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私のお節介なゴースト  作者: ツナ缶
2章 幼く慎ましやかな幻に
19/39

8話

「……確かに。君に常識を求めた私が悪かったようだ」


 埃のついた誇りある鎧たちの長。騎士団長アルフレルドは眉間に寄った皺を指先で揉み解しながら、ため息混じりにそう言った。


「未だ出立すらしておらず、あまつさえそのような面倒ごとに巻き込まれているとはな」

『うるっさいな。こっちにだって色々と事情はあるんだよ』


 と、ふてぶてしく答える、颯太の通常より若干低めの声。魔法により音へと変換されたマナはしっかりとアルフレルドに届き、その証拠に心底うんざりしたような顔つきとなっている。

 必然的に、国という囲いの中で力が集まる場所。王族を守護する騎士団が配置された王城の一室、アルフレルドの私室に転がり込んできた颯太は、椅子に腰かけて紅茶を飲みながら優雅に読書をしていた彼に魔法を用いて突然呼びかけた。

 クインが攫われた。力を貸してくれ。でないと王城でも市場でも、ありとあらゆるものをめっちゃくちゃにしてやると脅して。


「まったく。話には聞いていたが、本当に気味が悪いな。姿は見えぬというのに、こうして声だけ如実に聞こえてくるとは」

『マナの無駄使いになるからあと一回しか言わないけど。俺だって好きでこんな訳わからん生き物になってるんじゃないっての。そんなことより、了承するか、しないのか。どっちだ』

「選択の余地などなかろう。まったく、知恵ある外れ者がこれほど厄介だとはな」

「好きで外れたわけじゃねぇよ。っていうか、本筋なんてあったのかねぇ……」


 目を開けたらこの世界の市場に放り出されてたというのに、他に道があったらとしたら驚きだ。いや、今はそんなことを考えている場合じゃないと、颯太は頭を振って意識を入れ替える。


『それじゃあ早くしてくれ。悪いけど本当に時間がないんだ』


 颯太にだって、約束を反故にするつもりなど毛頭なかった。緊急事態であり、颯太一人ではあまりにも先が見えないから、恥も誇りも掻き捨てて騎士団長の前にやってきた。

 運よく宿の従業員に頭を踏まれて目を覚ますことができたため、窓から薬品を投げ込まれてからそう時間は経っていない。だが、時間が経っていないから二人が無事、などという保証はどこにもない。現状に安心できる要素など一つもないのだ。


「そうだな……フィリス。そこで聞いているのだろう。入りたまえ」


 アルフレルドに見えやしないが、できれば会いたくない、というか、会わせる顔がない人の名前を聞いて颯太の背筋がピシリと伸びる。


「……なんでしょうか」


 不機嫌さ、嫌悪感、といったマイナス方面の感情を少しも隠そうとしていない女性。クインの元侍女であり、アンチゴーストの先駆者である教会と繋がりのあるフィリスが、怒気を背中にまとわせたまま部屋に入ってきた。


「話は聞いていたな。推測ではあるが、可能性のある商団に心当たりがある。馬車を用意するので先に君たちで向かってくれ」

『待って』





「待ってって言ったのに……」


 急いでる、と言ったのは颯太の方だから、強く断ることもできなかった。とはいえ、この状況はさすがに予想していないし、予想する要素がなかった。

 フィリスが操る馬車が王城から街へと続く街道を駆け抜ける。颯太が走ってきたスピードの何倍もの速度は、頼もしいと同時に、馬車に乗る経験など初めての颯太には若干怖い。

 馬車の上によじ登ったことはいくらでもあるが。風を切るような速度で走り、かつ揺れに揺れる居心地の悪い乗り物に乗った経験はないのだ。


「……そこに」

「はい!」


 反射的に魔法を使わずただの肉声で返事してしまう颯太。聞こえなかったから大幅に上ずった声を恥ずかしがる必要は無いのだが、一つ咳払いをして気持ちを整える。


「そこに、いるのですか」

『はい、います』

「……なぜ敬語なのですか。気味が悪い」


 なんでこんな短いタイミングで、何度も気味悪がられないといけないんだろ……と一人内心で落ち込む颯太。嫌悪や恐怖はもう慣れっこで、心が動揺することはもうほとんどないが、単純にある程度の意思疎通ができる状況でそう判断されるのは、思春期の男子として落ち着かない。


