8話
「おらぁ!」
唾を飛ばしながら叫び、ゴーストが腕を振るう。その威力、風で防ぐことすら敵わないことが滞留するマナの流れからありありとわかる。颯太は弾くこともできず、大きく飛び退いて避けることしかできない。
だが、そこに生まれた隙を、目を血走らせたゴーストは逃さない。
「オイオイいいのか!? 逃げてばっかりでよぉ!」
楽しそうに口にするゴーストの視線は遠く、颯太には向けられず。
「しまっ――」
後悔の言葉が口から漏れるよりも早く、ゴーストは颯太を置いて駆ける。
その先にいるのは、未だ颯太を信じて、颯太にのみ視線を向けている少女。
「クインっ!」
自身の名を叫ぶ颯太の姿を見て、クインは自分に何が迫っているのかを察する。だが、その時にはもう、自分の体がとても汚い何かに抱えられたような、おぞましい感覚に襲われていた。
クインの体を抱え、ゴーストは尚も疾走する。
「おっきく育ってくれたなぁ」
最奥に位置する、二つ並べられた玉座。その間にクインを放り投げ、ゴーストは卑しく笑う。
「俺の娘のくせに、俺のことは見えてねぇんだよな。血は繋がってても、結局どいつもこいつも俺を無視すんのかよ!」
吐き捨てるように、ゴーストはクインを見下ろしながら口にする。
クインの傍に誰よりも早く駆け寄ろうとする颯太。その姿を、すぐ傍に目に見えない狂人がいる恐怖に苛まれながらも、クインは見つめる。
たとえ、自身の長く黒い髪が、その狂人に無造作に掴まれても、その視線を外すことはない。
「こんな黒い髪をして、黒い目をしてるくせに、どうして俺を見ないんだ!? ああ!? 全部、俺がくれてやったものだろうがよぉ!」
汚れた掌が、クインの髪を一房にまとめ無造作に掴み上げる。黒くしなやかな髪だけが後ろに引かれ、態勢を崩して痛みに顔を顰めるクインを、ゴーストは楽しそうに見下ろしていた。
「て、めぇ……!」
「動くなよ。俺だって、自分の娘を殺すのは気が引けるんだからさぁ」
激昂し駆け出そうとする颯太を、ゴーストの少しもそう思っていなさそうな下卑た笑みが止める。
硬直する状況に、周囲の人間の意識は次第に目に見える味方、颯太へと向けられる。寄せられる期待と、守るべき存在がゴーストに苦しめられているという事実が、颯太の意識を苛んだ。
「……クインを、離せ」
周囲から向けられる、自身とはひどく乖離した期待をぶつけられ朦朧とする意識。それでも、颯太は歯を食いしばりながら懸命に、ゴーストを睨みつける。
その怒りすら向けられることが嬉しくて、ゴーストは笑う。
「そうだ、怒ってくれ。俺を見てくれ。血の繋がった奴ですら俺を見てくれないんだ。俺にはソータ、おまえしかいないんだよ」
姿を視認し、目を合わせ、語らうことができる存在は颯太しかいないと、ゴーストは語る。
「……大丈夫よ、ソータ」
大きく、深く息を吐き、目に見えない男に髪を引っ張られる恐怖と痛みを感じながらも、クインは颯太に向けて笑う。
「……待ってたわ。あなたが、誰よりも私の傍に来るのを」
颯太を見ながら、クインは目には映らないゴーストへと語りかける。
「……あなたの姿なんて見えないし、声だって聞こえない。存在を望んだことなんて、一度だってない」
否定を重ねる言葉に、自身の髪を掴む手に力が入ったことを感じて、クインはちゃんと言葉が届いていることを意識する。
「でも一つだけ。たった一つだけ、感謝してあげるわ――この黒い髪と瞳をくれて、ありがとう」
場にそぐわない感謝が、玉座の間に静かに響く。
「この黒い髪と瞳があったから。私は、ソータのことをちゃんと見つけてあげられた」
ありえないはずの黒い髪と瞳を有していたからこそ、疎まれて生きてきた。存在を認めてもらえず、無視されるように生きてきた。
でも、だからこそ。その下地があったからこそ。たった一人で放り出され、辛い想いをする男の子を見つけてあげることができた。
