7話
「城門から入ると目立ちます。使用人用の裏道から入るため、少々森の中を通りますが、よろしいですね?」
「う、うん……」
宿の受付に多少の金銭を握らせて、フィリスはクインをつれて宿を出ていた。夜ではあるが、通りにはまだまだ人気が多く、侍女の服装に身を包んだフィリスは悪目立ちしていた。その後ろにちょこちょことついて行く黒いローブに身を包んだクインもいるのだから尚更だ。
「どうして着替えてこなかったの?」
「仕事中に抜け出して来たからです。幸い、あなたがいなくなったことは公になっておりませんし、あまり大っぴらに探しに行くこともできませんでしたから」
フィリスの後について、昼間歩き回った市場の通りを抜けていく。太陽の光が差し込んでいた昼間とは違い、煌々と揺らめく灯火の光が周囲を照らし、どこが和やかな雰囲気を感じた。アルコールが入ってる者が多いためか、陽気な表情で道を歩く様々な人種の姿があり、それらを眺めるクインの目も自然と輝く。
「すごい……夜はこんな感じになるんだ」
城を抜け出したも夜ではあったが、夜も更けすぎて人通りは少なかった。遠巻きに眺める夜の街並みだけでも十分、昨日のクインにとっては物珍しさに感動していたが、今目の前に広がる光景はその時よりもずっと魅力的に見えた。
「……お嬢様。余所見などせず、しっかりついて来てください」
フィリスの厳しい口調と鋭い視線に、クインは慌てて歩みを再開した。人通りを縫うように抜け、視界にはどうしても、これから帰るべき城の姿が映るようになってくる。
「もし、私が城を抜け出したことをお父様が知っていたら。お父様は私を探してくださったかしら」
「……ええ。もちろんですとも。捜索隊を編成し、大々的にお嬢様を探すはずです」
「でもそれは、身内の恥を隠すためによ」
自分の娘を心配しての行動ではないはずだと、クインは断言してみせる。フィリスも、その言葉を否定できないのか、何も言わず足を止めずに先を行く。
「……勝手に出て行ったことは、本当にごめんなさい」
クインはフィリス背中に向けて、頭を下げる。
すでに周囲に人気はなく、城の裏側に回り込むためか鬱蒼とした森の中を歩いていた。光源は空に浮ぶ月明かりだけで、クインは謝りながらもフィリスを見失わないよう、距離を空けずについて行く。
「でもね。外を、見てみたかったの。私の目で、私が生きている世界を見て回りたかったの」
光源の乏しい森の中は薄暗くて、宵闇に心細さを感じクインは前を行くフィリスの服の裾を指先で摘んだ。
「城の生活が嫌だった……なんて、庇護されてきた私が言えた義理はどこにもないけれど。フィリスにも、とても助けてもらってたし……でも。だからこそ」
王族の血を引くというだけで殺されずに、城の中から出ることすらなく半ば幽閉されてきた。城の者からも、ゴーストの子どもとして、忌み嫌われて生きてきた。
それでも、傷つけられることはなかった。心の痛みはあっても、それすらも慣れてしまって、麻痺していて、辛いと思うことは少なくなっていて。街で見た孤児のように、理不尽な暴力に晒されることもなかったから……いつしか、慣れてしまった。
幸せだった。そう、クインは思うことはできない。でも、不幸だったと断言できるほど、自分が恵まれなかった環境にいたわけではないことはわかっている。知ることができた。
どこからともなく現れた、クインの何気ない感謝の一言だけで、その両目から涙を零してしまうほどに純朴で、哀れなゴーストに。
お節介な彼に手を引かれて衝動的に飛び出した外の世界で、クインは思い知ることができた。
クインの言葉に耳を傾けてくれているのか。いつのまにか、フィリスの足は止まっていた。
「怒られるのは、わかってるわ。でも私は外に、もう一度行きたい。できることなら、旅に、出たい。このまま城の中で生活するだけじゃ、きっと私の生に意味はないの」
これまでの日々で、クインは母代わりとして世話をしてきたフィリスに我侭を言ったことは少ない。精々夕飯や、デザートの種類を好みで変えてもらう程度だ。やりたいことを、生き方を懇願したことなどない。そのクインの願いに、フィリスは振り向かないまま。