『いや、その……年上ですし』

「……年はいくつなのですか」

『はい。十七歳です』

「……お嬢様と然程変わらないではないですか」


 深々と、本当に深々とため息を吐くフィリス。


「その、敬語はやめてください。私は職業柄こういった喋り方が根付いていますが、あなたはそうではないでしょう」


 言葉に嫌悪感はある。恐怖も、表には出さないだけで手綱を握る手と肩が強張っている様子から見ればわかる。これまで大半の人間に恐怖を抱かせてしまった颯太には、見るだけで相手が恐怖を感じているのか否か、そのサインがわかるようになった。

 でも、今のフィリスに敵意はない。対抗し、相手を排除しようとする意思は見えない。それだけで、颯太の肩からは力が抜ける。


『すみません。でもやっぱり、敬語は使わせてください。アルフレルドに対しては別に気にしなかったんですけど、年上にタメ口……砕けた口調って落ち着かなくて。それに……』

「それに、なんですか」


 前方を見据えながら、フィリスが先を促す。伝えるのを一瞬、迷うも。


『俺を……ゴーストをあそこまで毛嫌いしておきながら。それでもクインを、あんなに立派な子を育ててきた人は、やっぱり、尊敬したいです』


 どうしたってクインの物の考え方の基本は、フィリスの教育によるものだ。本当の親である国王や王妃とは一切の接点もなく、教育係兼親代わりとして一緒に生きてきたフィリスが育て上げたのが、クインという颯太が守ると決めた女の子だ。

 二週間前の夜の森の中、あれだけの敵意と殺意を抱きながらも、フィリスはその教育という点において、自身の観念をクインに押し付けなかった。それとこれとは別だと、割り切る良識を持って、クインと接してきたのだ。

 たとえ穢れた血を引く、心から嫌悪する存在の娘であろうとも。産まれ落ちた命に対して、真摯に向き合ってきたのだ。

 その一点だけで、尊敬するには充分過ぎるほどの高潔さだ。


『クインを連れ出したことを、本当に申し訳なくは思っています。俺がいなければ、クインはあの王城で……腫れ物のように扱われても、きっと今のような目に会うことはなかったはずです。でも……お互いに、後悔はないと思います』


 まるでクインの代弁をするかのような口ぶりを、侍女はどう思うだろうか。おっかなびっくり口にしたが、そこに嘘も、誇張も、想像もない、つもりだ。


『本気で、俺はクインに会うためにこの世界に来たって思ってますし、クインも、それを肯定してくれました。だから、今回の件で早速頼っておいて、何言ってんだって思うかもしれないですけど』


 この世界に放り出されて、ようやく見つけられた、自分の生きる意味がある。


『……それでも。俺は命に代えても、クインを守りますから』


 自分の中の想いを口にしながら言葉に変えていく。どれだけマナの消費が多く、賢い手段だとは思えなくても、言わなければならないことは言わなければ伝わらない。


「……娘を取られる気持ちというのは、こういうものなのでしょうね。まさか、私が体験するとは思ってもいませんでしたが」


 フィリスの手綱を握る手が上げられ、勢い良く振り下ろされる。前方で馬が悲鳴を上げて、更に馬車は加速する。


「現況を見ずして、何を言っているのですか」


 ……あ、これ完全に敵意ですね。と颯太の頭が納得すると同時に血の気がなくなっていく。


「あそこに、近頃妙に羽振りが良くなり過ぎている商団が住んでいます。その地下に非合法の品々を隠し持っているという情報も、騎士団に届いているようです」


 夜の街を音を立てて進む馬車から見える、一見何の変哲もない一軒家。その家を見据えて、颯太の頭に血が戻ってくる。フィリスが手綱を操作し、馬を止めるのと同時に、颯太は馬車から飛び降りた。


