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5.神様と繋がるたった一つの道

「それにしてもあんたたち兄妹って不思議だよねえ」


 言われ、珪己が芙蓉を見ると、芙蓉もまたこちらを見ていた。目が合うとにやりと口元を歪め、その目尻に普段はおぼろなしわがくっきりと浮かんだ。


 手にする酒杯を動かし、中身を回しながら、芙蓉がなんてことのないように言った。


「兄妹以上に近い部分があるのに遠い部分があるよね」


 そのたとえになぜか珪己はどきりとした。


 なるべく顔に出さないようにしなくては、と、口元にきゅっと力を入れる。だがそのせいで珪己の動揺が芙蓉には手に取るように分かってしまった。


 先程まで芙蓉は一人、呉隼平と名乗っていたあの男のことを回想していた。それゆえ、あの男が大切にしていたはずの娘とともにいると――どうにも比較せざるを得ないのである。あの男と、この娘と。外見はとんと似ていないし、性格や雰囲気も対称的なのだが――だが『どこか』が似ている。


 だが芙蓉は真相を追及したいわけではなかった。二人が本物の兄妹であろうが違っていようが、そんなことはどうでもいいのだ。


 その目がちらりと珪己の腹のふくらみにうつった。


「うちの馬鹿息子とはいつからそういう関係になったんだい?」


 面と向かって問われたことは答えられることではなく、珪己はいよいよきつく口をつぐんだ。


「お嬢さんはだんまり屋さんなんだね」

「あ、いえ、そのようなつもりではなく、て」


 焦って否定した珪己だったが、明瞭な答えを持っているわけではないので結局は言葉を濁した。


「それとも秘密が多いのかねえ?」

「……」

「まあいいさ。誰だって秘密の一つや二つはあるし、ここに流れついてくる者はその最たるものだからね」


 芙蓉は空になった杯に酒をそそぐと、目を細めて一息であおった。


「ああ、うまい。あたしはね、酒さえあればもう他には何にもいらないんだ」


 まだ昼間だというのに茶か水と勘違いしているかのようにすいすいと含んでいく様からして、かなりの愛飲者であることが分かる。


「そんなにおいしいんですか?」

「なんだ、子作りするようなことはするくせに酒のうまさは知らないのかい」


 ぱっと珪己の顔が赤くなった。


「おいしいお酒くらい飲んだことあります!」


 一度きりのことだが官吏補だった頃に上司と飲んだ果実酒のことを思い出し、珪己は強く反論した。だがそれは本当にただ一度きりのことだし、珪己の強がりは当然のごとく芙蓉に見抜かれている。


 だが芙蓉は珪己を糾弾するようなことはしなかった。


 そもそも珪己を――他人を形作る過去や真実を暴きたいとは露とも思っていない。


「あたしはね、こんな商売をしちゃあいるけど、人にとって大切なことはよおく知っているよ」


 唐突な話題の転換、しかも重く深い話に、珪己は握りしめていた拳をほどいて、浮きかけていた腰をおろした。


 芙蓉は珪己の方をもはや見ておらず、部屋の隅の方をぼんやりと眺めていた。そこに何があるわけでもないのに、そこにこれまで見てきた様々な光景が映し出されているかのような、そんな目でなつかしそうに部屋の隅を見つめていた。


「人にとって間違いなく大切なものはやっぱり愛だよ。あんたの兄貴もそこんとこは勘違いしていたよね」

「……あの人がそう言ってたんですか?」


 なぜそのようなことをこの人に話す機会があったのだろう。

 しかもあの人はそういった類のことを嫌っていたはずだ。


(でもあの人って……誰だったっけ……?)


 手の届かない向こう岸に立つその人の姿かたちは曖昧でよく分からない。輪郭がぼやけていて男か女かすら分からない。――当然、顔も見えない。


 その人は自分にとってどういう人なのだろうか。


 ただの知り合い、それとも――?


(あれ……? 私、誰のことを考えていたんだっけ……?)


 つい先ほど芙蓉が語ったことが、乾いた砂のようにほろほろと崩れ、零れていく。そこに見えない風がさあっと吹けば――珪己の中にはもう何も残っていなかった。


「愛ってものはさ、自分が愛するって決めて生まれるものじゃあないし、愛さないって決めて殺せるものでもないんだよ」


 酔っているのか、芙蓉はとつとつと持論を語っていく。


「愛ってのは神様が与えるものなんだよ。天空に住まう神様がさ、ぽいって、あたしら人間に放り投げてくれる贈り物なんだよ。その贈り物のおかげで人はこの世で生きていけるんだよ。違うかい?」

「……難しくてよく分かりません」


 実際、珪己は困惑していた。


 芙蓉の言葉がまったく頭に残らない。考えることは昔から好きだったはずなのに、何もかもが理解するより先に砕け、消え――後に残らないのだ。


(……さっき芙蓉さんは何て言ってたんだっけ?)


 妊娠に気づいて以来、珪己はこんなふうに哲学めいた会話を誰かとしたことがなかった。頭を使わなくてはいけないような場面にも遭遇しなかったし、晃飛一人に甘えていればいい日々のどこにも、こうも難しい問答は生じなかったのだ。


(……そのせいなのかな)


(あれ? そういえばどうして私はここにいるんだろう?)


 この環屋に来てから誰に会って何をしたのか、それすらも分からなくなりつつある。


「ははっ。正直だねえ」


 芙蓉が苦笑したのは、珪己の反応にあどけなさを感じたからだ。もうすぐ母親になるというのに困ったお嬢さんだ、と。だがいいところの娘なのだからこんなものだろうとすぐに割り切った。


「そうそう。あんたの兄貴はさ、自分の心は自分でどうこうできるもんだと思っている節があるよね。だけどそれは違うよ。体はどうとでもできるけど心は違うよ。心は自分だけのもので、だけど自分じゃあどうしようもないものなんだ。でもさ、そういったことすべては神様の思し召しだと考えてごらん。すべて説明がつくよ。心はさ、自分のものでもあるけど、神様のものでもあるんだ。心は神様と繋がるたった一つの道なんだよ。だからさ、あたしらはなるべくきれいな道を歩くように精進しなくちゃいけないし、その道にぽいっと投げられる神様からの贈り物は迷わず拾わなくちゃいけないんだよ。矛盾しているんだけどさあ」


 ぼんやりとした表情でいる珪己に、「分からないよねえ」と芙蓉が笑った。


「愛するって決める人にはさ、じゃあ何人まで愛することにするのって訊きたくなるよね。それは一人かい、二人かい? それとも十人までならいいのかい? ってね。……あれ? お嬢さん?」


 唯一の話し相手は、いつの間にか背もたれに体を預けて小さな寝息をたてていた。


「……ま、妊娠中は眠くなるものだし仕方ないか」


 寝顔もまたあどけないことよと苦笑しつつ、芙蓉は杯に残っていた酒をすべて飲み干した。


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