トゥーラーン三国
一人の男が北方の宮殿に立ち尽くしていた。
かつて奇策をもって因縁の敵国を滅ぼした男。
かつて18万もの大軍を手中に収めていた男。
だが、今では元の木阿弥だった。
領地は増えたが、失ったものの大きさの前には霞んでしまう。
(夢よもう一度、だ…!)
男は固く拳を握りしめた。
一人の男が玉座に深く腰かけていた。
かつて隣国に出し抜かれ、迂闊さを嘲笑われた男。
かつて隣国のあげた成果の前に、愚鈍さを非難された男。
だが、今では先見の明を褒め称えられていた。
隣国の王が国や名声を失う中、動かなかったという一事によって賢王の名を得た。
(奴らは所詮露払い。次は我らだ…!)
男は口元に笑みを浮かべた。
一人の男が北方の地をさまよっていた。
かつていがみ合う数多の部族をまとめ、「統一王」と呼ばれた男。
かつて数万の部下を率い、「征服王」と讃えられた男。
だが、今では一介の放浪者だった。
部下もなく、金もなく、国もない。馬すら失っていた。
(この恨み、晴らさずにおくものか…!)
男は顔を醜悪に歪め、剣の柄を握りしめた。
トゥーラーン三国。エリマイス、オイラート、アルカディアの3カ国をまとめて、ハカーマニシュ人はこう呼ぶ。
だが、三国はそれぞれに民族も文化も風習も大きく異なる。
エリマイス王国の支配層はハカーマニシュ人と同じ人種であり、王家も先祖を同じくしていた。それどころか、エリマイス王家の方がより正統であるとすら言われる。
1000年以上も昔、西方からの侵略者ヘレーニア人によりハカーマニシュ王国は滅びた。ヘレーニアの王が病死してからは、その後継者を自称するヘレーニアの将軍たちやハカーマニシュ王国の残党が乱立し、戦乱の嵐が吹き荒れた。最終的に勝ち残り、ハカーマニシュ王国を再興したのは先王の4番目の息子フェリドゥーンである。そして敗れたいくつかの勢力の中に、フェリドゥーンの長兄の遺児とされるアルシテスとその軍勢があった。アルシテス一党は北方の地に落ち延び、現地の民を征服してエリマイス王国を立てたと言い伝えられている。
アルカディア王国も似たような経緯で生まれた国である。ヘレーニア人はその王の死後、数多の勢力に分裂した。中にはハカーマニシュ人に雇われる者までいた。フェリドゥーン軍に加わった者以外のヘレーニア人は最終的にハカーマニシュ王国から追い出され、四方に散った。北方に逃げたいくつかの集団はそれぞれに都市を築いた。そのうちの一つに「後継者」ピュロスが築いたアルカディアがあった。その後、このアルカディアが他の諸都市を従え、アルカディア王国が成立した。
オイラート王国は三国の中で最も新興の国家である。いや、そもそもかつてトゥーラーン三国の一角を占めていたのはオイラートではなかった。
本来トゥーラーンの三番目として数えられていたのはドランギアナ都市同盟という国家だ。一つの国というよりは都市国家のゆるやかな連合体という方がより正確かもしれない。内政は都市ごとに行い、軍事と外交は加盟する諸都市の代表が集まって合議する。もっとも、多数の都市が全会一致することなど多くはなく、場合によっては内戦に近い状態となることもあった。
そんなドランギアナ都市同盟は数十年前、東方の草原を故郷とする騎馬民族に敗れ、占領された。それら騎馬民族の中で最も有力な部族の族長は王を名乗り、オイラート王国を建国した。初代国王の孫が、ハカーマニシュ王国に侵攻したバハードゥルである。ちなみに、オイラート軍で歩兵を務めるのはほとんどがドランギアナ諸都市から集められた兵であり、彼らはカユーマルス王の指揮下でパライタケネの戦いにも参戦した。
そして今、トゥーラーン三国の勢力図には再び大きな変化が生じた。オイラートの没落と、アルカディアの相対的な強大化である。
建国以来、エリマイス及びアルカディアを脅かしていたオイラートは、イスファーンとの戦いで各個撃破され、壊滅状態に陥っていた。祖国にたどり着いたオイラート兵は僅かであり、王と主力軍を失ったオイラートは滅びたと言っても過言ではなかった。事実、旧ドランギアナ都市同盟の都市の中には独立に向けて動き出す所もあった。
エリマイスもまた、滅亡にはほど遠いものの力を弱めていた。特に軍事力の低下は深刻だった。元は5万を数えた兵力は一連の戦いで損害を受け、4万を大きく割っていた。占領したアレイヴァからの資金で傭兵を雇い頭数は揃えたが、質の点では低下していた。アレイヴァにしても、正規軍の大多数が失われたためにカユーマルスに従っているだけであり、その占領はむしろ重荷であるとすら言えた。重荷ではあるが、資金源としては手放すのは惜しいという、実に厄介な土地だった。
相対的に力を強めたのはアルカディアである。他の2国が弱体化する中、今回の戦で終始中立を保ち動きを見せなかったアルカディアは、元の国力を保っていた。それどころか、独立を図るドランギアナ都市のいくつかがアルカディアに支援を要請し影響下に置かれたため、実質的にも力を強めたと言える。「勝者からも敗者からも敵視される」と中立を批判する意見もあるが、アルカディアの場合について言えば、中立を選んだことにより成功したのである。これは、勝者たるハカーマニシュも敗者のトゥーラーン連合軍も自国内のことで手一杯であり、アルカディアをあえて敵とする余裕がなかったこともある。だが、結果としてアルカディアは賢明だった。
それぞれの道を歩むトゥーラーンの国々だったが、ハカーマニシュ王国に対し野心ないしは悪意を持っている点では共通していた。そしてそれを迎え撃つ側であるハカーマニシュ王国も、決して一枚岩ではなかった。