「私はここで。あと数刻もすれば、アルフレルドが連れた騎士団もやってくるでしょう。それまで……どうか」


 その後に続くのは、無事で、という言葉か。いや、違うだろうなと、颯太は勝手に決め付ける。願っているのは、俺の無事なんかではないはずだ、と。


『はい。必ず』


 それだけマナを声へと変えて、颯太は駆けて行く。

 殺意を、敵意を。おまえなんかがいなければ、という怨恨を、完全に消し去ることなどできない。それはすでに、フィリスという一人の女性の中での骨子としてあり続ける。

 でも、いつか、いつか夢見た未来かもしれない光景の中には、あんな好青年が、狭い箱庭から彼女を連れ出してくれるような未来を思い描いていたこともあって。

 その時、ほんの一瞬。本当に一瞬だけ。目の錯覚を疑うほどの、一瞬だけ。

 聞いていた年の割には背が小さく、小柄な黒髪の少年の後姿が見えたような気がした。





「大丈夫か!? 怪我とかしてないか!? 間に合わなかった俺が見てる幻覚とかじゃないよね!? というか生きてる!? 生きてるよね!?」


 リアに襲いかかる男の横っ腹をやり慣れた前蹴りで吹き飛ばした颯太は、その勢いそのままクインの肩を掴んで半ば狂乱したように問いかける。


「おおお落ち着いてソータ。私もリアも怪我一つないかららら」


 むしろこの揺らされてるのが原因で鞭打ちになりそう、と未だ慌てふためいている颯太を窘め、クインが深々と息を吐く。


「ありがとうソータ。やっぱり、助けてもらっちゃつたね」


 クインの心から安心しきったような笑顔を見て、ようやく颯太も混乱から回復したのか、クインよりも一層深々と息を吐いて、へたり込んだ。


「そっ……か。うん、間に合ってよかった、ほんと。間に合ったっていうか、ほとんど終わってたのかもしれないけど……」


 ほの暗い室内でも、数十人の男たちが倒れ伏してる状況が見え、颯太は若干引き気味で口にする。


「そんなことないわよ。現にソータがいなかったら、今だって危なかったんだから」


 ね? と、クインがリアに笑顔を向ける。


「……はい」


 体が勝手に動いた。自分を守ってくれたから、守らないといけない。なんて、そんな義務感によるものじゃない。守りたいと、初めから最後まで、自分の中からだけで生まれた感情による、無意識の行動。

 ――ああ、もしかして、この人たちが僕に抱いてくれた気持ちは、これなのだろうか。


「さて、こんなとこで長居しても仕方ないし、とっとと逃げ――」


 その言葉を待っていたかのように。


「――!」


 重厚な、()の嘶きのような音が響き渡る。


「……はぁ?」


 ここから逃げて大団円。となるべき展開だったはずなのに、颯太が昔動物園で聞いたライオンの吼え声よりもずっと強大な嘶きが聞こえてくるのは、おかしい。


「――隠れて!」


 咄嗟のクインの言葉に、颯太もリアも考えるよりも前に行動する。三人が物陰に隠れたその瞬間。決して薄くなどなかった壁を突き破り、血走った目と黒い毛に覆われた巨大な体躯が現れた。

 三人とも、息を飲むだけで悲鳴を上げなかったのは幸いとしか言いようがない。それほどまでに、今この場に現れる存在として、颯太の知る限り最悪とも言える存在。

 

 ()()が、吼える。


 奴隷市場の檻の中で見た、まったく同じ見た目の暴力の化身。真っ黒な毛並みに巨大な体躯。裂き、捕らえて離さないための鋭利な爪と牙。生き物を狩るという、食欲を強く読み取ったマナのお節介による産物。

 檻の中にいてこそ颯太に圧倒的なまでの恐怖を抱かせた魔物が、今この木箱を越えた向こう側にいる。


「どうして魔物が……!」


 クインとリアにはここがどこなのかわかっていないが、颯太にはわかっている。ここは何の変哲もない市街地にある一軒家の地下室で、少なくともこんな大人が何十人束になっても適いそうもない巨大な魔物が平然と闊歩してていいような区画じゃない。

 どうして、それなのにどうして。今この場に魔物などという存在がいるのか。


「……そうだよな。触れたことのある者にしか変われないって、言ってたもんな」


 奴隷市場の一角に隠されるように置かれていた檻の中。その中にいた、魔物の姿をしたリア。


 ――じゃあ、その元となった魔物は、どこにいた?