ありのままの彼の姿を、望んであげることができた。
「あなたがしてきたことを何一つだって肯定なんてしてあげない。お母様を傷つけたことも絶対に許さない。でも、あなたがしてきたことに意味を持たせるとしたら、そのたった一つだけ。それ以外に、あなたに価値など一つもない。この黒い髪と瞳を私に与えたたけで、そこから生まれた思い出も誇りも、全て私のものよ。あなたなんて、関係ない」
颯太から渡された短剣を握り、それに塗られた彼の赤い血を導いて洗い流し。
「穢れたゴースト。あなたなんて、もう――いらないわ」
白い輝きを放つ刃で、黒い髪を断ち切った。
「命じる」
首元まで短くなった髮を揺らし、クインは別たれた自身の黒い髪へと手を伸ばす。
「鋭く――突き刺さり」
細くしなやかな髪は、その一本一本が全て槍の如き穂先へと変わり、
「全て、吸い尽くせ!」
――ゴーストの全身を、貫いた。
「がっ……!」
細く針のように尖ったクインの黒い髪は、ゴーストの全身に深く突き刺さっている。その無数ともいえる箇所から、ゴーストを構成するマナを吸い上げ、霧散させていく。
「が、あ、ぎ、ああぁぁぁ!」
呻き、体を貫く黒い髪を引き抜こうともがくゴースト。その掌にも、鋭い針と化した黒い髪は突き刺さり、マナを吸い上げていく。
自身の肉が内側から溶けていくような。そんな気が狂いそうな痛みに、ゴーストの意識が掻き乱される。
「っ、ふざけんじゃねぇ!」
怒りと痛みに目を血走らせたゴーストが手を伸ばす。その先には、自分をこんな目に遭わせた短く黒い髪と、澄んだ黒い瞳を持つ少女。
脅威が迫ろうとも、クインは顔を背けることも、目を伏せることもしない。
――自分を守る、小さな少年の背中が、目の前にあるのだから。
つい一ヶ月ほど前と同じように。クインを背にして、でもあの時よりもずっと力強く前へと踏み出して――
「隙だらけだ、バーカ!」
がら空きの懐に、爪先を突き刺した。
「――おおおおぉぉ!」
少しでも彼女から遠ざけるように。体重を、マナを変換して風を、前に、前に、前に。
玉座の後方、光を取り込むための窓を突き破り、宙へと身を投げ出した。
「――――!」
消えたくない、死にたくないと。最早声にすらなっていない、獣の咆哮のような叫びを上げてゴーストは颯太へと手を伸ばす。
いくつもの命を身勝手に奪ってきた穢れた手を伸ばしたところで、誰も汚くて触れたがらない手を。
「独りで――」
容赦なく、迷いもなく、払い除ける。そのまま振り上げた拳にありったけのマナを込め。
「――落ちろっ!」
ゴーストの顔面に、叩き込んだ。
弾ける風はゴーストを下に、颯太を上に吹き飛ばす。
地面に向けて落ちていくゴーストの体は、薄く、掠れていく。痛みに自我は狂い、何よりも傍で視認する颯太がその存在の消滅を望んでいる。
「い、や、だ……」
唯一、存在を視認してくれていた颯太が目を閉じ、開いた時には。
何人もの人々を殺し、傷つけた悪しきゴーストの姿は、もうどこにもなくなっていた。
「……着地、考えてなかったな」
浮かび上がる颯太の体。その一瞬の浮遊感の後、重力に引かれ落ちていこうとする。再度風を放とうとしても、ありったけのマナはさっき使い果たしたばかりだ。
落ちていく視界の中に映るのは、見覚えのある庭園の光景と。
「ソータさん!」
見慣れた黒い獣が、短くとも綺麗な黒髪を携えた少女を乗せて飛び込んでくる、光景。
「ソータ!」
クインが名前を呼ぶ。短い黒髪を風に揺らし、黒い瞳で颯太を見つめ、手を伸ばす。
何も考えることなく、自然と颯太の手が伸びる。その手が繋がり、引かれ。
黒毛の魔物は地響きと共に、厳かな雰囲気をまとう庭園へと落ちた。
*
「だ、大丈夫ですか!? 咄嗟だったから、衝撃を殺しきれなくて……!」
