4.不思議な産婆
そして紹介された豪という姓の産婆の第一印象は、失礼ながら丸まった芋虫そのものだった。
背が曲がっているせいで頭は半分垂れさがり、皺に隠れた表情は二人には読み取ることも難しい。古びた衣は黒味がかっていて、元の色がそうだったというよりも積年の汚れがしみ込んでその色になったとしか思えない。あちらこちらに付着している独特のむらも推察を裏付けるかのようだ。対して、縮れた髪は白く、頭頂部で丸めたそれは雪玉を一つ器用に載せているかのようだった。
だから戸を開け、室の中央、囲炉裏の傍の椅子にこじんまりと座る老婆を見た瞬間、
「ひっでえ身なりのちっちぇえばばあだなあ。ほんとに大丈夫なのか?」
晃飛がそう言ってしまったのは仕方のないこと――なのかもしれない。
「こら。晃飛!」
芙蓉がぴしりと叱ったが、晃飛の耳には叱咤の矢は届かなかったようだ。さっそくその元から細い目を細めて老婆を検分していく。その様は晃飛が正真正銘本物の夫だったとしてもあり得ないほどに過度なものだ。仕合相手でもよほどのことがなければ見せない目つきで、頭の先から足の先まで、じろじろとしつこく眺めつくしていく。
この産婆に問題があるかどうか、珪己のお産を任せても本当に大丈夫なのか。それが晃飛にとっての一大事となっている。
と、また珪己が晃飛の手をきゅっと握った。
「晃飛さん。大丈夫ですからね」
「……ん」
不承不承といった感じで視線を下げた晃飛に、「まったく……」と芙蓉がため息をついた。
その時、老婆がうつむきがちなままで第一声を発した。
「娘さんと二人だけで話せるかあ?」
それは小さな体によく似合う高くて細い可愛らしい声だった。きっと子供時代や大人時代もこんな声を出していた人なのだろう。特徴的な声は外見に似合わず子猫の鳴き声を彷彿とさせた。
これに素早く反応したのは二人だ。
「だめだめ!」とは晃飛、「ああもちろん」とは芙蓉。
「あんたに決められる覚えはないんだけど」
喧嘩っ早い態度で晃飛がかみつくと、
「こういう時は女同士で話すことがあるんだって知らないのかい?」
芙蓉も負けずに応じる。
「男のあんたがいたら喋れないこともあるんだよ。ね、お嬢さん?」
問われ、珪己は黙ってうなずいた。
それに青ざめたのは晃飛だ。
「え、それ本当……?」
「はい」
「……そうなんだ」
衝撃を受け黙りこんだ晃飛の腕を、がっちりと芙蓉がつかんだ。
「じゃあそういうわけで、私たちはあっちの部屋に行ってようかね」
それでもさまよう感情を持て余す晃飛は思わずといった感じで珪己を見た。だが珪己は視線が合うや、晃飛を引き留めるどころか余裕のある笑みを浮かべた。
「大丈夫ですから行っててくださいね」
そこまで言われれば――もはや晃飛の出番はない。
「さ、行くよ」
後ろ髪を引かれながらも、晃飛は芙蓉に引きずられるように出ていったのであった。
二人が出ていくと、老婆はちんまりとした体勢のまま幾分か顔を上げ、「こっちおいでえ」と珪己に手招きをした。
「よろしくお願いします」
「あいよお」
何度聴いても可愛らしい声だ。そう珪己は思った。すると、小さな体も丸まった背中も、老婆の何もかもが愛嬌に包まれているように思えてきた。今日の顔合わせに何の感慨も持っていなかった珪己だったが、目の前の老婆はどこかしこも興味深い存在で、それゆえ勝手ながら少し楽しくなってきた。
老婆は隣に座った珪己の手をとると、始めるとも何とも言わず、ただ目をつむった。脈をとりだしたことは指を置いた位置やその押さえ方からも分かったから、珪己はされるがままに身をゆだねた。
老婆の深い皺に包まれた口は検診の間きっちりと閉ざされていた。だがなぜか時折もごもごと動いた。おそらく本人の意志とは無関係に動いているのだろう。何か言いたいことがあるわけでも独り言を言っているわけでもなく、かといって飴をしゃぶっているわけでもなさそうだ。老婆の口がもごもごと動くたびに、珪己はいよいよもって愉快になっていった。