 ここがどういった目的で使われていた場所か。そして、こいつらは一体何者だったのか。考えれば、自ずと答えが出てくる。


「リア、あの魔物に見覚えは?」

「……はい。あります」


 答えがわかりきった質問をしてしまっていた。冷静を欠いていることに気づき、颯太はゆっくりと深呼吸する。


「リア。今後、二度と嘘は言わなくていい。言いたいのなら別に構わないけど、言わなきゃいけないって気持ちだったら、そんなのはもう二度とするな」


 最初に抱いた疑問は、ちゃんと大事に考え込むべきだった。


「リア。おまえは、すでに()()も売られていたんだな?」

「……はい」


 言いたくもない嘘は吐くなと言われた以上、もう、リアは首を横に振ることはできない。

 お世話になった商団から逃げることもなく、リアは金銭の取引の上、両者合意の上で売られていたのだ。

 フィリスの言った、近頃妙に羽振りの良くなった商団の噂。たった一回、正体不明の亜人の娘を売り捌いただけでは、そこまで続けて富は得られない。

 『何にでも姿を変えられる亜人の娘を一回だけの売る』よりも、『何にでも姿を変えられる娘を、顧客が望む姿に変えて何回でも売る』方がずっと儲かる。売られた先で、リアが姿を変えて逃げ出しても、それは売った側の責任ではない。むしろ売った商品が非合法であれあるほど、表沙汰にはならないし泣き寝入りせざる負えなくなる。

 もちろん、何度もそんなことをしていれば疑いがかけられて商売になどならないだろうが、それまでは荒稼ぎし放題だ。

 リアが奴隷市場の一角の檻の中に身を置いていた以上、あの奴隷市場の従業員も何人かがグルとなって、そういった商いをしていたのだろう。たまたまその悪事に加担にしていなかった従業員を捕まえて、リアの所在を問い質せたから話が明るみに出なかっただけ。

 颯太は内心で「やっぱり腐ってるじゃねぇか国営組織!」と憤るが、そんなものは後の祭りもいいところだ。

 そして、奴隷市場で火災が起こり、颯太と出会った。あの魔物として売られる時がすでに何度目の売買だったのか、そんなことは考えたくないしどうだっていい。颯太と同じところまで思い至ったクインが、そっとリアを自身の胸に抱き寄せる。

 魔物は唸り声を上げて、周囲を警戒するかのように姿勢を低く構えていた。


「……細かいところは、今は聞かないでおくよ」


 リアが嘘を吐いた理由を、積極的に知りたいとは思わない。ただ、想像はできる。

 すでにそういった悪徳な売買を繰り返したということは、リアもその売買に加担したという意味に他ならない。たとえそれしかリアにとって道がなかったとしても。自分の意思で、また売られるために戻ったのだから。

 そんな自分は、悪事に加担した自分は、この人たちに救われる資格なんかない。いつ捨てられてしまうかわからない、と。

 だから、売られたという事実を言わず、逃げ出したという嘘を吐いた。もっともらしい理屈を並べて。


『仕方ないですよ。彼らにも生活はありましたし、やっていることは、これまでと変わりません。僕は生きていくための知識や経験をもらいましたし、むしろ、逃げ出してしまったことを申し訳なく思うぐらいです』


 などと、苦笑いで言ってのけるリアの精神の強かさを思い返し、状況を省みず颯太は笑う。母親譲りのたくましさ、なのだろうか。


「とにかく、このまま隠れてれば、騎士団の連中が来てくれることになってるから、二人はここにいて」

「え、ソータ、城に行ったの?」

「なんならここまで俺を連れてきたのフィリスさんだぜ?」

「どういうことなの!?」


 颯太の声は魔物には聞こえないとはいえ、クインの声は当然魔物には聞こえるので颯太は慌ててクインの口を塞ぐ。そもそも遊んでる場合じゃない。


「……あとで詳しく教えてもらうからね」


 目を細めて睨みつけてくるクインに苦笑いを返し、颯太は立ち上がる。


「あの、どうして。このまま隠れていればいいのでは……」

「……俺もそうしたいけど。そうすると、食うでしょ、あいつ」


 おそらく、あの魔物の首下に巻かれた首輪のような物体が、クインの言っていた奴隷からマナを奪い自由を奪っていた魔導具なのだろう。そして、その魔導具の行使権を持っていたのが、あそこに転がっている男たちの誰かだった。

