4話
星が瞬く深夜。颯太は一人、宿屋の庭へと出てきた。繁華街や市場から離れた位置に宿屋があるという理由もあるが、周囲に物音はなく、一番強い明かりは空に浮ぶ月明かりのみだ。
「見た感じ……太陽も月も、地球と変わらないんだよな」
異世界で星の自転やら公転を考えても仕方ないのかもしれないから、深く考えたことはなかった。太陽と月の巡りも、時間の概念も。クインという意思の疎通ができるようになった存在ができた今となっても、改めて日本との差異を比べようとすることはなかった。
日本に、元いた世界に全くの未練がないわけではない。家族や友人は、突然いなくなった自分の存在をどう思っているのだろうか。思い返せば、いくらでも懸念事項は際限なく浮かび上がってくる。
解決する手段がない、どうしようもないのだから仕方がないと、思考停止していたに過ぎないのだ。
「……元気にしてるかな」
「誰の話?」
思わず零れた独り言に反応された颯太が、驚きながら振り向く。白くゆったりとした、就寝用の衣服に身を包んだクインが、夜風に吹かれる長い黒髪を押さえながら、庭へと足を踏み入れていた。
高い宿、というだけあり、しっかりと宿代を払う者に対してサービスの質が良いのがこの宿屋の売りであり、客のプライバシーに極力踏み込んでこない。クインの黒髪や、庭で一人何者かと話すような素振りに対しても黙秘を貫き続ける従業員が、その質の高さを表しているだろう。裏でこっそりと情報が流されているような様子も、この二週間では見られない。
「誰っていうか……まぁ、色々。全体的に」
独り言を聞かれた気恥ずかしさで、颯太は照れた顔を隠すように頭を掻いた。そのあからさまな反応に、クインは「照れることないのに」と笑う。
「ご家族のことや友人を心配するのは、あなたの優しさの証でしょ?」
「優しさ……って言えるほど綺麗なものでもないと思うけど」
もちろん、家族の無事や健康を想っていなかったわけではないが、一番想い馳せていたのは自分がいなくなったことによる、周囲の反応だ。どういう経緯とタイミングで自分がこの世界に来たのか定かではないから、残してきてしまった家族がどんな反応をしているのかさっぱりわからない。当然、別れなんて告げられているわけもなかった。
最後の記憶が……家の布団の上で当然のように眠ったところまでだ。目が覚めたら朝になっていたどころか昼で。起き上がった状態で日本どころか地球ではないどこかの国の市場に放り出されているとは思っていなかった。
あの時の混乱と恐怖は、今思い出しても背筋が薄ら寒くなる。
「リアの様子はどう?」
「ぐっすり眠ってる。檻の中よりずっと快適で、落ち着かないぐらいです。って嬉しそうに言ってたわ」
「かわいそう……ってわけでもないのかな」
衣食住がしっかりしてる……と言っていいか判断が難しいところではあるが、約束はされていた。そのような環境に身を置こうとしたたくましさがあるのだから、哀れむのも筋違いだ。
「ソータは何をしてたの?」
「何をしてたってわけじゃないけど……ちょっと、色々考えてた」
これまでのこと。これからのこと。なんとなく、一度落ち着いて考えてみたくて、外に出てだけだ。
「……やっぱり、元いた世界に帰りたい?」
伏し目がちに、窺うように問いかけるクインの表情からは、不安が隠せずに滲んでいた。
素直な性格の表れであるその様子に、颯太の口元は笑みを形作る。
「帰りたくない、って言ったら嘘になるけどさ……うん、今はやりたいこともやらなきゃいけないこともあるから。そんな露骨にショック受けた顔しないで」
口元に手を当てて、まるでお手本のように驚いていたクインが深々とため息を吐く。
「よかった……って、思ってもいいのかしらね。あなたからしたら、この世界は無理矢理連れて来られたものでしょう?」
「うん。それは、そうだけど」
颯太にとって、この世界に対して良い印象を持っていない。当たり前のことだ。突然なんの謂われもなく、理由も説明されず放り出されて、良い印象を持つ方がおかしい。
突然異世界に召喚されたのか、転移したのか。その差異はどうあれ、颯太はもう深く考えないようにしている。なぜ自分がここにいるのか。どうして異世界に単身放り出されるなどという事態に巻き込まれたのか。決してその理由を、答えを知りたくないわけではないが。
「でも、今は目的があるから」
それよりもずっと大切なものがあるから、いくらでも後回しにできてしまえるだけだ。