背中から颯太とクインを下ろし、リアがいつもの愛らしい亜人の姿になって心配そうに問いかける。その声に、クインは短くなって首元ほどまでしかない黒髪を押さえるように頭に手を置きながら、笑ってみせる。
「大丈夫、よ。ちょっと、頭がグワングワンするけど」
「お……同じく。けどなにより、助かったよ」
ゴーストをクインから遠ざけるためとはいえ、考えなしにも程があったな、と。自分のことながら呆れる颯太。自分が落ちてきた場所、見上げるほどに高い位置にある見事に割れた窓を見て、乾いた笑いが漏れる。
「それより、ソータは大丈夫なの!? 腕から火を出してたし、怪我とかしてない!?」
「いや俺よりもクインでしょ! 髪切るなんて話は最初からなかったよね!?」
「だ、だって触れるよりも確実だと思ったの! 自分の髪だったら魔導も行使しやすいし、掴まれたから、ちょうどいいやって思って……」
怪我、というほど大げさなものではないし、無傷と言えば無傷なのだが、クインが大切に扱っていた黒髪を犠牲にする結果となってしまっては、颯太も平常心ではいられない。
「ソータさん……その、ゴーストは?」
今気にするべきなのはそこじゃないのでは……? と口にはしないが目で訴えつつリアが颯太に問いかける。
「……消えた、殺したよ。たぶん……いや、確実に」
颯太自身が不安を抱えてしまっては元の子もないと、言い直す。
「クインの魔導で体を構成するマナはボロボロだっただろうし、何より……俺がそう確信してる」
颯太の言葉を聞いて、二人は安心したようにため息を吐く。その二人が浮かべた笑顔を見て、颯太もようやく体から力が抜ける。
……抜けて、しまう。
「それじゃあ、これからどうしますか?」
目的であったゴーストも消え、これ以上この国にいる理由もない。それどころか、国の中枢まで入り込んで暴れ回った上、颯太に至っては注目を浴びれば浴びるほど苦しむだけだ。クインは立ち上がり、ローブの汚れを手で払いながら答える。
「そうね……このままこの国にいても仕方がないし」
クインは上を、自分の両親がいるであろう玉座の間を見上げる。もう二度と会うことはないと思っていた父や母の顔を見ることができて、しかも、助けることもできた。これ以上望むこともない。
「……また、旅に出ましょう。とりあえずあの村に戻って、ヘレンさんやオルヴァーさんに報告を――」
きっと、いつもの調子で、いつものように、同意が得られると思って。クインは颯太へと向き直り。
白く、淡く。今にも消えてしまいそうな姿で倒れこむ、颯太の姿を見た。
「……ソータ?」
近づき、彼の体に触れる。魔導を扱うクインは、無意識のうちに触れたもののマナを読み取る癖がついてしまっていて。
颯太の肩に触れた指先から、彼に宿るマナの不安定さ、頼りなさに、気づいてしまう。
「ソータさん!?」
異常に気付いたリアも颯太の傍に。クインは、震える指で颯太の髪に触れる。
「……あー、ごめん。ちょっと、限界だったみたい」
いつもの気の抜けた、けれど、それ以上にずっと儚げな笑顔を浮かべ、颯太は笑う。
「限界、だって、どういうこと……?」
「疲れ……って表現で合ってるのかな。とにかく、ずっと気を張ってたから、一度気が抜けたらもう……ダメみたいだ」
何十、何百、何千と。数えるのも馬鹿らしくなるほどの人から向けられた、期待の意識。水際颯太という平々凡々な男の子には荷が重過ぎるほどの期待に、ここまで抗ってきた。
自分はそんな崇高な存在じゃないと喚き、自分を肯定してくれる視線だけを意識し続けてきた。そうでもしないと、水際颯太というちっぽけなゴーストは、立って歩くこともできなかった。
自身の失態により招くことになった、穢れたゴーストを止めるまでは。意地でも、その意識だけは絶やすことはできなかった。
「そんな、どうして……! 私も、リアだって、あなたを見ているのに」
颯太を颯太として意識しているクインも。造形に多少違いがあろうとも、水際颯太という人物の内面を正しく理解しているリアも傍にいるというのに。
