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1.深夜の来訪

 その晩、珪己は夢を見なかった。


 夢を見たかどうかを検証する機会はその後一度としてやってこなかったが、確かにこの夜は一切の夢を見なかった。いつもの夢にたどり着く前に、真正の眠りの世界に沈んでいったからである。

  

 対する晃飛はといえば、この青年は夜遅くまで一人起きていた。


 なぜならあの産婆が自宅にまで押しかけてきたからである。



 *



 星明りの眩しい夜道を一人徒歩でやってきた老婆は、周囲の様子を気にしながら慎重に、しかししつこく門扉を叩いた。それに晃飛がしぶしぶといった感じで門扉を開けると、老婆は野良の猫を思わせるしなやかな動作で侵入してきた。


 そしていきなり、何の口上もなしに本題へと入ったのである。


「さあ青年よ。さっそくやるぞい」


 だがうなずく晃飛にはためらいが見えた。昼間この老婆から聞かされた話、それに一度は納得した自分がひどく滑稽に思えていたからだ。


『お前の嫁は何者かに憑りつかれているなあ』


 初対面の人間に突拍子もないことを言われ、真に受け、言われるがままに自宅に招き――そんな自分がここにきてひどく考えなしに思えていたのである。


 しかも老婆を一目見た瞬間から、やけに胸の内がざわついて仕方がない。


 だが老婆は晃飛の戸惑いを完全に無視し、背負っていた麻袋を足元に置くと、意気揚々と何かしらの準備に取り掛かり始めた。


 老婆と晃飛の間には明らかな温度差が生じている。


「……なあ」

「なんだあ?」

「なんかさ、いまいち納得できないっつーか、腑に落ちないっつーか……」

「何をいまさら! お前さん、儂が話したことを忘れてしまったのかあ?」

「忘れてはいないよ。けどさあ……」


 このもやもやは一体どうしたことか。


 雑多な情報に弄ばれ、今、晃飛の頭は混乱の極みに陥っていた。


 しかもだ。今や晃飛は吐き気すら覚えていた。厠に飛び込むべきか、それとも手近な庭まで走るか、そんなぎりぎりの線にまで達している。食べ過ぎてもいないし一滴の酒も飲んでいないのに、だ。


 こんな時に重要なことを決断するのは――無謀すぎる。


 大切なかりそめの妹、かりそめの嫁について。

 今己が最も護らなくてはならない者について。


 その者にとって重大なことをこのような状態で安易に決めていいはずがない。


「……ごめん。俺、やっぱやめる」


 晃飛は安全な道を選択した。そうすべきだし、そうしたかったからだ。それでも、


「また今度話を聞きに行くからさ。今日のところは帰ってくれない?」


 晃飛にしては珍しく精一杯の譲歩を示したところ、


「何をいまさら」


 老婆がずいっとその小さな顔を近づけてきた。


「さっさとやらないと、あの娘は憑き殺されるよお?」


 その小石のような澄んだ瞳に見つめられた瞬間――。


 晃飛の身が痙攣したかのように大きく震えた。


「な、なんだ?!」


 狐目を大きく見開き、閉じ、こめかみを押さえてじっとする。だが立ちくらみの類ではないようだ。


「どうしたんだ俺は……?」


 だがもう一度目を開けると、揺れる視界は正常に戻っていた。晃飛の全身はどこまでも清涼な風に包まれていた。――そう錯覚するほどに、周囲に漂っていた淀みが一瞬にして消滅したのである。


 頭の中に巣くっていた正体不明の霧のようなものも次第に薄まっていく――と思ったら、今度は脳内に不快な感覚が走った。


「なんなんだ? このっ……、このおかしな感覚は……!」


 一枚一枚、薄皮を剥いでいくような感覚は――生理的に受け付けられない不快さに満ちている。むずかゆいようなこそばゆいような変な感覚に、発作的に手首の硬いところで額の上を力任せに叩くと、余分なものが抜け落ちて軽くなったように晃飛は感じた。そこで続けて幾度も叩くと、その都度視界や思考が明瞭になっていった。