「――外に出れば、あなたが産まれてきた意味ができると?」
クインが耳にしたことがないぐらいに、ゾッとするほどに冷たい声で応えた。
「あなたが外の世界に出て、好奇心の赴くまま世界を旅する。そのようなことのために、あの方はゴーストに身を穢されたと、そう仰るのですか?」
「そ、そういう、わけじゃ……」
「お嬢様。あなたは何か勘違いをしていらっしゃる」
森の闇の中。振り返ったフィリスの顔は薄暗くてよく見えない。けれど、今まで見たことのないほどに、フィリスは怒りに震えている。その感情がフィリスの全身から立ちこめ、クインは口を開くことができない。
「あなたは穢れたゴーストの子。その生に意味があるとすれば、それはこの国でのゴーストという存在を忘れず、薄れさせないための証跡となり続けるだけです」
「フィ、リス……?」
母代わりだった侍女から向けられる強烈な怒りが、クインの心に突き刺さる。
「それなのに、自らの生まれた意味を求めるなど……厚かましいにも程があります」
目の前の光景が、放たれた言葉が信じられないクインの背後で、ガサリと木の葉が揺れる。
「遺憾ですが、我々にはゴーストが見えない。視認することはできず、常に奴らが残した悪行を持って、その存在を知覚できる……あなたが産まれてきたように」
音は一つだけではなかった。クインとフィリス以外誰もいないと思って森の中に、蠢く影が現れる。
その影が、全身黒い服に身を包み、妙な、目以外の部分が全て白く塗り潰された不気味な面を被った男が三人。クインを取り囲むよう立っていた。
「そん、な……」
「昨日、邪魔してきた見えない何かが、ゴーストだったのでしょうね。忌々しいことですが、ああして全く視認できなければ、我々にも太刀打ちはできません」
現れた仮面の男たちを見向きもせず平然と話を続けるフィリスを、クインは目を見開き、口を震わせながら見つめる。
「どうしてなの、フィリス……!」
「……彼らはゴーストに関わる存在を滅するために編成された、教会の戦闘員です」
昨日、庭園で突如現れた不気味な仮面を被る男たち。その一人がフィリスに従うように、彼女の傍に立った。
「だから! どうして彼らがあなたに……!」
「王妃様がゴーストに襲われたあの夜。私は、彼女の寝室の傍に控えておりました」
クインの詰問に答えようとせず、フィリスは目を瞑り語る。
「ドアが開く音がして不思議に思った私は彼女が眠る寝室に様子を見に行っても、部屋には誰も……いくら目を凝らしても誰もいない寝室を見て気のせいだと思い、そのまま眠りました」
目を瞑ったフィリスの脳裏に、どんな感情が浮んでいるのかわからない。わからない、が。
「……そうして朝目を覚ました私が見たのは、乱されたシーツと、泣き崩れ、穢されたあなたの母君の姿です」
その感情は、後悔という深く刺さった釘のような感情は、その時から一切薄れることなく存在している。
「たとえあなたの言うように、ゴーストという存在が一概に悪とは言えない者がいようとも。視認されないとはそれだけで脅威であり、許されるべきではないのです。見えもしない、こちらから関わることのできない存在など、我々からしたら恐怖にしかならない……ですが、あなたには見えるのでしょう? そのゴーストの血を引く、あなたならば」
フィリスの目が開かれる。その瞳は鋭く、これまでの日々を容易に否定してみせた。
「そのために、私の侍女として生きてきたというの?」
「確証はありませんでした。ですが、もう一度現れるとすれば、あなたの傍だと信じていた。呪われたゴーストが、いつかあなたを迎えに来るのだと」
暗い、笑みといえるほど愉快そうには見えない笑顔を浮かべる。
「昨日、あなたが私には見えない何かがいると仰ったその時こそが、長年待ち望んだ瞬間なのです……まぁ、それも当のゴーストに邪魔をされ、失敗してしまいましたが」
「私にソータを、ゴーストを探せと。そう、言うつもりなの?」
クインの手が、足が、唇が。心までも震える。今まで母代わりとして共にいたフィリスの、隠された本性。不気味な男たちに囲まれる不安と恐怖。それらがごちゃ混ぜになった感情が、クインを震え上がらせる。
