2.誰も邪魔するんじゃねえ
無意識で握りしめていた拳の内側では爪が手のひらに食い込んで地味に痛い。だがそうしていないと意識が飛んでしまいそうだった。このままふっと気絶して、またあの幻の中に――揺らめく小舟のような偽物の世界に飛び乗ってしまえたならどんなに楽か……。
「頑張れえ……!」
突然、老婆が小さく声を張り上げた。
「頑張らなくちゃあお前さん、また自分を見失ってしまうよお……!」
「……くっ!」
晃飛は歯を食いしばった。
一層力を込めた拳は、そのまま振り下ろせば鋼のごとき威力で相手を砕けるほどに締まっている。膨らんだ二の腕も、仕合中でもここまでにはならないほどの力が込められている。腕に、首筋に、脈打つ血管がくっきりと浮き出ている。
だが衣の奥ではそれ以上の変化が起こっていた。
己を保つために、晃飛は全力で何者かに抵抗していた。
本能によって引き起こされた防衛は――まさに闘いそのものだったのである。
「頑張るのはお前さんだあ! お前さんが自分で頑張るしかないんだあ……!」
「うるさいっ! そんなことはばばあに言われなくっても分かってるっ!」
頭を大きく振り、唾を吐きながら罵倒し。だがそんなふうに誰かに当たり散らかしても一時的にすっきりするだけだ。頭痛も消えるどころか段階的に激しさを増している。
辛いならいっそ身を委ねてしまえばいい。自我を何者かに委ねてしまえばいい。そうすればまたあの甘く心地いい幻に飛び込めるのだから――。
『ほら見てみろ……』
『そこに紅い海が広がっているじゃないか……』
『あの海はお前のことを待っているんだぞ……』
『岸辺に船が一隻見えるだろう……』
『あれはお前のために用意された船だ……』
『お前がいつも乗っていた船だ……』
「うるさいうるさいっ……!」
誘惑の声を晃飛は魂を振り絞って拒絶した。
たとえ痛みは消えても、そこには楽園という名の煉獄が大口を開けて待っているだけなのだ。また思考を奪われ言動を操られるはめになるだけなのだ。
昼間、老婆にこめかみを押されて正気を取り戻した瞬間――。
晃飛の感じたことを一言で表せば――それは屈辱だった。
なぜなら仁威が姿を消したあたりから今日この時まで、晩夏から初冬まで、自分が何をしてきたか一割も思い出せなかったからだ。そしてその一割も、自分という名の他人が梁晃飛を演じていただけのことだったからだ。自分が自分ではなくなっていたからだ。
武芸者の高みを一時でも目指したことがある身としては、闘わずして正体不明の者に己を売り渡していたことに、恥辱よりも屈辱を強く感じたのだった。
「くそっ……!」
そして痛みに耐えることとは精神的な攻撃に耐えることでもある。
痛覚は多少慣れこそすれど鍛えるものではない。それに超常現象による痛みなど唯人の晃飛に取り除けるはずもない。
ならば――痛みを感じて逃げたくなる自分を抑え込むしかない。
「くっそお……」
晃飛の指先がわなわなと震えだした。その震えはやがて肘に、肩に、全身に広がっていった。かたかたと鳴る歯、ぶれる視界。闘気を纏っているわけでもないのに全身に熱がこもっていくのは風邪をこじらせた時の悪寒に少し似ている。
――とうとう膝が笑い出した。
だが晃飛は決して地面に膝をつきはしなかった。今にも崩れ落ちそうになりつつも耐え続けた。気を緩めてしまった方が楽だろうに、いっそのこと寝転がって頭を抱えて丸まってしまったほうが痛みには耐えやすいはずなのに、それをしようとはしなかった。いや、選ばなかった。
それでは心が一歩後退してしまうから――。
痛みそのものに頭を垂れてしまうから――。
晃飛は両の拳で震える左右の太腿を思いきり叩いた。
「俺の体だろう、言うことをきけ! 俺は……絶対に屈しないっ!」
「そうだ、その意気だあ!」
老婆が歓喜の声を上げた。
長いようで短い、短いようで長い時が過ぎ――やがて晃飛の脳には激痛だけではなく幻覚までもが混入してきた。
おどろおどろしいほどの紅い沼が目の前に見える。いや、沼ではなく海か。先ほど一瞬見えた紅い海だ。漆黒の闇の下、その紅い海が津波のように晃飛の脳内に侵入してきた。
幾度も幾度も、絶え間ない濁流が襲い掛かってくる。休むことなく何度も何度も、引いては押し、押しては引いてくる。なんとか踏ん張っている晃飛の理性を根こそぎ引き抜こうと画策してくる。
その波の一つ一つが晃飛の精神に打撃を与えてくる。
「頑張れよお……!」
先程から応援するだけしか能のない老婆――だがこの老婆が声をあげるたびに、波間に埋もれかけていた晃飛は息をすることを思い出した。声が聞こえるたびに晃飛の理性は呼び戻されたのである。
「気を強く持つんだあ!」
「……うあああああっ!」
腹の底から晃飛が叫んだ。
「俺がやるって決めたことを! 誰も邪魔するんじゃ……ねえっ!!」
全身から汗を拭きだしながら、晃飛がそう叫んだ瞬間――。
あれほど我が身、我が心を襲っていたすべての痛み、異常が霧散した。
闇は払われ、紅い海ははるか彼方へと吸い込まれるように消え――あとに残ったものは光だけとなった。
*