どうして、颯太を構成するマナは、今にも解けてなくなりそうなほど、不安定になっているのか。
「……詳しい理屈は俺もよくわからないんだけどさ……たぶん、俺自身がもう、限界なんだと思う」
例え周囲がどれだけ颯太を望もうとしても、それを受け取る颯太自身の精神が摩耗し、擦り切れてしまえば……基盤そのものがなくなってしまう。
どれだけ颯太を望もうとしても、その期待を受け取る颯太がいなければ、マナは正しく反映することはできない。
自己意識の有無によって存在しているゴーストにとって、精神の死は、存在そのものの死だ。
「クインさん! 魔導でなら、どうにかできないんですか……!?」
「……だめ、できない」
マナを導くことで超常を引き起こす魔導では、人の意識そのものを変えることも補強することもできない。水際颯太という、一人の人間の精神の限界に対して、できることはない。
地面に頬をつけたまま横たわる颯太の体を、クインはそっと抱き起こした。そして、自身の膝の上に、彼の頭を置く。
「……どうして、もっと早く、言ってくれなかったの」
颯太の今にも掠れそうな意識と視界の中に、クインの涙を浮かべた黒い瞳が映る。
「そんな、限界が近いなんてわかっていたのなら、もっと、やり方があったはずでしょ……?」
「……どう、だろう。どの道、きっといつか、俺はこうなっていたはずなんだよね」
苦笑を浮かべる颯太の頭の中には、目の前に映る少女と同じでありながら、別の存在のように振舞っていた人物のことが浮かび上がる。
君も、今この場をどこかで見ているのだろうか。だとしたら、悪いことをしてしまった。
結局、君を置いて、どこかに行こうとしている自分を。君はどんな気持ちで見ているのだろうか。
「遅かれ早かれ、君の傍にいて、誰かと関わって生きていこうとしていた時点で、きっと俺は限界を迎えてたんだと思う」
たとえゴーストが現れなくても。クインと離れ離れになった森での時と同じように、自己を保てずに消滅する機会はいくらでもあったはずだ。
ゴーストという、颯太にとって人としても男としても許せない存在を止めることができて、運が良かったと思うべきだろう。
「……やだ、よ」
囁くように、それでいて、呻くような声が、クインから漏れる。
「これから、まだまだ旅は続くのよ? この国を出て、ヘレンさんたちが待つ村に戻って、預けていた馬車に乗って、また次の町へ行くのよ? まだ見たことない景色をあなたと見て、そんな、旅を……」
クインの言葉を最後まで聞かずに、颯太は首を振る。
「じゃあ、三人で、どこかで暮らしましょう? あなたの姿は見えないように、どこか深い森の中で。目新しさはない生活になってしまうかもしれないけど、それでも、きっと、楽しいはずだから」
妥協案にすら、颯太は首を縦に振ってはくれない。いつものように、苦笑いを浮かべて、困ったようにしているだけで。
「……じゃあ、私たちはどうすればいいの?」
置いて行こうとする少年に対して、置いて行かれる少女が問いかける。
「あなたがいるから、あなたが手を差し出してくれたから。私は、ここを出て行くことができたのに」
自分の存在理由すらわからないまま、閉じられた庭園で過ごすことをやめて。外に、出たというのに。
「あなたがいないのなら、私は……!」
涙に言葉を詰まらせるクインの耳に届く、耳障りな複数の足音。
「これは……」
玉座の間から降りてきた王や騎士団の面々が、庭園へと足を踏み入れる。
「来ないでっ!」
颯太の姿を周囲から隠すように抱きかかえ、クインが叫ぶ。その言葉を後押しするように、リアは黒毛の魔物へと変じて、咆哮を上げる。
誰一人としてこれ以上近づくなと、二人から意識を逸らすように。
「来ないで、見ないでっ。ソータが、消えちゃう……!」