「居場所を教えてくれるだけで構いません。どこにいるのか、どこに在るのかさえわかれば、我々が確実に殺します」
「……断ったら、私はどうなるのかしら」
「ここで、死んでいただきます」
聞きなれた人の声で紡がれる、残酷な台詞。
ああ、昨日から初めてのことばかりだと、クインは内心で場違いなことを考えた。
本当に、初めてのことばかりだ。何者かに、教会の戦闘員たちに攫われそうになり、初めて助けられた。同年代の男の子と話したことも、手を握ったことも初めてだ。城下町を歩き回って、自由に空の下で両手いっぱいの食べ物を食べたことも初めてだ。
自分じゃない、他人が、その人にとってどうしようもない理由で、理不尽に無視され、傷つけられる姿を見たのも、初めてで。
たくさんの、たくさんの初めてがあった。それをただ一度きりで終わらせたくない。
もう一度、何度でも。今日経験したこと以上のたくさんの何かを経験したい。死にたくなんて、ない。
……でも。
「なら、殺して」
それでも。あの男の子を差し出すことなんて、できない。
「あの人は、ソータはそんな理由で殺されていい人じゃないもの」
「……正気ですか」
「ええ、正気よ。少なくとも、怒りに目が眩んで、何の罪もない人を殺そうとするあなたより、ずっとまともなつもりだわ」
そうだ。彼に罪なんて一つもない。颯太がこれまでにクインに語った全ての事情が、真実だという保障はないし、嘘とも限らないけど。
「……ソータは、私がありがとうと言っただけで、泣いたのよ? 嬉しくて、自分でも気づかないほどに。思わず、涙を流したのよ?」
いったい、その時がどれほど彼が報われた瞬間なのだろう。どれほど彼の心を、深い底から救い上げたのだろう。クインに、その深度はわからない。
わからない、けれど。
「そんな人を殺す手伝いなんて、できない」
言葉にすればするほど、クインの中で決意となる。
「自分の命が惜しくないのですか」
「惜しいわ。言ったでしょう? 私は、まだまだやりたいことがあるって」
「でしたら――」
「でもそれは、彼を犠牲にして、裏切ってまで欲しいものじゃない」
仮に、その先でどれだけの自由が手に入ったとしても。ふと振り返れば、裏切られ傷ついた、市場で一人残された時の様な、颯太のあの表情が見えるのは嫌だ。
「……わかりました」
何かを吹っ切るように、フィリスは目を閉じる。
「殺しなさい。彼女はもうこの国の姫ではありません」
命令を受け、男たちが各々の武器を持つ。短剣に、長剣。今まで城の騎士たちが、あくまで自分を守るために持っていた武器が自分に振るわれようとしている。その事実に、どうしたって足は震えるけれど。
「穢れた、ゴーストの子です」
あの優しい男の子を、裏切らずに済むのなら、それでいいと思った。
「いやそこは嘘でもいいから頷いておいて!?」
潜んでいた樹の陰から飛び出した颯太は、勢いそのまま今にも長剣をクインに向けて振り下ろす男を蹴飛ばして、叫ぶ。
「……え!? ソータ!?」
「何してんの!? いやほんと何してんの!?」
男一人を思い切り蹴飛ばしておきながら、颯太の表情は驚愕を露にしている。クインの肩を掴んで揺さぶる颯太の目には、焦りやら何やらで涙が滲んでいた。
「あそこで断る必要ないでしょ!? 殺されるかもしんないだからここは素直に頷いとけよ!」
「だだだだって、ソータを一度でも裏切りたくなかったしししし」
「気持ちは嬉しいけどね!? あんた殺されかけてたからね!?」
揺さぶる手を止め、クインを背中でかばうように颯太はフィリスたちに正対する。突然の乱入者。それも宵闇など関係なく、光あるところでも視認できない存在。ゴーストを知覚したフィリスは怒りを隠しきれない瞳のまま、口元は残忍に笑う。
「やはり……現れましたか。薄汚いゴースト」
「さっきから穢れたとか薄汚ないとか好き勝手言いやがって、思春期の男子高校生にあんまりそういうこと言わないでくれない……? ちゃんと洗濯もしてるし、風呂にだって入ってるんだし……まぁ宿の勝手に使ってるんだけど」
