10話
「とまぁ……これが、俺が過ごした一ヶ月ですよ」
そう結んで、俺は大きくため息を吐く。
思い返してみれば、後半の密度の濃さに辟易する。そもそも異世界に単身、何の説明もなく放り出された時点でだいぶ無茶だったのに、よくもまぁ生き長らえたものだ。脇腹を刺される経験など、したくもなかったし極力思い出したくもない。
「……いやはや、思っていたよりも、波乱万丈な生活だったんだねぇ」
俺がやっとこさ過ごした一ヶ月を、波乱万丈の一言で笑いながら言ってのけやがった。その口調の軽さに、俺は大げさにため息を吐く。
「簡単に波乱万丈の一言で片付けないでくれよ……こっちは死にかけたんだぞ」
質素な木製のテーブルに置かれたコップに入った、紅茶のような香りと色合いの飲み物を口にして、話し続けて乾いた口内を潤す。
そもそも、今俺が置かれている状況も、中々に意味がわからない。
「確かに、君が過ごした一ヶ月は立派で、かけがえのないものだったよ。たった一人の女の子のために、よくもまぁそこまで善人っぷりを発揮できたものだ」
「……いや、やっぱ馬鹿にされてる気がするなぁ」
言葉の内容は俺を褒めてくれているはずなのに、からかわれてるような気がしてならない。
俺の納得がいかない口ぶりに、目の前の人物は声を上げて笑ってみせた。というよりも、声に出してくれなければ、目の前の人物が笑っているのかすらわからない。
そもそも、人なのかすらわからない。
「……自分で経験してみないとわからないもんだな。目に見えない何者かと話す、恐怖ってやつはさ」
どこかもわからない部屋の一室。質素な木造のテーブルと椅子。異世界にやって来てから何度も目にした、何の変哲もない宿屋の一室のような風景の中。
どれだけ目を凝らしても姿が一切見えない、何者かと話す違和感と恐怖。
もしこれで、会話による意思の疎通さえ図れていなかったら、たぶん俺は迷わずこの部屋を飛び出している。
思い出せる記憶の最後は、森の中で横たわっていた記憶が最後だ。あの後、騎士団長、アルフレルドが呼んだ誰かが俺を治療してくれたのか……その辺りの記憶が曖昧なせいか、どうしても現状に現実味をいまいち感じない。死後の世界……にしては、周囲の家具が現実味を帯び過ぎてるし。
気づいたら、俺はこの部屋の椅子に腰掛けていた。それこそ、俺が謂われもなくゴースト扱いされた異世界で気がついた時のように、突然に、何の前触れもなく。そして、対面に腰掛けている(であろう)人物に話しかけられたのだ。
君のこれまでを、具体的には君が過ごした一ヶ月間を知りたい、と。
促されるままに俺は記憶している出来事を、特に隠すことなく全て話した。話したところで特に不利益を被るとも思えなかったし。目の前の人物……おそらく、声色からして女性だろう。言動にこっちを年下に見てるかのような上から目線感を覚えるから、たぶん年上。姿は見えないから、どれも推測だけど。
姿は見えないから、恐怖はある。もし目の前の人物がナイフを隠し持っているかもしれないし、すぐにでも俺に振るえるよう拳が硬く握られているかもしれない。そんな、目にできないからこその恐怖は、多少なりともあるけれど。
俺には、どうしても目の前の人物が、そう悪い人のようには思えなかった。
「ごめんね。私の姿はちょっと、真っ当な青少年が見るにはちょっと刺激が強い姿をしてるいからさ」
「……服着てないの?」
「そういう刺激の強さじゃなくてね。ちょっと、人には見せられないほど、ひどい姿をしてるんだ。それに、この姿を見せるのは一人だけって、決めてるの――でもまぁ、ちょっとだけ」
そう言って、目の前の人物の姿が、本当に一瞬、一瞬だけ見えて。
――俺は、さっきまで飲んでいたお茶のような何かを、胃液と一緒に全て吐き出した。
「……そこまでの反応をされると、さすがに傷つくなぁ」
「無茶、言う、な……」
手の甲で口元を拭いながら、なんとかそれだけ返す。
「なんで、そんな……というより、なんで、生きて――」