「君と旅をして、君と同じ黒い髪と瞳を持つ人を見つけるって目的もあるし。帰りたいって気持ちは、今はこれっぽっちもないよ。まぁ……早速今日から、前途多難な感じではあるけど」
旅の手伝いをしてくれる奴隷を探しに行ったら、身元不明の猫耳少女を見つけてしまった。
冷静に振り返ってみて意味がわからない。今日の朝、この場所で高らかに「旅の準備を始めますか!」などと叫んでいた時からは予想もしてなかった事態だ。
「でも、まさか俺が見えるなんてね……」
「そうね。それは本当に、驚いた」
二人してうんうんと頷き合う。旅の目的の一つとして、颯太の存在を視認できる者を探すといったものがあったが、初日からクリアできるなど思ってもいなかった。
「……どうするの?」
言葉少なく、クインはどこか躊躇したような面持ちで颯太に問いかける。主語もない質問に、颯太は少しだけ悩み、
「何ができるかわからないけど、力にはなってあげたいと思う」
リアの話を丸ごと全て信じるならば、彼女には頼りになる人間も、環境もない。奴隷市場に身を置いたという話も、もしかしたらそれ以外になかったとも言えるのかもしれない。
触れたものならば好きなように変えられる能力。そして、颯太を視認できる異常性。リアの母親が言った、神様の子という言葉の意味。
それら全てが、無関係のようには思えない。思えないが、何が関係しているのかもわからない。
「旅に連れて行く……ってことは無理だとは思うけど。でも、とりあえずあの子が安心して暮らせるような場所を見つけてはあげたいっていうか……ダメ、かな」
火事から助けておいてさようなら、というのは颯太の心情的に難しい。
不安げにクインを見る颯太に、彼女は微笑みながら口を開く。
「ダメじゃないよ。ソータならそう言うだろうなって思ったし」
颯太の人となりは、まだ二週間程度の付き合いでしかないクインにもよくわかっていた。そもそも、クイン自身、そんな颯太に助けられて今があるのだ。その性格を、考え方を簡単に否定できたりしない。
「でも、一つだけ確認していい?」
微笑むことをやめ、クインは颯太に向けて真剣な表情を浮かべる。
「あの火事の中、もしリアがソータのことを見えなかったら。あなたは、彼女を助けた?」
命の危機が火となって迫る状況下で、目を合わせることがなかったら、彼女を見捨てることができたのかと。クインは問いかける。
「……見捨てた、と思うよ」
「ううん。そんなことない。ソータは絶対に見捨てなかった」
颯太が悩んで出した答えを、一切の迷いなく切り捨てる。
「ソータは絶対に見捨てない。そういうことができる人じゃないもの。絶対に自分を犠牲にしてでも、たとえリアがあなたのことが見えなくたって助けたはず。見えない相手に助けれられて、感謝すらされることがなくても。きっと、良かったなんて笑いながら焼かれて死んでしまうぐらい。どうしようもないぐらい、あなたは善人なのよ」
クインの黒い瞳が、颯太を強く見据える。その迫力に、颯太は言葉に詰まり、
「……もしかして、まだ怒ってた?」
そんな、下手したら火に油を注ぐようなことを言ってしまう。
颯太の気の抜けた返答に、クインは目を瞑りあからさまに深々とため息を吐いてみせた。
「怒ってるんじゃないわ。心配してるの。ソータはそういう人だし。そういう人だから、私は助けられた。だから、そこを否定なんてしたくないし、できないけれど。ただ、自覚は持っていて欲しいの」
開かれたクインの瞳には怒りなど一切宿っておらず、代わりに浮かぶのは、ただひらすらに颯太を案じるような、優しげな感情。
「……嫉妬とかじゃ、ないからね。ソータのことが見える人が私以外にも増えて、本当に嬉しいの。でもね。ただでさえソータは、簡単に誰かを見捨てることはできない人なのに、自分を見てくれる人が増えれば、それだけソータは相応の無茶ができてしまう。私は、それが心配なの」
河の流れを変え上空に浮かび上がらせ、撒き散らし鎮火させる。そんな、注目を集めずにはいられない魔導をそれでもと行使したのは、颯太が無茶をすることがわかっていたからこそだ。
自然現象でない、明らかな魔導の行使を目撃されることは、クインにも危険な行いであり、リスクがひたすらに高い。クインの存在を秘匿し続けたい王城の人間からすれば、一発で身元が判明され、追われる可能性すらある。
それでもクインは、魔導を行使した。他ならぬ水際颯太が、自分の犠牲にしてでも救助に回ることがわかっていたから。
