せざるを得なかったのである。
それはもう先程、天に輝く星々が証明してしまっている――。
晃飛は己自身のことをもっとも信じている。その自分の目が確かに見たのだ。天空で光が爆発し減衰していく様を――。
「でも奴らも万能じゃあない」
「……そうなの?」
「ああ。だからまた何かされるようなことは当分は起きないと思うよお。きっとここを見つけるまでにもそれなりの時間がかかっただろうしねえ。人間よりもできることは多いけれど、かといって万能なわけじゃあないってこった」
「へえ……」
聞けば聞くほど理解の範疇を超える世界だ。だが。
「だからこそ、あの娘のような人間が愛おしくなるんだろうよお」
何の気なしにつぶやかれたそれだけは、晃飛には無視できなかった。
「そうそう! それだよ! どうしてあの子が狙われなくちゃいけなかったんだよ?!」
「どうしてだろうねえ。だが神に気にいられているのは確かだろうなあ。昔も似たようなことがあってなあ、その時も随分長い間星がうるさかったよお」
「神様に気にいられている……? それって本当はいいことじゃないの?」
「何を言ってるんだあ!」
老婆の小さな目が限界まで見開かれた。
「今のあの娘を見ても同じことを言えるかあ?」
晃飛は束の間考え――そして静かに首を振った。
「……いいや。言えない。あの子は今幸せそうだけど……でも全然幸せそうじゃない」
「だろう?」
「ああ。あれじゃあただ生きているだけだ。ただ生きて子を産むために……ってまさか!」
突拍子もないと言われそうな思いつきをしてしまい、晃飛が老婆の方を見ると、老婆は「だろうねえ」とあっさりと認めた。思いついてしまった張本人が決して認めたくはないことを。
「あの娘か、もしくは腹の子の父親が神に気にいられているんだろうなあ。たとえばこれからの時代を大きく左右するような、なあ? もしくは父親自身が神なのか、はたまた神の化身なのか……」
老婆がゆるく首を振った。
「いんや。いんや。適当なことを言って青年を驚かせてもしょうがないわなあ。忘れておくれ。とにかくこれであの娘は術式からは解放されたから、しばらくすれば心も戻るだろうよお」
安堵しかけた晃飛に、「だがなあ」と老婆が身の毛がよだつようなことを言った。
「おそらく心が戻れば……あの子は荒れるぞお」
「……荒れる?」
「何か辛いことや考えたくないことがあったんだろうよお。そんなのが腹の子に害を及ぼさんようにって、それで心を操られていたんだろうからねえ。それが元に戻ってみてごらん、何が起こってもおかしくないわな」
「そ、それじゃ元に戻さない方がよかったじゃないか! せめて出産するまでは……!」
気色ばんだ晃飛を老婆は一瞥した。
「だがそれではあの娘はただの人形だろお? 子を産むためだけの、なあ」
「そ、それは……」
「あの娘はそれを望む性質かあ?」
「……いいや。それはない。あの子は流産しかけて自分も死にかけているような時に、俺にこう言ったんだ」
「ほお。なんて言ったんだあ?」
「選ばせてって、運命を自分で選ばせてって……そう言ったんだ」
「だろうなあ。そういう人間を神はことのほか好むでなあ」
話はまた元に戻った。
「自分に真っ向から挑んでくるような無謀な人間のことが、神は可愛くてたまらんのよお」
「……なんでそんなことあんたが知ってるんだよ」
今日だけで幾度も見せた超人的な行為、そして持参してきた貴重品。何もかも知っていますと言いたげなその口調……何もかもが癇に障る。
まさか一つの敵を倒したとみせかけてこのばばあも……などと晃飛が頭を巡らせかけたところで。
「経験だよお、経験。年だけはくってるからなあ」
老婆はさらりとかわし、
「それじゃ、また明日にでも様子を見に来るでなあ」
と、晃飛が引きとめる間も与えず悠々と去っていった。
「あ、ちょ、ちょっと!」
黒い芋虫のごとき老婆の姿はあっという間に闇の中に溶け、そして見えなくなった。代わりにようやく闇に慣れだした晃飛の目は空に瞬く星々をいくつもとらえた。だがどうにも蛍のごとき淡く儚い光に思えてならなかった。
ふるりとその身が震えた。
だが晃飛は震えが生じた理由を即座に寒さのせいにした。
「おお、さむさむ」
わざと軽い調子で独り言をつぶやきながら、晃飛は家の中へと入っていった。
*