口にするのも、頭の中で今目に映った姿を再現するのも気持ち悪いし、吐き気がぶり返す。とにかく、明らかに、生きている人間の体ではなかった。声を出せるわけもないし、意思が残っているのすら、絶対におかしい。
死んでいなければならないはずの、欠損と腐敗と残酷さ――
「だから、姿を見えないようにしてるんだよ。私たちの姿は、どうしたって世界に受け入れられない」
「……ちょっと待て。今、私たちって言ったか?」
聞き間違い、で、あって欲しい、の、だけど。
俺の質問に、目の前の人物……あれだけの残酷さではかろうじて判断できるほどだったけど……彼女は答えない。
「私たちはね。本当に、言葉通りに、ゴーストなんだよ。死んでいるはずなのに、生きている」
声色だけは笑いながら、死に体が語る。
「この場所を、この時を。君は目覚めたら忘れる。そういう風になっている。だから、包み隠さず、言えることは言うよ」
「それじゃ、俺は死んで――」
「ううん。死んでなんかいないよ。言ったでしょ? 死んでいるはずなのに生きているって」
「そ、それなら! どうしてクインは俺の姿を見て何も言わなかったんだ!?」
「彼女は君を見ているんじゃない。具体的には、今の君を見ているわけじゃないんだよ。それに関してはまぁ、伝えても仕方がないから言わないよ」
「早速包み隠してるじゃねえか!」
「言えることは言うって言ったじゃないか。それに、大事なのはそんなことじゃないんだよ」
コトリ、と。テーブルの上に何かが乗った音がした。目に見えないから、それは彼女の腕か、手か。指がひしゃげ、欠落し、何も掴めず手としての機能を失った、あの塊か。
声が近くなる。目には見えないけれど、顔の傍に何かが寄ってきた。
さっき見えた、明らかな残酷さが、目には見えないけれど確かにそこにある――
「君はこれから、きっと報われない。すでに、ゴーストと呼ぶに相応しき様相であり、未来なんて、望むことすら馬鹿げていて、笑えもしない」
容赦なく、言えることは言うと宣言したとおりに、少しもオブラートに包むこともなく伝えてくる。
「それでも君は、彼女のために生きるかい?」
「――そんなの、決まってる」
その質問のおかげで、飲み込まれずに済んだ。
「最初からそのつもりだ、馬鹿野郎!」
テーブルに叩きつけた拳のように、言葉も叩きつけた。
そうだ。もう、決まっているのだ。今更覆すつもりも、なかったことにするつもりも欠片もない。悩む段階など、この一ヶ月で終わっている。
「……そう。その答えだ。その答えが聞きたくて、無理をして君と話した」
「そいつは、ご期待に応えられたようで何よりだよ」
「うん。これからも、応えてもらうよ」
拳を置いたテーブルが、腰掛けていた椅子が。周りの家具が、部屋が。瞬時にその存在感をなくす。
何もなくなった――見えなくなった視界の中。ずっと見えなかった彼女の声だけが確かに耳に残る。
「悩むがいい。苦しむがいい。君のこれからの未来に、救いはなくとも。君は君のまま、その類まれなる善性を持って、大いに世界にお節介を焼いていけ」
すでに終わっているはずの見えない肉体から放たれる、激励のような言葉だけが聞こえる。
「君は救われない。絶対に救われない。でも、すでに救われているのだから、それはそれで上等だろう」
何も映らない世界の中で、その言葉だけが背中を押しているような気がするから、前がどこにあるのかわかった。
「君にどれだけの災難や苦しみが、痛みがあろうとも。君は立ち止まるな。手を伸ばすのを、誰かを望むのを、やめないでくれ」
命令のような、懇願のような。そんな声を耳にして。心に、刻まなきゃいけない気がして。
「それだけが、私たちにできることなんだから」
俺は、目を開いた。
これは、自分勝手な物語。
降って沸いた、理不尽のような事態でも。自分を想ってくれる何かがいるのなら、そのために生きていこうと思えた者の。
誰からも気づいてもらえない少年が、それでも誰にでも関わっていこうと。
投げやりな前向きを掲げて、生きていく物語。
1章はこれにて完結になります。
拙い作品ではありますが、読んでいただきありがとうございました。
続きもチマチマですが、のんべんだらりと書いていこうと思ってます。