「ソータがさっき言ったことは、私は全部賛成。私だって、あんな小さな子、放ってなんておけないもの。でも……ソータが私の身を案じてくれているように、私も、ソータが大事なの」
素直に、どこまでも大っぴらに、クインは好意を表に出す。それは、男女の愛や恋によるものでもなく、ただ大切なのだと、クインの黒い瞳が物語る。
「無茶するな、なんて言わないわ。でも、無茶する時は、私も一緒にする。わかった?」
そこは譲れない、なんて強い意志を持って、クインは颯太に同意を求めた。
「……はい。わかりました」
怒られるよりも、ずっと骨身に染みるな。などと、脳裏に呟く。また別のところでは、あまりにも温かい好意と優しさに、今にも泣きそうになっていもいるが。
「うん。わかってくれて、嬉しい」
本当に心から喜んでいるかのような笑顔を浮かべ、自分の言葉を自分の笑顔で肯定する。
「もう寝ましょう。ソータだって、まだ本調子じゃないでしょ? しっかり休んでから、明日からの計画を立てればいいわ」
「……ああ、そうだね」
宿へと向き直ったクインの提案に、颯太は頷く。
歩き出すクインの背に、颯太はこれだけは言っておかねばと、口を開いた。
「ありがとう、クイン。君がいてくれて、本当に良かった」
「……それ、私も同じこと返すしかないんだけど」
照れたように笑うクインを見て、颯太も自分の発言の気恥ずかしさに、頭を掻く。
「リアの正体もたぶん、私、わかってるし。明日からまた忙しくなるかもね」
「……ん?」
頭を掻いていた颯太の手が、ぴたりと止まる。
嬉しさに心がポワポワして浮ついていたが、今この人なんて言った?
「……リアの正体が、わかってるって、言った?」
「え? うん。確証はないけれど。たぶん」
それがどうかした? なんて今にも言いそうなほど、当然のような顔でクインが肯定する。
「あの子、幻獣の子どもよ」
そのままの調子で、サラリと答えてみせた。
*
そもそも、マナとは何か。
生物、物質、その他ありとあらゆるものに、量や質による個体差はあれど、必ず含まれている要素。曰く、物体と物体を繋ぎとめる楔。または、生命の源とも称されるその存在は、人の歴史が生まれるよりもずっと以前からこの世界に悠然と漂い、留まっていた。
人との生活に深く関わってきたマナだが、その実態はほとんどが謎に包まれている。様々な国で研究機関が立ち上げられ日夜究明に心血を注いできたが、解明できたのは『マナによって何ができるか』の一端のみであり、そもそもマナとはいったいどういった存在なのかは未だ判明されていない。
生命や大地がいつのまにか有していた、法則からかけ離れた謎の質量。そこに、神の意思を勝手に感じ取る者も少なくはない。様々な思惑、経緯の末、今ではマナは解明するものではなく利用ないし信仰するものという認識で落ち着いていた。
故に。現代においてマナとの付き合い方とは、理解できる範囲を周知し、用いた技術、技法を高め昇華させてきたものに過ぎない。
マナを瞬間的にとはいえ実体化し、人の意思に呼応したものへと変質させる『魔法』。内部に存在するマナに直接働きかけ、物体そのものを変質させる『魔導』。主にこの二つが人類がマナに働きかけることによって編み出された技術だ。
だが逆に、マナが生命に働きかけることにより生まれた存在もある。それが、『魔物』だ。
通常の動植物が過剰なマナを取り込む、又はマナが異常発生することにより、その動植物の意思を反映し過ぎた造形へと変わる。
生きるために他の動植物を食らう、食欲を過剰に反映し、狩りを容易にさせる強靭な肉体へと変貌させたり。種の存続をひたすらに重きにし、尋常ではない繁殖力を持つ植物など、多種多様な変貌を遂げた魔物の存在が報告されている
未だ人の手の入らぬ未開の地には、異様なまでにマナが密集し、滞った場所が存在する。
通常、マナは生物に宿る。大半のマナは食物連鎖と同様に、ピラミッドの上へ上へと徐々に集まっていく傾向があるが、死骸等に残った、余剰分のマナは大地へと浸透し、ある一定の場所で溜まる。マナ溜まりと称されるその場所の近くで育った動植物が魔物に変貌する例も、多数報告されていた。
さて、前述のとおり、生物に宿ったマナは、その生物の意思を反映した形や性質を帯びている。一度肉体から離れたマナはその性質を保てずに霧散するのが通常だが、そのマナ溜まりの中でその性質を保持したまま滞り続けるマナもある。
多種多様の生物から染み出したマナが、一定の箇所に滞り続ければどうなるのか。大半はその性質を保てず、魔法を用いた時と同様に霧散してしまう。
