1.違和感
秋の気配はあっという間に消え去り、気づけば駆け足で冬が到来した。こうなると市井の民にできることはもう何もない。ただひたすら春までの日々を耐え忍ぶ他なくなる。そう、零央での冬とは忍耐の二文字に他ならないのである。
ちょっと外出しただけで手先がかじかみ、頬は熟れた林檎のように赤くなってしまう。凍てつく風は乱暴で鋭利で、一切の優しさがないからだ。夜ともなれば一層冷え込むから、家の中にいても何枚も服を着こみ掛布を重ね、なおかつ温石を懐に抱かなくては眠れないほどになる。
だから零央では冬になると石炭が良く売れる。暖房の燃料として石炭がもっともすぐれているからだ。もちろん各家庭では薪も通年蓄えてはいる。しかし薪よりも熱効率がいい石炭は零央のような寒冷地では生死を左右する必需品なのである。誇張ではなく。金銭的な負担は増すが、石炭でよく暖めた部屋は真冬でも春の陽気を思い出せるほどに心地いいから、石炭への支出を惜しむ家庭はほぼ皆無といってよかった。
もちろん、晃飛の家にも石炭はたくさん蓄えられている。しかも今年は例年の三倍も買い込んである。そんな常春のごとく暖かな家で、初産をひかえた珪己は昼夜おとなしく過ごしていた。結局、夏に一度晃飛と外出して以来、珪己はこの家から一歩も外に出ていないことになる。
三食を十二分に摂り、晃飛一人と談笑し、晃飛が不在の間はひたすら寝て過ごし――明らかに運動不足のはずなのだが、珪己は不健康になるどころか、より一層健康的になっていった。晃飛も晃飛で、珪己を散々に甘やかし、環屋からくすねてきた御馳走を毎日食べさせる始末だった。きっとこの零央で当時もっとも贅沢をしていた人物は珪己だったろう。
*
年終わりの月、空を雲が覆い陽の光をほとんど拝めない日々が当たり前となるこの街で奇跡的な晴天が続いていたとある日。
この家に診察に訪れていた医師・韓が珪己にとうとう太鼓判を押した。
「これならもう大丈夫だ。早くてふた月、遅くとも三月で無事いい子が産まれるだろうよ」
それに真っ先に歓喜の声を上げたのは晃飛だ。
「よっしゃあ! 韓先生、恩に着るよ。ありがとな!」
珪己と二人きりの時には韓のことを「役立たずの医師」と散々にこき下ろしているというのに、調子がいいのは晃飛らしい。だが韓の方も診察のたびに晃飛に胡乱気な視線を向けられてきただけあって、言葉通りに謝辞を受け取る気はさらさらなかった。
「いやいや。儂が世話したのは初めの頃だけだ」
謙遜してみせるくらいのことはしてやる。
技術を有するものが尊大であってはいけない、それが韓の有する哲学の一つだった。人より多くの物を持つ者ほど、それに反比例して謙虚にふるまわなくては他者とうまくやってはいけないものなのだ。ただでさえ医師とは偉そうに見られ妬まれやすい立ち位置にあるからなおさらである。
韓が信じる物は三つあった。
自分の医師としての腕、金、そして自らの経験である。
そんな韓にとって、この妊婦は久方ぶりに遭遇した未知の存在だった。
「それにしてもお前さんは強いな」
「私が、ですか?」
「ああ。いい体をしているし運も強い」
そこまで言うと、「正直言うとな」と韓が暴露した。
「赤子が流れる可能性は皆無ではなかったんだ」
「そうなのかっ?」
すかさず食いついてきたのは晃飛だ。この夫婦が実は夫婦ではないことをいまだ知らない韓であったが、こんなふうに常に我が身のこと以上に珪己を心配する晃飛を見ていれば、韓でなくとも二人の関係性を疑おうなどとは思わないだろう。
「梁先生がそうやって騒ぎそうだから黙ってたんだよ」
韓はしかめ面になったものの、すぐに先ほどまでの感心する表情で珪己に向き直った。
「いやー、しかしあれだけ出血したというのに、お前さんの回復力には舌を巻いた。お前さんは無事でも赤子の方は駄目かもしれない、そう思っておったんだがなあ」
「なんだよそれ。それでもしも万が一のことがあったらどうしてくれてたのさ」
顔を赤くしたり青くしたり、はては韓を脅したり。せわしない晃飛とは対照的に、当の珪己はにこにこと韓の打ち明け話を聞いている。
「ほんとにうるさい旦那だな。まあこれからは体調の悪化や出血、腹痛……あとはそうだな、胎動が急に弱まったり感じられなくなったら、その時はまた儂を呼んでくれ」
「胎動……ってなんですか?」
ようやく珪己が言葉を発した。
「腹ん中で赤子が動いている気配を感じるかどうかだが……おや? まさかまだ胎動はないのか?」
「はい。感じたことはありません」
「今もか?」
「……はい。感じないです」
少し腹に意識を集中させては見たものの何の憂いもない笑顔で否定した珪己に、韓が物思うような顔になった。
代わりに正確かつ俊敏に韓の言動に反応したのは晃飛だ。
「ええっ! それで大丈夫なの? なあ韓先生、大丈夫なのか?」
