3.『それ』とは何だったのだろう
環屋に着き裏口から入ると、すぐそばの厨房で働く料理人見習いが二人のことを見とがめた。
「おいおい。いくら女将のお目こぼしで好き勝手やっているからってな、ここはお前の女を連れ込むようなところじゃないんだぜ」
「はあ?」
すかさず剣呑な空気を纏わせた晃飛の腕を、珪己がぐっと掴んで押しとどめた。強い目力を崩さない晃飛に代わり、珪己が男に笑ってみせた。
「すみません。今日は私たち、ここで人と待ち合わせをしているんです。芙蓉さんの計らいで」
「あ? そうなの? そりゃすまなかったな」
男は喧嘩腰をあらためて面目なさそうに頭をかいた。
「……あれ? でも女将の部屋に来ているのって、確か豪婆だよな。……ああ、お前さん、妊婦だったのか」
珪己の顔を凝視し、その視線を腹の方まで下げ。そしてもう一度視線を上げて珪己の顔を見て。次に男は意味深に隣の晃飛を見た。
「へえー。そっか」
「……殴られたいの?」
晃飛の不機嫌はいよいよもってあらわになりつつある。
「晃飛さん!」
珪己の制止に少しばつが悪そうな表情になったものの、やはり負の感情は収まらないようで、晃飛が目の前の男に鋭い一瞥をくれた。それは平和な国、平和な街で生まれたこの男にとって初めて受けた明確な敵意で、男は若さゆえに簡単に体を硬直させた。
「うへえ……」
もはや軽口をたたく余裕もない。
こいつ、こんなに喧嘩っ早い奴だったっけ、と思いつつ。
「晃飛さんっ!」
「分かったって。そんなに引っ張らなくてもいいから。じゃ、行こ」
繋いだままの手を握り直し、晃飛が珪己を階段へと誘った。
「足元気をつけてよ。転んだら大変なんだからね」
「はい」
そんなふうに寄り添いながら慎重に階段を昇る二人のことを階上からずっと見ていた人物がいる。芙蓉だ。
「おやおや。ますます仲がよろしいこって」
芙蓉は二人の視線を受けると片手を上げて応じた。
「あんたらって意外とうまくやってるよねえ」
「意外とってなんだよ」
二人が夫婦になったことは、芙蓉は晃飛から聞いて知っている。だがまだ二人が本物の夫婦だという確証をもててはいなかった。
それはもちろん、晃飛が自身の女嫌いを隠してこなかったせいでもあり、このところ一層幼く見えるようになった珪己のせいでもある。階段を上る様子なども、まるでおままごとのような夫婦だと思いながら観察していたのだ。
だがそれより何より、芙蓉にはずっと気にかかっていることがあった。
晩夏にこの街を出たあの男――呉隼平と名乗っていた男のことがずっと引っかかっているのだ。
(あの男とこの娘は嘘の兄妹を演じていたけれど、結局どういう関係だったのかねえ)
芙蓉の狐のような細い目は珪己を見つめ、次に隣の晃飛へと移っていった。
(しかもうちの馬鹿息子も加えて三兄弟だなんて言い出してさ。そしたら次は夫婦になるときた)
だが芙蓉は覚えている。
今はここにいないあの男の独白を――。
『好きかどうか……それはどうしたら分かるんだ。恋や愛をしているかどうか、それはどうしたらはっきりと分かるものなんだ』
人並み以上に立派な体躯をした、武芸に精通していたあの男。でもただの筋肉馬鹿ではなく冷静でよく回る頭を持っていた。ふとした言動の端々には人の上に立ち慣れた者特有の匂いを感じることもあった。
その日もそろそろ明け方という時分、誰もが疲れに身を崩しだすものだというのに、あの男だけはいつものごとく凛としていた。なのに述べられた言葉はあまりにも初心で、必死で――。
面白い男だ、と思ったのだ。
どうしたらこんな心持ちになれるのだろう、そう疑問に思いながらも持論で返したところ、あの男は最後には明らかに動揺していた。
今自分が有する感情が愛であることを、まだ知り合って間もない芙蓉相手に完全に露呈していた。
『愛とは何だ』
最後にそう訊ねられた時、芙蓉はこう答えた。
何物にも代えがたいものだ――と。
(……しかしあの男にとっての『それ』とは結局何だったんだろうねえ)
誰もが有するはずの、何物にも代えがたい大切なもの。それなしでは生き続けられないほどの活力の源、喜びの源――あの男にとっての『それ』とは一体何だったんだろう。
では目の前の息子にとっての『それ』とは何なのだろうか。
その息子に手を引かれ静かな笑みを浮かべているこの娘にとっては――?
目が合うと、娘はより一層笑みを深めた。その様は森の奥に潜む静謐な湖を彷彿とさせた。大木に取り囲まれ一片の風も入り込む隙のない未開の湖を――。
芙蓉は軽く頭を振るい雑念を捨てた。
「寒かっただろう、早くおいで。もうお待ちだよ」
芙蓉は先に奥の一室へと向かいかけた。だが思い出し、すぐに足を止めた。
「そうそう、言ってなかったけどさ」
「……なに?」
芙蓉が何か言えば晃飛が苛立つ。もうそれはとげを刺されれば痛いのと同じで、この親子にとっては当たり前のこととなっている。
だが晃飛の低い声音にも睨む視線にも負けず、芙蓉は片手を口元に当ててやや小声で言った。
「あの婆さん、けっこう偏屈っていうか変わり者っていうか、歯に衣着せない人だから適当にあしらっておくれよ」
「は?」
「あとたまに変なことを言うけどそれも聞き流してやっておくれよね」
「なんだよそれ」
「ま、年寄にはよくあることだろ?」
睨みつけてくる実の息子をかわし、芙蓉は先に行ってしまった。
「あの野郎……」
「晃飛さん」
いきり立ちかけた晃飛の手を、珪己がきゅっと握り直した。
「大丈夫ですよ。だから行きましょう?」
「う、うん。でも変なばばあだったらすぐに帰るからね」
それに珪己は少し考えるようなそぶりをした。斜め上の方に視線をやって。だがまた元の無垢な笑みになるやさっきよりもはっきりと述べた。大丈夫です、と。
確信するかのような断定的な言い方に晃飛もまた思案する顔になったが、それは少しのことだった。
「そうだね。君の言うとおり大丈夫だと思う」
「はい」
綻ぶような笑みを浮かべた珪己はひどく満足気だった。