だが時折、強い生存欲求のようなものが積み重なり、マナそのものが一つの生命として誕生することがある。
多種多様の生物の特性を受け継いだ、全く新しい生命として。
それこそが、『幻獣』。特定の造形を持たずに、幻の如く千差万別の特性を受容する意思のあるマナの塊。
「……そんな存在と関係を持った僕の母親って、なんというか、すごくたくましかったんですね」
「そうだけど今はそこじゃねぇよ」
昨日同様、宿の一室の椅子に腰掛けたリアの呟きに、颯太が真顔で肯定して否定した。
目を覚まし、宿の朝食に一頻り感動したリアと共に、颯太たちは昨日クインがあっさりと告げた事実、リアの父親の正体について説明をしていた。その説明を聞き、呆然と呟いたのが先ほどのリアの言葉だったが、大事にするべき着眼点はそこではない。颯太も話を聞いた当初はそんな感想を抱きはしたが、口にしないよう努めていたのに、その実の娘の口から飛び出したらどうしようもない。
「元々、マナを神聖視する宗派もあるからね。そのマナが意識を持って生命として形になった幻獣も当然、神様として敬う地域もあるの。たぶん、リアのお母様が住んでいた村も、そういう信仰があった村なのでしょうね」
実際、その村でどういった信仰がされていたのか定かではないが、その信仰していた神様への供物として、人間を一人差し出すというのは些かやり過ぎのようにも思えた。過去に実在したその風習に、顔をしかめる颯太だが、クインも同様に表情からはその慣習を毛嫌いしているかのような感情が見受けられる。
「で、その幻獣っていうのは、リアみたいに色々な姿になれる動物……動物でいいのか? まぁ、そういう存在だっていうこと?」
「一説では、ね。形が定まっていない、不定形の魔物って言われてるわ。だからリアみたいに、体内のマナを変質させて別の姿になれるっていうのは、その特性と噛み合ってると思って」
村で信仰されていた何者かへの供物として捧げられたリアの母親に、その子ども、リアが受け継いたであろう特性。状況証拠だけなら、十二分にリアはその幻獣の子どもであろうということは判断できる。
できる、が。なぜその幻獣の子どもであるリアがゴーストを、颯太を視認できるのか。その理由はさっぱりわからない。幻獣という異例に何か要因があるのか、それとも別に何要因があるのか。
「幻獣、ですか……」
自身の出自が暫定とはいえ判明したリアだが、その表情は喜びよりも、困惑の方が大きいようだ。
無理もない話だ。自分の父親が何者か知らなかったこれまでと、自分の父親が幻獣などという、今まで耳にしたこともない存在だったと知った今では、現状に大した差はない。むしろ、そのような超常的な存在がどうやったら父親になるのか……その経緯に違和感を覚えていても不思議ではない。
「にしても、随分と詳しいね」
幻獣について、一切淀みがなく説明してみせたクインに向けて颯太が言う。クインはその言葉を聞いて、軽くため息を吐いて自身の長い黒髪を指で撫でた。
「城ではひたすら魔導の練習と知識の詰め込みばかりしていたから。正当な後継者になるかも……なんて、もしもを警戒してただけなのだけど。無駄にならないようでよかったわ」
本来の目的に沿わなかったとはいえ、現状の道しるべとしてクインの知識は多いに役立っていた。
「……それで、なんだけど。君はこれからどうしたい?」
颯太は腰を下ろし、リアと目線を同じ高さにしてそう問いかける。突然の質問に、リアの目が見開かれ、頭にある猫耳がピクンと動く。
「どうしたい……?」
「助けるだけ助けて、はいさよならってのも落ち着かないしね。もし君に何かやりたいことや、目標があるなら、俺たちはそれを手伝うよ」
颯太の後ろで、クインも笑顔を浮かべて頷く。
でも、その笑顔を向けられたリアの表情に浮ぶのは、疑念の感情だった。
「……どうして、僕にそこまで良くしていただけるのですか?」
リアにとって、この二人に向けられるべき感情は感謝の念しかありえない。命を助けられ、宿と食事を世話されて、文句を言う方がおかしいというのはリアにだってわかっていた。
だが、理由のない善意を受けたことがないリアはこの二人が向けてくる親切の、その裏を覗き込もうとしてしまう。不義理な考えだとわかっていても、その疑心はどうしてもリアから消えない。
「どうして……どうしてねぇ……」
リアのごもっともな質問に、颯太は腕を組んで悩みだす。予想してなかった颯太の反応に、リアの猫耳がピクリと動いて驚きの感情を示した。