「なんだよ、これ……!」


 それはまるで己自身を取り戻しているかのような感覚、体験だった。


 いや、それが事実なのだと晃飛は気づいた――気づいてしまった。


 それはつまり、今の今まで自分自身を失っていたということだ。


 頭が――思考が――ひらかれていく。


 己自身に――還っていく。


「……俺はどうしてたっていうんだ?!」


 だが晃飛の中の何者かがそれに強く抵抗しはじめた。己を取り戻していくのと比例して激しさを増していく頭痛は、晃飛に『もうなにも考えるな』『逆らうな』と言わんばかりで――。


「くそおっ……!」


 晃飛が唸るように吠えた。


「おおお、やっぱりお前さんは半分寝てただけみたいだあね」


 満足そうに微笑んだ老婆が、ぴょんぴょん、と意外な身軽さでその場で跳ね出した。


「こうやって刺激を与えれば自力でこちら側に戻ってこれるんだから、お前さんはまだましだったんだなあ。武芸者だって言うのは本当のようだあ」

「一つ……っ!」


 未曾有のひどい頭痛に耐えながら、


「一つ訊きたいことがあるっ……!」


 息も絶え絶えに晃飛が訊ねると、老婆は跳ねるのをやめ、面倒くさそうに皺だらけの顔をさらにすぼめた。


「なんだあ。だがあまり時間はないぞお」

「それでもっ! それでも訊いてからじゃないと……先に進めることはっ! できないっ!」


 確かにこのところ心が揺らいでいたことは自覚していた。でもそれは悪い意味ではなくてよい意味でのことだった。……少なくとも晃飛自身はそう捉えていたのだ。


(そのはずだったのに……!)


 なぜならそれはひどく心地よい揺らぎだったからだ。


 だがたゆたう揺らぎに身も心も任せていれば、人は次第に眠くなっていくものなのである。考えることを放棄し、上流から下流へと、当たり前のことのように流され続けるほかなくなるのである。


(俺は……!)


 昼間、環屋にて晃飛がこの老婆と二人きりになった際。


 老婆は『ちょいと失礼するよお』と言うや、驚くほどの敏捷さで椅子の上に飛び乗った。続けてより高い机の上に飛び乗り、短い背を伸ばして晃飛のこめかみを左右から一気に押してきた。武芸者であるはずの晃飛に逃げることも退くこともゆるすことなく――究極の一点を突いてきたのである。


 その瞬間、晃飛の周囲がぱっと色づいた。


 ぼやけ、かすれたような色合いばかりの世界が、途端に鮮やかな色を取り戻したのであった。


 晃飛自身は当たり前の世界でいつもどおり暮らしていたつもりだった。無限の色を見、無限の感情を操り、無限の思考を紡ぎながら日々を暮らしていたつもりだったのだ。なのに老婆はその根拠のない世界の前提を一刀両断したのである。お前は現実を見ていない、と。今すぐ現実を見ろ、と。


 だが老婆と別れ、環屋を出て――老婆との間に起こった出来事を珪己に言うに言えず心の奥底にしまい、自宅に戻っても晃飛はその時のことを話題に出すことなく嘘の表情を浮かべていた。


 しかしその一連の流れのどこかで、晃飛はまたしても己を失いかけていたのである。


「あの子もさっきまでの俺と同じ状態だって……それは本当、なんだ、よねっ?」


 一言、一言。しゃべるたびに頭がガンガンと痛む。二日酔いも風邪もここまでひどい頭痛をもたらさない。


「本当だあよ。それはお前さんもすでに実感しているよなあ」


 確かにそうだ。


 この頭痛一つとっても異常事態であることの証にしか思えない。


 つうっと、晃飛のこめかみを冷や汗が流れた。


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