 解放され、体内のマナも潤沢でない魔物が次に取る行動など、あまり考えなくたってわかる。

 すでに数人の男たちが意識を取り戻し、自身の支配下から離れた魔物の存在に気づいて逃げ出そうとしている。

 が、それよりも早く、魔物は飛び掛るだろう。ただでさえ男たちは、クインの魔導に叩きのめされて満身創痍なのだから無理もない。

 このまま、騎士団の面々が到着するのを待てばいい。颯太にだって、それはわかっている。わかっていても、正直怖すぎて足がさっきからガックガック震えまくっているけども。

 立ち上がるしか、ない。


「悪人だってわかってるけど。死ぬのは、ダメでしょ」


 罪を犯した。悪いことをした。そのことをなかったことにするつもりはないし、クインやリアを怖がらした恨みは山のようにある。しかし、死んでいいわけなどない。もしかしたら影で、死に値するほどの悪事を行っていた実績があるのかもしれないけど、そんなものは颯太は知らないし、だからといって、目の前で人が食われて死ぬ光景など見たくない。

 結局は、いつだって自分本位だ。自分が嫌だから。颯太の行動原理はいつだってそれだけ。それが、他人にとっては善行に映るだけの話。


「……危なくなったら、助けるからね」


 颯太が恐怖に震えていることなどお見通しなのだろう。クインが、そんな優しい言葉をかけてくれる。とりあえず、今はそれだけで充分だ。

 足の震えも治まって、右手はゆっくりと、懐からずっと持ち続けて、これまで使う覚悟を持てなかった()()を手にできた。


「一撃もらったら一発ゲームオーバー……よっし。大丈夫。そんなのこれまでだって同じだった」


 剣だろうが魔物の爪だろうが、なんだって一撃で致命傷になる。それぐらい弱い、何も力を持たないただの人間だ。

 今はたった二人にしかこの姿を見てもらえない、ただの人間なのだ。


「よく見りゃただのでかい犬。よく見りゃただのでかい犬……!」


 と、自己暗示以外の何ものでもない言葉を呟きながら、颯太は姿勢を低くして走り出す。

 今にも飛び掛ろうと構える魔物の、機動力の要のなる後ろ足の付け根に狙いを定め――


「痛いだろうが、ごめん、な!」


 颯太の血に塗れた短剣を、魔物の足に突き刺した。


「――――ッ!」


 悲鳴、というにはあまりにも重厚で野太い声を上げ、魔物が吼える。突然の、完全なる意識外からの攻撃に、魔物は前足を薙ぎ払うように振るう。だが、何かに当たった感触も、そもそもその何かすら視認することができない。

 そのはずだ。颯太は魔物の後ろ足に短剣を突き刺した後、大急ぎで短剣を抜いて飛び退くように逃げているのだから。その情けなさたるや、見てくれている二人が思わず目を背けるレベルである。


「怖い怖い怖い! めっちゃ怖い!」


 あえて声に出して怖がることで、少しでも心的ストレスを発散させていく。当人は無意識だが、言葉と表情は情けなくも、体は順応に動き回る。

 颯太は脱兎の如く逃げ出して距離を取り、離れた位置から魔物に向き直る。短剣に付着した魔物の血液を振り払い、油断なく構える。

 颯太が持てる、現状唯一の物理的な武器。二週間前、深夜の森の中で颯太の脇腹を貫いた短剣を拾い、さらに柄の部分にまで颯太の血を塗りつけることで見えなくした、不可視の短剣。塗った血はクインの魔導により決して剥がれることがないようコーティングされて、故に切れ味などないような代物だが、刺し貫くことはできる。

 決して浅くはない傷を負わされた魔物は、この空間に、自分には知覚できない何者かが潜んでいることを察している。現に、魔物の意識はすでに倒れた男たちにはなく、不可視の何者かに向けられていた。

 魔物から放たれる咆哮は、鼓膜と心臓を容易に震わせる。


『死にたくなかったらとっとと逃げろ!』


 魔法によって変換された声を発して叫ぶ。何者かわからない声に従うように、男たちは一目散に部屋から逃げ出していく。

 残されたのは颯太と、颯太を置いて逃げようなどとは少しも考えていない、クインとリアだけ。

 このまま隠れて時間を稼げば、いつか魔物は痺れを切らして、逃げた男たちを追うだろう。それはつまり、この暴力の塊とも言える巨大な獣を、街に放つのと同意だ。


「……さぁ、頼むぜ異世界超常現象。っていうかとっとと来いよアルフレルド!」


 未だ姿を現さない騎士団長の名を泣き言のように叫んで、颯太は駆ける。床を蹴る音に反応した魔物が颯太がいる方向へと血走った眼光を向けるも、獲物の姿はそこに見えない。


「――風よ、爆ぜろ!」


 魔物の後方にただ音だけが大きい破裂音を響き渡らせ、意識を逸らす。その隙に再度駆け抜け距離を詰める。背後を振り返る魔物の、次は前足の付け根へと狙いを定めて短剣を振り下ろした。


