新生ハカーマニシュ王国軍
パルティア王イスファンディヤール3世は多忙だった。
本来の職務であるパルティア王国の統治に加え、ハカーマニシュ王国軍総司令としての仕事もあり、さらに新たに手にした旧ヒュルカニア領も管理しなければならない。忙しいのも当然ではあった。
もちろん、一人で全ての業務を行うことはできない。パルティア及びヒュルカニアの統治は主に信頼できる家臣たちに任せ、たまに思い出したように馬で駆け戻った。それでも滞在するのは長くて1週間ほどであり、大抵は2、3日でスーサに帰った。
イスファーンはハカーマニシュ王国軍の整備に力を注いでいた。最初に行ったのは部隊の再編だ。トゥーラーン連合軍との戦いで失われた兵員を補充し、損害があまりにも著しければ複数の部隊を統合した。トゥーラーン連合軍との戦いで多くが失われた士官や将校についても広く人材を募り、穴を埋めた。多分に形骸化し、硬直化していた訓練についてもより実戦を意識したものを取り入れた。
特筆すべき点は、属国やハカーマニシュ諸侯の兵も王国軍に組み込んだことだ。この時代、王国軍とは国王直属の軍勢と諸侯の提供する兵の混成軍だった。割合に差はあれど、ハカーマニシュ勢力だけでなく、トゥーラーンや東方のオドニス諸国でもこれは共通していた。ハカーマニシュ王国軍が本国の兵と属国兵で構成されるのも、より規模は大きいが似たようなものだ。
だがイスファーンはこの垣根を取り払うことを目指した。国王直属軍の部隊に兵を補充する際には属国や諸侯の兵を用い、部隊を統合する際にはなるべくこれらが混ぜ合わされるよう考慮した。
この施策は指揮官では特に顕著だった。士官や将校には各地の貴族やその子弟、属国の人間が登用された。自分に心酔する若い将軍たちに加え、オーランやミラードらパルティア人、カリアやダルダニア、ハマトの将軍たちも軍に組み込んだ。
もっとも、属国の人間を指揮官に任命する際には細心の注意を払った。一般兵や下士官はともかく、属国の人間に栄えあるハカーマニシュ王国軍の指揮を任せるとは何事か、という批判がでることを懸念したのである。
そもそもハカーマニシュ王国軍総司令がパルティア国王ではあるのだが、これも批判がでないよう様々な手を打った上での人事だった。イスファーンは数代遡れば複数のハカーマニシュ貴族の血を引いており、しかもそのうちのいくつかは家が途絶えていた。イスファーンにこれらの家を相続させ、形式的には「パルティア国王イスファンディヤール3世」ではなく「ハカーマニシュ貴族イスファンディヤール」が総司令に任命された、としたのである。これらの処置は宰相シャーヤーンや副宰相ファルザームらに対しても行われた。
他の将軍たちについては、一部には同様の措置を取り、一部には属国の民で構成される部隊の指揮官とした。また、主要な将軍たちは新たに設けた役職に就けた。「軍監」あるいは「代理将軍」である。
カリア王ファルザームと手を組むイスファーンは、政治と軍事の連携を強く主張した。そこで新設されたのが「軍監」である。宰相や副宰相の代理として軍を監視する、というのが表向きの職務とされた。宰相シャーヤーンの「軍監」はシェルヴィーン将軍、副宰相ファルザームの「軍監」はカリア王国軍総司令ファルボド、軍務大臣ヌーリの「軍監」はハカーマニシュ貴族のメフラング将軍が任命された。
「代理将軍」はダルダニア王パルハームのために創設された役職である。パルハーム王はトゥーラーン連合軍との戦いに軍勢を提供し、ファルザームと共に聖鍵軍を押さえるのに功があったとして、ハカーマニシュ王国軍副司令に任命されていた。だがパルハームは文人肌であり、戦いには不向きである。そこで、ダルダニア王国軍総司令キールスを代理としたのだ。もっともこの人事は、自らと親しい豪傑肌の勇将キールスを軍の要職に 就けることを欲したイスファーンの思惑によるものだった。
ハカーマニシュ人の将軍についても、要職や実動部隊の指揮官は自身の支持者を任命した。それ以外の者は引退させるか、閑職に追いやった。
こうして、イスファーンはパルティア軍だけでなくハカーマニシュ王国軍をも掌握した。属国出身者や新兵、傭兵を加えた新生ハカーマニシュ王国軍は総勢30万。トゥーラーン連合軍との戦い以前よりは減少したが、団結力を増し、質の点では大きく向上していた。
時にイスファーン、28歳。生まれもっての才気に成熟した深みが加わり、常人よりも早く男として脂の乗った時期を迎えていた。