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3.他にも恐れるべきものが

 晃飛が気絶していたのは束の間のことだったようだ。


 目を覚ますと氷板のごとく冷え切った玄関前に倒れていて、その隣では老婆が背負ってきた袋の紐をほどいている最中だった。


「あ、あれ……?」

「おお、さすがは武芸者だあ。目が覚めるのも早い。もう大丈夫だよお」

「言われなくても俺のことは俺が一番よく分かってる」


 だが起き上がろうとしたところで――体勢が崩れた。


「……くっ」


 全身の筋肉が奇怪な悲鳴をあげている。


 ちょっと動いては止まり、また動いては止まって。玩具のような滑稽な動作を重ねて立ち上がっていく晃飛に、老婆は小さな口を大きく開けてひゃっひゃっと笑った。


「……しょうがないだろ。すごく大変だったんだぞ」

「分かってるさあ。笑ってすまなかったなあ。いやいや、心が強いっつーのは良いことだなあ」

「今更おだてても遅いよ。で、うちの嫁さんのことだけど」

「おお、おお。分かってるよお。今準備してたのさあ」


 昼間、老婆は晃飛に言った。お前さんの嫁はひどく強い存在に憑かれていて自力では逃げられなくなっている、と。だから今夜儂が助けに行ってやる、と。そのことを言っているのだ。


「やっぱり思ってたとおりだあ」

「……って?」

「この家に人ならざる力が集中しているってことさあ。ここが拠点になってしまっているんだよお。さっさと破ってやらないとなあ」


 小さく高い声で、老婆が歌うように語っていく。


「確かにあの子は健康そのものだなあ。赤子もなあ。それにとーっても幸福そうだなあ。そう思えるってえのはさ、初産の妊婦にとっちゃあ最高の状態だよお。……だがあの子は自分自身を失ってしまっているなあ。心を誰かに操られているなあ。青年よ、お前さんよりもよほど強く」


 晃飛は迷うそぶりを見せながらも、ついには深くうなずいていた。


「……なんでだろう。俺、あの子がおかしくなっていることにも全然気づいてなかった。ずっと幸せそうにしているし健康そうだし、だからそれでいいんだって思ってた……そんな気がする」


 語尾が不明瞭な言い方になってしまったのは、晃飛自身にもこのところの自分の言動が整理できていないからだ。より分かりやすくいえば、起こった出来事のすべてを思い出せないのである。


 体中に生じる軋みは――まるで愚かな自分を鞭打つ罰のごとくだ。


「あの子を護らなきゃ、あの子を護れるのは俺しかいないんだ、またあの子に何かあったらもう耐えきれない……そんなことを思っていたのは覚えている。だからあの子が平和そうにしていることに安心していたんだ……」

「なあるほど。罪悪感と義務感、それに愛情と良心をいいように利用されてたってわけかあ」


 ずけずけと言いながらも老婆は手を休めない。薄汚い麻の袋から出てきたのは白磁の酒瓶と同じく白磁の小ぶりな壺、そして四枚の同素材の小皿だった。


 老婆は小皿を床に一枚ずつ並べると壺の口を覆う布を取り外した。そして皺やしみの目立つ手を壺の中に大胆に突っ込んだ。そうして取り出されたものはさらさらとした美しい粉雪だった。いや、そう勘違いしたのは一瞬のことで、それは目にも眩しい純白の塩だった。


 湖国では塩は大変貴重な代物だ。東の方、海岸沿いには塩田が多数あるが、国民の総数に対して十分な数があるとは言えないのが実情だったからだ。それゆえ、どうしても内陸の方への流通は悪くなり、だから西へ行けば行くほどより高価になる有様だったのである。


 そのため、国土の中央寄りに位置するここ零央では、塩は混ざりものの多い粗悪品が日常的に使われていた。ちなみに周囲の山では岩塩も採れることは採れるのだが、海の物よりも希少で、数倍の高値で取引されていた。当然、行先のほとんどは金持ちの腹の中だ。


 だが老婆の取り出したものは貴族でもめったに使うことのないような上物だった。


 夜目にも分かる細かい粒子と煌きに、晃飛の視線が老婆の手の内に釘付けになった。


「大丈夫だあよ。あんたから代金をとろうなんて思っちゃいないさあ」

「そ……! そんなこと考えちゃいない!」


 恥辱で顔を赤らめた晃飛を、「ほらほら」と老婆が眉をしかめてたしなめた。


「そろそろ静かにおしよお。さっき青年が術を破ったことにあちらさんも感づいているだろうからさあ」


 老婆は『誰に』とは明言しなかった。

 しかしそのことが逆に重い言葉となって晃飛には届いた。


 口を閉ざすや無意識に飲み込んだ唾は、せっかく音を失ったこの場でやけに大きく響いた。



 *



 老婆はすべての皿に大胆に塩を盛ると、まだ動きの鈍い晃飛に案内させ、それらを家の四隅に置いていった。ただの気休めかまじないの類か、そう思えるほどに、老婆は淡々とそれらの作業をこなしていった。晃飛は消化しきれない想いを抱えながらも老婆の言う通りに案内をするほかなかった。


 今でも老婆の言うことをまるっと信じることはできていない。

 だが自分の身に起こったことであれば疑う余地はなかった。


 自分の感覚であれば――信じられる。


 そういう自分をそろそろ見つめなさなくては、と晃飛は一時思っていたのだが……命にかかわる重大事の前では本能こそが道しるべとなるのは仕方のないことだろう。


 白い息を吐きながら、二人は最後に庭へと向かった。


 もうすっかり夜は更けており、庭では二人以外の生き物の気配は一切感じられなかった。それもそうだ、もう季節は冬で、しかも夜遅い時間帯なのだから。今の時期、零央で夜まで騒がしいのは一部の歓楽街と酒楼の連なる大通りの一角くらいなものだ。


 ただ、空には常にも増して星々が瞬いていた。


 空気が澄むこの季節ならではと解釈することもできるが――老婆は違った。


「ほんに眩しすぎるなあ」


 手でひさしを作りながらも、老婆の小さな目が皺だらけの瞼の隙間から鋭く空をねめつけた。


「眩しくてうるさいねえ」


 その瞬間、老婆が発した独特な気に――。


 晃飛はあやうく飲み込まれそうになった。


 仁威の発する気、武芸者そのものとも言える崇高かつ張りつめた気とはまったく違う。幼き日に透威や真白を襲った暴漢のような、猛々しいだけの気とも違う。だがこの夏、必死の形相で『選ばせて』と迫ってきた、命の雫を振り絞るような珪己の気とも違っていた。


(俺には他にも恐れるべきものがあるのか……?)


 こんな小さなばばあ相手になぜ、と己を疑いながらも、晃飛の背中を伝う汗は嘘偽りなく恐れによって生じたものだった。


 吐く息は闇の色とは正反対に雪のように白い。外気に触れている指の先など、随分前から感覚がなくなりそうなほどかじかんでいる。――なのに汗が止まらない。


 老婆はあの猫のような敏捷な動きで、ささっと、最後の皿をしかるべき位置に置いた。そしてなにやら呟いた。


 その瞬間――。


 昼間が訪れたのかと錯覚するほどに辺り一面が光に包まれた。


 大小さまざまな星々のすべてが一等星をはるかに超えた巨星に変化し、すべての星が爛々と瞬きだした。


 目もくらむほどの光の洪水に、晃飛は立っているのがやっとだった。


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