「……え?」


 思わず声に出る疑問。思っていたのとは違う感覚。刃が肉を刺し貫く慣れない感触を覚悟しての一撃は、肉どころか毛皮一枚通らなかった。

 体内にあるマナによる自己強化。そんな技術すら魔物は可能なのか、と颯太は驚愕する。


「ソータ!」


 自身の位置を知らせるとわかっていても、クインが叫ぶ。そうでもしなければ、魔物の爪は颯太を容易く切り裂いていただろう。またしても脱兎の如く距離を取った颯太の引いた血の気を全身に戻すかのように心臓が騒ぎ出す。


「いや……そう簡単に行くとは思ってなかったけどさ」


 颯太だって、ただの短剣一本で易々と魔物を行動不能にまで至らせるとは思ってもいなかった。渾身の力を込めて振り下ろした短剣の刃が傷一つつけることも適わなくなるとも、思ってもいなかったが。

 どの生き物でも当たり前のように、目に見える物にこそ敵意は瞬時に働く。声を上げたクインに向け、魔物は駆ける。


「っ、――命じる!」


 その圧倒的な質量と迫力を、クインは周囲の物に命令を送り押さえ込む。だが、何の変哲もない男たちの突進ならいざ知らず、相手はマナの暴走による暴力の具現。さながら転がる大岩を木の板などで防ごうとすることなど適わない。


「クイン!」


 名を叫び、颯太が駆け出す。

 相手は、殺す気で来ている。何故か。生きるためだ。マナを奪われ自由を失っていた体に、潤沢な栄養とマナを巡らせるために、近くにした者を食おうとしているだけのこと。

 貫かれた後ろ足の付け根の存在など、すでに度外視している疾走。たとえ四本の足全てを刺し貫かれても、その疾走に一切の迷いはないだろう。動かなければ、死ぬのだから。

 止まらない。この魔物は止まらない。目に見える二人の獲物を捕らえ、食らうまでは。

 短剣を逆手に持ち替えて、クインの魔導により一瞬でも動きが止まった魔物の顔面に向けて、刃を振り下ろす。すでに行動不能にするなどという目的の達成など不可能に近いからこそ、颯太の中で覚悟が決まる。

 殺さなければ、この魔物は止まらない。

 颯太の血に塗れた短剣が迫ろうと、魔物の右目は何も映さない。


「――!」


 悲鳴、というよりはあまりにも威圧的な声を上げ、魔物が吼える。目に見えぬ何者かの一撃は、確実に魔物の右目を奪い――


「くっ!」


 その代償に、颯太は魔物が振るった腕を、まともに受けた。一瞬の浮遊感の後、自分の体がそのまま横にスライドしていくような感覚。壁へと叩きつけられる衝撃を意識したのは地面に横たわった後だった。


「ソータっ!」


 クインが自分を、悲痛に満ちた声で呼ぶ。その声だけは聞こえていて、視界が明滅していて頭もハッキリしない。魔物の腕をモロに受けて、吹き飛ばされた。爪だったら死んでいたな、と安心するのも意味がないしそれどころでもない。


「逃げ、ろ……!」


 右目を刺し貫かれ、すでに魔物の恐慌は最高潮に達している。何よりも外敵を、目に見えるクインとリアを早く殺し、食らわなければ気が済まないだろう。

 クインはリアを背に庇い、震える腕で魔導の行使を始める。だが、それも手遅れだ。集中と時間を要する魔導の行使を、狂乱した魔物が許すわけがない。


「逃げろぉ!」


 足に、腕に、震える脳を無視して力が込められる。立ち上がろうとしても、どうしたって間に合わない。

 颯太の視界に、飛び掛る魔物の姿だけが見えていた。


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