しばらくして老婆は両手を伸ばし、珪己の首に何の脈絡もなく触れてきた。固くひやりとした触感に、根拠なく身を任せていた珪己に初めての動揺が生じた。肌に直に触れているのだから老婆も気づいたはずだ――珪己がわずかながらも確かに震えてしまったこと、それにうっすらと隆起した鳥肌に。
ここ最近、信念も思索もなく過ごしてきた珪己にとって、それは非常に珍しいことであった。
だが老婆は淡々と珪己を診察するだけだった。そのままさらに手を上げて頬を触り、「あーん」と口を開けさせ、舌を出させ、目を開けさせた。そして最後に腹を触り、老婆は琥珀色に濁った目で珪己を注視した。その目は小さな体、小さな顔の中で、これまたとりわけ小さかった。
「うん。順調だあね。訊いていたとおり冬の間には生まれそうだあ」
「ありがとうございます」
ようやく平静を取り戻し、ふわりと笑った珪己に、「だがなあ」と老婆が続けた。
「お前さんは大丈夫じゃあないようだあね」
「……え?」
束の間見つめ合い、珪己は片手を振ってみせた。心外だと言わんばかりに。
「そんなことないですよ。私、これ以上ないってくらいに元気だし気分もいいんですよ?」
「名は呉珪亥と言ったね」
うなずいた珪己に、老婆がふへっと耳障りな笑い声をあげた。
「なんだか男みたいな名前だあ」
不躾に否定され、珪己の心がみしりと音をたてた。
これほどまでに心が嫌な音を立てるのは随分久しぶりのことだった。
それでも、
「親が男の子を欲しがっていたらしくて。生まれたのは私でがっかりしたって、よく冗談めかして言われてました」
笑みを崩さず口先から出まかせを述べると、
「ははあっ」
言い終わるかどうかのところで老婆の示した意思は――明らかに侮蔑だった。
「男か女かよりも大事なことがあるだろうね。あんたの親はよっぽど馬鹿なのかあ? それとも針の先で開けたような小さな穴から物事を見るうつけなのかあ?」
ぴくっ。
珪己の頬が片方、痙攣したように動いた。
だが笑みは絶やさない。
しばらく無言で見つめ合う二人だったが、先に矛を収めたのは老婆のほうだった。
「じゃ、次は旦那の方だあ」
呼んできとくれ。そう言うや、老婆は手を引っ込めた。そしてまた初見のように背を丸め首を縮めてしまった。
やっぱり芋虫みたいな人だ。いや、芋虫というよりは亀か。それとも猫か。そんな失礼な連想をしつつ、珪己は「ありがとうございました」と口だけで言って部屋を後にした。これなら韓の方がよほど頼りがいがあるし信頼できる、そう結論づけながら。
だが戸を閉め、振り返ったところで。
「うわっ」
珪己は驚き後ずさりした。
「どど、どうしてこんなところに?」
「どうして? 気になるからに決まってるじゃないか」
大して時間はたっていないとはいえ、寒気の漂う廊下に晃飛はずっといたようだ。
「君は俺のことなんか必要ないみたいだけどさ」
むくれた唇は正直に持ち主の心を表している。
ああ、さっきの、と合点がいったところで、
「すみません。そんなつもりじゃなくて」
謝ってみたものの、晃飛の唇は尖りっぱなしだ。もう機嫌を取るのはあきらめようと、珪己は晃飛に部屋に入るように促した。
「え? なんで俺?」
「今度は晃飛さんとお話したいそうです」
「……もしかして何かよくないことでもあった?」
恐々とする晃飛の気持ちの出どころは手に取るように分かったから、珪己はすぐに否定した。
「順調だって言われたので悪い話ではないと思いますよ」
「そっか。ならよかった」
「でも晃飛さんとも何かお話したいことがあるそうです」
「ふうん。ま、いっか。ついでに少し脅しをかけておいてやってもいいかもな」
「……晃飛!」
鋭い制止の声は実の母親が発したものだ。突然の介入、それに声の大きさに珪己がそちらの方を見ると、廊下の突き当り、半分開けた戸から上半身だけを出した芙蓉がこちらに鋭い視線を送っていた。
「馬鹿なことを言ってないでさっさと話をしてきな! でもってお嬢さんは寒いからこっちにお入り!」
「はいはい。じゃ、またあとでね」
名残惜しそうに、去りがたそうに珪己を見つめる晃飛に、「早くしな!」と芙蓉が追加で雷を落とした。