「……まぁ、打算的な考えがないわけじゃないよ。どうして君が俺のことを見えているのか、その理由を知りたいし。そういった理由を探すために、俺たちは旅をするつもりだからね」
あっさりと内情を吐露する颯太に、リアの内心で困惑していた。裏があると思ったからこそ問いかけた質問でも、素直に答えられるとは思ってもいなかったからだ。
「でも、そんな事情は抜きにして、君は放っておけない」
身寄りもなく、頼りになる者もいない。当てがないからこそ、リアは自身の身を変えて奴隷市場の檻の中に収まっていた。
そんな少女を、この二人の善人が放っておけるわけがない。
「疑わしいのはわかるけど、信用して欲しいな」
颯太と同様に、クインまでもが目線をリアに合わせて口にする。
「せっかく出会えたのだもの。私たちにできることなら、できる限り手伝ってあげたいの」
……言ってしまえば、いっそ気味の悪いほどの善意に、リアはこれ以上なく困惑していた。
「だって、僕は、あなたたちに何もしていないです」
恩義を感じてもらうようなことも、何か代償を払ったわけでもない。ただ燃え盛る炎の中から命を救われただけだ。むしろ、リアが何かを返さなければいけないはずなのに。
自身の奇異な特性が周囲に知られたらどうなるか。幼いリアにもそれぐらい判断できたし、理解できていた。だからこそ、この二人にはどんな無茶な要望をぶつけられようとも、できる限り応えようと思っていたのに。
まさか逆に、これ以上手を差し出されるなんて。
「命を救われて、それだけで充分過ぎるほどなのに……」
「うーん……そこまで恩義を感じられても困るんだけどなぁ」
現状だけ見れば、リアは颯太の善性によって偶然命を救われたことになる。とはいえ、颯太側からすれば、そうするしか選択肢がなかっただけの話なのだ。見殺しにした後の自分が、ただひたすらに辛いだろうな、と。
ある意味自分本位の理由でしかないことに、恩義を感じられても困る。
「……つまりだな、俺たちがそうしたいから。それだけの話なんだよ」
小難しい理由など一つもなく、助けたいというただそれだけの善意のみなのだと、颯太は真っ直ぐに何の衒いもなく口にする。
「だからまあ、ある意味自分たちのためっていうか。リアが責任なんか感じる必要はどこにもないんだ。素直に、何がしたいかを言って欲しい。俺たちは、それを手伝うから」
助けを求めたのは紛れもなくリアであろうとも、助けると決めたのは颯太なのだ。その選択の末に、責任などリアにはない。火という目に見える危険が差し迫っている中、視界に入った者に助けを求めてしまうことに責任など言い出しても仕方のない話だし、勝手に危険を冒したのも颯太なのだから。
君は何も悪くない。そんな本心を、颯太は真っ直ぐにぶつける。
その颯太を目から視線を逸らし、リアは俯いた。
「……幸せに」
俯いたまま、リアはゆっくりと、自分の望みを口にする。
「幸せに、なりたいんです」
どこか曖昧な望みでも、口にするリアの声色はまるで振り絞るように、決意に満ちた声だった。
「僕には、隠してることがいっぱいあります。言えないことだって、たくさんあるけど」
リアは顔を上げ、力になると言ってくれた二人に、その力強い瞳を向ける。
「幸せに、ならないといけないんです」
年端もいかぬ少女の、力強い眼光と声色。その言葉が紡がれるに足るリアの内情は、二人にはさっぱりわからなかったが、
「――よし。わかった」
「――うん。がんばろうね」
などと、二つ返事で了承してみせた。
「……え、いいんですか?」
「何が?」
心底何を不思議がってるのかわからない。とでも言いたげな表情で颯太とクインはリアを見る。その二人して似たような反応に、昨日が初対面のリアにも、「この二人性格そっくりだ……」と内心で確信して。
「……ははっ」
初めて二人に向けて、見た目相応の、幼い笑顔を見せてくれた。
愛らしい見た目ながらも、リアはこれまで一度も笑顔を見せることがなかった。どこか悲しげで、物憂げな表情ばかり浮かべていた少女が、初めて見せた笑顔。その笑顔に、お人よしでお節介な二人の顔も緩む。
「それじゃあ、リア」
名前を呼び、颯太が右手を差し出す。
「君の幸せがどんなものなのかわからないけど、俺たちは精一杯、君を手伝うから」
昨日の夜にもあった光景。違うのは、手を取る少女の顔に浮ぶ、愛らしい笑顔。
「はい。よろしくお願いします。ソータさん」
たった二人だけの相互理解者だと思っていた彼らに、可愛い妹分ができた朝だった。