「……ダメだって。これから、世話になる人たちに向かって、そんな冷たい対応しちゃ」
クインの腕の中で、颯太は彼女の肩を優しく叩く。
「……王様……アルフレルドでもいいや。そこに、いるか?」
「……ここに」
王が頷き、アルフレルドが答えた。無視されずに、ちゃんと自分の声が届いているようで良かったと、安堵する。
「ゴーストはどうにかしてやったから……クインのこと、頼むよ。待遇を良くしろ、なんて言わないから……無視しないで、ちゃんと、見てやってくれ」
「……約束しよう」
「そんなことはどうでもいいの!」
王の約束を遮るかのように、クインは叫ぶ。
「いや、大切なことだよ。俺がいなくなった後でも、君がちゃんと俺のことを気にせず生きていられるように――」
「あなたがっ、この世界を案内してくれると言ったのでしょう!?」
そんなことはどうだっていい。後のことなんてどうでもいいのだと。少女は初めて声を荒げて叫ぶ。
「この世界にやってきたのは私のためだって、そう言ってくれたのはあなたじゃない! それなのに、それ、なのに……!」
「……ごめん。いや、謝るのもおかしいか」
嘘を言ったつもりもないし、それこそは、紛れもない水際颯太の本心なのだから。撤回することもできない。
精神が擦り切れて、眠気のような抗えない感覚が颯太の意識を塗り潰そうとしても。
彼女の涙を止めずにいることだけは、できやしない。
「……約束はできない。けど、きっと、また会えるよ」
一度死んだ身でありながら、こんなにも望外な最後を迎えられているのだから。これ以上を望むなんて罰が当たりそうだけど。
この子の涙を止めるためだったら、どんな罰だって受け止められる。
腹を刺されたり、どれだけ痛い目に合っても、この子のためならと乗り越えられたのだから。
「きっとまた会いに来るから。その時まで、元気にしてて」
短くなったクインの黒髪に触れ、涙を流す頬に触れ、拭う。
「この髪がまた、前みたいに綺麗に伸びるまでには、きっと、会いに来るから」
「……あまり長すぎると、待ちくたびれて、探しに行っちゃうかもしれないわよ」
口元を歪ませる程度の、拙い笑顔。黒い瞳からは涙は流れたまま、それでも、笑おうとする意思が、その揺らぐ瞳からも伝わってくるから。
「……それは、あまり長引かせたくないね」
クインが探しに行くと言えば、本当に探しに行くだろう。その事例を知っている颯太は、思わず苦笑を浮かべる。
そうして探してもらったからこそ、ここまで辿り着けたのだから。
「……約束、してくれる?」
「うん。今のところ、破ったことないだろ?」
「……早速、今から破ろうとしてるのに?」
痛いところを突かれ、二の句を継げない颯太に頬に、クインの手が伸びる。
「……待ってるから。あなたが来るのを、楽しみに待ってる。その時にはもっと、あなたが過ごしやすい世界にして、待ってるから」
嗚咽に声を震わせそうになりながら、懸命にクインは笑う。その歪んだ頬に落ちる涙を隠すことはできなくても、懸命に。
近くで、リアが泣く声が聞こえる。それでも、黒毛の魔物の姿のまま、騎士たちの前に立ちふさがったまま。最後まで、二人の邪魔を許さないように。
「……ああ、うん。もっと、気の利いたことが言えればよかったんだけど」
元から少ない語彙力で、薄れゆく意識の中じゃ、ずっと思ってることしか言えそうにない。
「――君に会えて、よかった」
そうして、彼は姿を消した。
彼を構成するマナは白い粒子となって、風に乗りふわりとどこかへ消えていく。
まるで、最初から、水際颯太という存在など、この世界のどこにもいなかったのだと、錯覚するのが当然のように。
だけど、憶えている。私は、憶えている。忘れることなど、できやしない。
「……最後まで、君は君だったね」
呆れ半分、嬉しさ半分で口にして、私は目を閉じる。
目を閉じれば、いくつもの想い出が蘇る。君が最初に姿を現して、驚いて逃げて行った小さな背中。