「ああもう。うるさい旦那だ」
「なあ、大丈夫なのか?」
「腹の子は育っておるから問題はない。確かにこの時期にもなれば腹の中でぴくぴく動くのを感じられるのが普通なんだがな」
いや、本来であればだいぶ前から感じられているものなのだが。
だがこれ以上言えば一層晃飛がきゃんきゃんと騒ぐのは目に見えている。案の定口を開きかけた晃飛のことを、韓はうっとうしそうに手振りだけで制した。
「黙って聞け。女によっては出産間際まで感じない者もいるというから、梁先生の嫁もそういう性質なんだろうよ。妊娠っていうのはな、普通とか定石とかいう言葉が通じないものなんだ。それだけのことだ」
とは言っても、普通と違うと言われれば心配が募るのは妊婦の家族であれば仕方のないことで、うるさい晃飛の口を強引に塞ぐのも少し違う。
だが、まだ心配を振り切れない晃飛とは対照的に、
「じゃ、大丈夫ですね」
当の珪己はいたってあっけらかんとしていた。
診察を終え、ひと眠りするという珪己を残し二人は部屋を出た。晃飛は韓に支払いをし玄関まで見送るためについていったのだが、
「なあ、梁先生よ」
隣を歩く韓が奥歯にものを挟んだようにもごもごと言い出した。
「お前さんの嫁、もしかして頭が少し遅れているのか?」
「はあ? んなわけないじゃん。失礼なことを言うとただじゃすまないよ」
目の奥に刃の切っ先にも似た光を宿した晃飛はただの感情の起伏が激しい若者ではない。そんなふうに単純に定義しようとするのは早急であり乱暴である。
実際、韓はこの青年のことをそんなふうには捉えなかった。
獣のようだ、と思ったのである。
本能に従い牙を向き、大切なものを護ろうとして己を忘れてしまえるのは――愛情深いのではなくただの獣だ。
(いったいいつからこの男はこんなふうになってしまったんだ……?)
以前の晃飛はもっと達観し冷めた人間だった。人との付き合いは浅いものしか好まず、仕事――つまり武芸――は食い扶持を稼ぐための手段でしかなかった。そのはずだった。韓は晃飛と深い付き合いをしてきたわけではないがはた目からはそのように見えていたし、きっと誰もが韓と同じ見解を述べるだろう。
だが韓はこの何十年もの間堅気ではない人間を数多く治療してきたし、昔ながらの武芸者もこの目で見、この手で幾人と触れてきた。だから晃飛のような一風変わった生き方は武芸者ゆえのものなのだろうと、少なくとも『そういう人間』だからこの時代に武芸者になることを選択したのだろうと思っていたのだ。
そしてそういう人間に限って変化を嫌うことを韓は経験上知っていた。自分自身が最良であるかどうかはともかく、己が一度足を踏み入れた世界をこそ頑固に護ろうとする人間だろう、晃飛もきっとそちら側の人間だろうと、そう思い込んでいたのだ。
だがこのところの晃飛はどうか。
すっかり様変わりしてしまったではないか。
「……これもまた嫁をもらったせいなのかのう」
「なに?」
ふわっと、晃飛の身に闘気が立ち昇った。
「何か言った?」
「いいや。なんでもない」
慌てて否定しつつも、韓は横目でこの青年を見ることをやめられないでいる。
恋をすると人は変わるというのはお約束だ。こればっかりはどの時代でも変わらない。善良な君主が横暴になったり、絶望の淵にいた人間が希望を取り戻したり。恋とは結局心の持ちようの変化でしかないはずなのに――変な具合に恋に心を侵略されるとたちどころに己自身が破壊されてしまうのである。
破壊――。
それがもたらす結果がよかろうが悪かろうが、それ自体は個々人にとっては最悪の出来事でしかない。そう韓は思っている。なぜならば、これまでの自分自身を失ってまで得たいものなど何もないからだ。また、そんなことがあってはならないと固く信じているからだ。
今まで知り得た経験も知識も、酸いも甘いも含んだ想い出も――何もかもが役に立たないまっさらな自分になど誰がなりたいものか。どこまでも広がる湖の真ん中に星明り一つ持たずに放り出されるようなものではないか。そんな状況など怖くて怖くて仕方がないではないか。
だから韓は黙することを選んだ。
それに韓が晃飛の変化に一抹の不安を覚える理由はそこにはなかった。妊婦である娘の方にあったのだ。
(健康を取り戻すほどに笑みを深めていくあの娘……だがあれはただ笑っているだけだ)
一切の憂いを感じることなく、真正の幸福に酔いしれている娘。
だが人であれば、妊婦であればそんな心持ちになることなど『絶対に』あり得ないのだ。
(普通の妊婦ならもっと神経が過敏になるし、初めての出産なんだから胎動がないことを指摘されれば動揺するなり不安げな顔をするもんだ)
(だがあの娘は……)
腹は膨れつつあるのに、それと引き換えに幼くなっていくような珪己の様子は、医師である韓には違和感しかないのであった。
*