2.外出
さて、その韓だが、「何かあれば呼んでくれ」と言っていたとおり、これ以降は二人の前に姿を見せなくなった。もはや自分の出番は終わったと言いたいのだろう。
「なんて勝手な奴だ」
不満を述べながらもテキパキと動く晃飛の手は、珪己の髪をまとめている最中だ。対する珪己は椅子に座りされるがままとなっている。目をつむりふわふわとした笑みを浮かべて晃飛の話に相槌を打つ様は、四六時中いい夢を見ているかのような、若干陶酔しているかのようだ。
「大丈夫ですよ。赤ちゃんはちゃんと育っていますから」
確かに珪己の腹はぐんぐん膨れてきており、胃の上あたりで結ぶ帯の下では裳(下半身に巻くスカートのようなもの)がふんわりとした弧を描くようになっていた。もう誰が見ても明らかなほどに妊婦そのものとなっている。
「でもさあ」
「先生も大丈夫だっておっしゃってたじゃないですか」
「大丈夫だとしてもさあ」
晃飛の中では韓に対して抱いていた感謝の気持ちはすっかり風化している。影も形もない。
そんな中、晃飛の母、芙蓉から助け船が出た。
知り合いの産婆を紹介してくれるというのだ。
確かにこの時代、健康で経過が順調な妊婦ならばいちいち医師に診てもらうようなことはしない。妊娠以前のように朝から晩まで働き、産気づいたら産婆に赤子を取り上げてもらう、ただそれだけだ。
二人は今、その産婆に会うために外出の準備をしていた。「息子が失礼なことを言わないように」とは芙蓉の弁で、初顔合わせは環屋で行われることになっている。
そしてなんと、珪己にとってはこれが夏以来の外出であった。
「その産婆さん、これまで数千人の赤ちゃんを取り上げたことがあるんですよね。すごいですよねえ」
芙蓉いわく、その産婆はなんと御年七十を超えるらしい。この時代、市井の民の天寿は五十代であったから、七十を超えた人物は数少なく大いに敬われる対象なのだ。これでしかも現役で仕事をしているとなれば、存在そのものが奇跡に近い人物といえる。
だが素直に感心している珪己と異なり、晃飛は先ほどから不満ばかりをたらたらと述べていた。
「……あの女の紹介ってのが気にくわない」
「まあまあ」
「年寄りすぎて不安にならないの?」
「それは経験豊富っていうんですよ」
難癖をつけたがる晃飛をあしらいつつ、珪己は机の上に手を伸ばした。
先ほどから珪己は休むことなく饅頭を食べている。羊肉がぎっしりと詰まったなかなかに重量感のあるものだ。晃飛がぐちぐち言いながらも髪をくしけずり、束を作りひねっている合間も、珪己は頓着することなく饅頭にかぶりついていた。
「簪、刺してくれました?」
「うん、刺したよ。いつもどおりにね」
「ありがとうございます」
ほほ笑んだ珪己の手にはすでに五つ目の饅頭が握られている。
「じゃ、これを食べたら出かけましょう」
そう言って珪己が大口を開けた。
*
一歩外に出ると、まずは吐く息の白さに珪己が喜んだ。
「やっぱり外は寒いですねえ」
分厚い綿を入れた外套に首をすくめた珪己の手を晃飛が当たり前のようにとった。それに珪己がにこっと笑った。
「あったかい」
ちなみにこの外套は今日のために晃飛が買ってきた新品である。甘やかしもここに極まれり、だ。
手を繋ぎ寄り添うように歩きだした二人は、誰がどう見ても親密な関係にある者同士――つまり恋人や夫婦にしか見えない。だが二人は他人の視線も常識も気にしていない。こうやって歩くのが当然だと思っているからだ。
だが周囲を歩く者たちもまた、誰も二人のことを気にも留めなかった。足は一様に早く、また無表情だ。冬という季節には人々の心の浮き沈みを抑制する効果があるのだろう。それは好奇心も例外ではなく、命の危険すら感じるほどの寒気においては我が身こそが気になるものなのである。
しかし今日も天気だけはよかった。見上げれば突き抜けるほどに高くすがすがしい青空が広がっていて、あまりにも眩しい陽光は直視できないほどだった。遠く居並ぶ山々、雪で真っ白に染め上げられた光景が見えなければ、今が冬だとは思えないほどいい陽気だ。
とはいえ凍てつく空気自体は冬そのもので、吐く息の白さはもちろん、むき出しの肌は冷気によってさっそく痛みを感じ始めている。ただ、そんなことすら物珍しい箱入り娘は満面の笑みを崩すことはなかったが。
ひゅうっと、正面から吹きつけてきた強風が二人のそばを勢いよくすり抜けていった。高山から雪上を駆け下りてきただけあって、氷を含んでいるかのようによく冷えた風だった。
はああ、と珪己が温かな息を空いている手のひらにかけた。
その横で晃飛が「ああ、もう」と悪態をついた。
「冬ってやんなるなあ。寒いし金はかかるしいいことがないよね」
冬でもだらしなく開かれた晃飛の襟元は見るからに寒そうだ。だが晃飛は襟を合わせるどころか、いら立ちの故に無意識で腕をまくる有様だった。
「この街はけっこう好きだけど冬だけは気にいらないんだよね」
だが。
「私は冬、好きですよ?」
珪己のその一言に、晃飛はあっさりと主義を変更した。
「そうなの? じゃあ俺も冬を好きにならないとなあ」
それに珪己が口元に手をあててころころと笑った。
「あ、ねえねえ」
「今度は何ですか?」
「ほら。あそこの簪、君に似合いそうだ」
晃飛が斜め前の露店を指さすと、気づいた店主が晃飛に向かってさっと指を二本立ててみせた。
「今なら銅三枚のところ二枚にしてやるぜ」
この寒空の中でも露店を出す根性があるだけあって、男は根っからの商売人らしい。
「へえ。それはお得だ。君はどんなのがいい?」
露店に近づきかけた晃飛だったが、それを珪己が引きとめた。
「私、いりません」
「でも君、ずっと同じ物を使ってるじゃないか。髪を結ってて気になるんだよね。もうちょい持ってた方が楽しくない?」
「いいんです。私、同じ物を使うのが好きだから」
これに晃飛が素直に首肯した。
「分かる分かる。俺も一つの物を長く使いたい性質なんだよね」
「なんだよそりゃあ。からかいはごめんだよ」
苦虫をかみつぶしたかのような表情になった店主に「ごめんごめん」と頭を下げて店から離れたところで、珪己がたまらずといった感じで吹きだした。
「晃飛さんってほんといい人ですよね」
「別にいい人じゃないよ。俺は俺がしたいようにしているだけだし」
あさっての方角に目を逸らしたが、こちらを向いた晃飛の耳はほんのりと赤くなっている。
「……やっぱり晃飛さんはいい人です」
「んもう。あんまりそういうこと言うなよな」
小さな拳でこつんと頭をこづいたのは分かりやすい照れかくしだ。
それからは環屋まで二人は一言も話さなかった。だがふとしたことで触れ合った二人の肩は、気づけばずっと触れ合っていた。手を繋ぐだけでは物足りないとでもいうかのように、そうすることでお互いがいることを確かめ合うように。
そんな二人のことを気配を殺して観察する人物がいることに、この時、二人は気がつかなかった。