褒められた手段ではないので次第に尻すぼみになる颯太だが、怖気づいている場合じゃないと首を振る。そもそも反論したところでクイン以外には聞こえないのだ。
「とにかく逃げるぞ。なんかこう、目くらましに使えそうな魔導ってある?」
「……あるけど、ちょっと時間がかかるわ」
「オッケー。ならそれで。時間は――」
姿勢を低くし、颯太は前へと駆ける。
「俺が稼ぐ!」
体重を乗せた不恰好な前蹴りは、油断なく剣を構える仮面の男の腹部へと突き刺さった。喧嘩慣れしていない颯太でも、全力の前蹴りはこれで三回目だ。姿勢を崩すことなく次の男へ突貫しようと向き直り――
「ってうぉ危ねぇ!」
あと一歩踏み出していれば顔面を両断される位置に、剣が振り下ろされていた。
「し、死ぬ、死ぬかと思った……!」
情けなく涙目になりながら急いで距離を取る颯太に、何故か追撃は振るわれない。颯太の姿は依然として見えていないようだが、剣の切っ先は颯太がいる方向へとしっかり向けられている。
「……もしかして、さっきの聖水……匂いか」
宿屋でかけられた匂い付きの、おそらく香水の類だったのだろう。颯太の体にはその匂いがついていて、嗅ぎ取った教会の戦闘員が匂いを頼りに剣を振るったのだ。風や周囲の影響を強く受ける嗅覚だというのに、剣の軌道は確実に颯太を捉える位置を走っていた。
「何が聖水だよ……祝福要素0じゃねぇか」
「我らの恨みを甘く見るな。姿は見えずとも、貴様を識別する方法はいくらでもある」
まるで颯太の悪態に答えるかのように、フィリスが周囲を睨みつけながら声を上げる。
「だから、俺何もしてねぇって……」
どこのどのゴーストさんがしでかしたことで、現状颯太が割を食っているのか。先人への恨みを募らせながら攻めあぐねる颯太に向けられた剣。
戦闘員が殺意を剥き出しにしながら、次第に距離を詰めようとしてくる。
「クイン! まだ――」
焦り、視線をクインに向けた颯太の声が詰まる。
「あと、もうちょっと……」
地面に手をつき、何かを念じるように目を閉じるクイン。その背後に、これまで姿を現さなかった四人目の仮面の男が短刀を手に忍び寄る姿が見えて――
「――クイン!」
名前を叫びながら駆け寄り、少女の体を突き飛ばした颯太の脇腹に刃が突き刺さる。
「ソ、ソータっ!?」
焼けるような痛みが、今までの人生で感じたことのないほどの鮮烈な痛みが颯太の意識を支配していく。強い衝撃は他の五感にすら影響を与えるのか、視界が揺らぎ、間近で強い光を放たれたかのようにチカチカと明滅する。
そのあやふやな視界の中、颯太を見て表情を歪ませるクインを見て、歯を食い縛って痛みを押しのけ、短刀を握る男の顔に拳を叩きこみながら叫ぶ。
「――やれ!」
その咆哮の如き声を聞き、クインも同様に一度強く歯を食いしばり。
「命じるっ!」
地面についた手から、土に、石に、それらに隣接する木の葉に枝に向けて。
「――強く、吹き荒れて!」
魔を持って導くように、命令を下す。
瞬間、クインの触れた位置から土が、石が、木の葉や枯れ木の枝がクインの言葉に従って吹き荒れる。自然現象ではありえない、クインの立つ地面から吹き上がる突風のように独りでに浮き上がり飛び回る土や石が追撃の手を許さない。
「私の肩を掴んで! 早く!」
脇腹を押さえ膝をつく颯太の、もう片方の腕を取りクインが自身の首に回す。颯太の手がクインの肩を掴むよりも前に、クインは駆け出した。
魔導による嵐が治まる頃には、すでにクインと颯太の姿はなかった。
「……追いなさい。少女の、手負いを連れた者の足です。あなたたちなら追いつけるでしょう」
フィリスの指示に従い、四人の男たちは頷くこともなく駆け出した。残ったフィリスは服や顔についた木の葉や土を払いのけ、深く息を吐く。
「穢れた血を引いていようとも、やはり王族の子ですか。見事な魔導の行使です」
口元には笑みが広がり、目を閉じ呟く声色は優しい。その姿は、まぎれもなく育てた子の成長を喜ぶ母の姿に他ならず。
「本当に……残念でございます、お嬢様」
フィリスの言葉も、声色から漏れ出す感情も、誰も聞く者がいなかった。