怖がって、それでもと私の前に立ち塞がってくれた、小さくても、大きく見えた背中。
「……ううん。それだけじゃなかったね」
この体になって、自分を生命の枠組みから遠ざけ――マナになって、この世界を見てきた視点で、得た君の姿を思い出す。
たった一人で街に放り出されて、誰かに見てもらえなくて泣きそうになる姿。叫んで、もがいて、それでも見てもらえないと泣きだしそうになる姿。いっそ悪いことに手を染めようとして、でも結局、できなくて、たった一人で唇を噛む姿。
絶望がずっと傍にありながらも、それでも、懸命に過ごした一ヶ月間を、ちゃんと私は知っている。
「知っているんだよ。ソータ」
優しく、名前を呼んでみる。
「この世界に生きてきた君を、私はちゃんと知ってるからね」
そのために。知るために、私はここにいたのだから。
こんなにも汚らしい体でも、ここまで、無様に生き永らえてきたのだから。
ずっと長い間座り続けていた椅子から腰を上げ、ずたずたの汚い体を引きづりながら、歩く。
座り続けていた椅子の対面にある、彼が座ったことのある椅子に、崩れるように寄り掛かった。
「……歩くこともうまくできない体なのに、よくここまでやってこれたものだよ」
ああ、でも。それは彼も一緒だ。私が彼を逃がすために一人で教会の戦闘員たちと向かい合っていた時。私を追って、傷だらけの体で森の中を歩いていた彼も、一緒だった。
「あんなに血を流しながら、それでも、私のために……」
その姿は、涙が溢れそうになるぐらいに、涙を流すなんて余分な機能は残っていないけれど、それぐらい嬉しかった。
負けてられないな、なんて思い、私は残った腕に力を込め、体を起こした。そして、彼が座っていた椅子に腰を下ろす。
「……ここで、君が言ってくれたことが、一番嬉しかったな」
すでに一度息絶え、いつかは自我を保てずに霧散して消え逝くことが決まっているゴースト。報われることなどない存在であることを知って、それでも尚、君は――
『最初からそのつもりだ、馬鹿野郎!』
……そんな、力強い言葉を叩きつけてくれた。
「見ず知らずの女性に対して馬鹿野郎なんて、ソータ、意外と口が悪いのよね……」
私には優しい口調でしか喋らなかったから、知らなかった。時折、呆れたように語りかける時はあったけど。
そうだ。私だけが。私だけが、全部知っているんだ。
見ず知らずの怪しい存在である私にさえ、たとえ報われることなくても、私のために生きてくれると。彼はそう言ってくれた。
その優しさを、私だけが知っている。
私だけが、知ってるんだ。他の誰でもない。
ここまで辿り着いた私だけが知っている、彼の気高い覚悟だ。
「ソータ」
短く、名前を呼ぶ。
あなたの手を取った夜を憶えている。たった一人で部屋の中から見た星空よりも、地べたに座って、傷だらけになってあなたと見上げた星空の方がずっと綺麗だったことを憶えている。
こんな綺麗な夜があるんだと、踏み出さなかったら知ることすらできなかった。
「あなたに会えて、よかった」
胸に手を当て、目を閉じる。
こんなボロボロで穢れた体でも、心に詰まってるものは、綺麗で美しくて、大切な宝物だ。
その宝物をあなたに返すために、ここまでやってきたのだから。
「――命じる」
自分を構成してくれているマナに呼びかけ、導く。
蓄えた記憶を元に、私は私を導いていく。
「あなたは私の――お節介な、ゴースト」
それだけが、あなたへと繋がる、たった一つの道なのだから。
これは、自分勝手な物語。
短く、か細い。けれど、彼女にとっては何よりも華やかで、美しい旅路を取り戻すための。
誰からも気づいてもらえない少年が、それでも誰よりも幸せになってもらいたいと願う、一人の女の子の。
そんな永い時を、一人の女の子が生きてきた。
誰も知ることのない。
けれど、たったそれだけで良かった、物語だ。




