運命の約束
「何、セペフルが倒れただと!」
オアシスで休息をとっていたマシニッサは斥候の報告を聞き、にやりと笑った。
「連中は弱っていたが、ここにきて主将が倒れたか。こいつを逃す手はないな」
カユーマルスがハマトに派遣したセペフル率いる遠征軍は、様々な災厄に苦しめられていた。慣れぬ砂漠での歩みは遅々として進まず、特に補給部隊は亀の方が速いのではないかと疑うほどの遅さだった。滞る補給とぎらぎらと照りつける太陽に将兵は苦しみ、酷暑と喉の渇きにばたばたと倒れていった。方向感覚を失い、道に迷ったことも一度や二度ではなかった。蠍など毒を持つ生き物により命を落とした兵もいた。
これら自然の猛威に加え、明確な悪意に満ちた敵もセペフル軍を襲った。砂漠の民である。マシニッサにより組織された、あるいは独自に動く彼らは馬や駱駝に乗ってセペフル軍を襲撃し、補給線を叩いた。目的を達するや逃げ出す砂漠の民を、大部分の馬を失っていたセペフル軍は追撃をすることができなかった。補給のままならぬセペフル軍は進むこともかなわず、餓えと渇きに苦しんだ。苦しさに耐えかね、多数の脱走兵が出た。もっとも、脱走したからと言って安全となる訳もなく、逆に砂漠の民の餌食となるばかりであったが。
そして遂にセペフルが病に倒れたという。マシニッサはすぐさま砂漠の民に伝令を出し、自身は少数の側近と共にハループに戻った。ハループに待機していた騎兵部隊をまとめると、彼らを率いて再度出撃した。途中、召集をかけた砂漠の民が合流し、軍勢は8000に膨れ上がった。
やがて、セペフル軍の姿が見えた。元は5万を誇っていたが、今では半数が残っているかどうか、というところだ。それでもマシニッサの率いる兵の3倍ほどだが、セペフル軍は弱りきっており、実戦力としてはむしろマシニッサ隊が勝っているとすら言えた。歩兵を連れての全軍による攻撃よりも、速度を重視したのである。マシニッサは軍を2000ずつに分け、四方からの攻撃を行った。
「弓!かまえ!」
砂漠の騎兵たちが矢をつがえる。
「放てっ!」
8000本の矢が一斉にセペフル軍を襲った。物資の枯渇しているセペフル軍は射返すこともできず、次々と矢の餌食となった。
「かかれ!」
矢を射尽くしたハマト軍はセペフル軍に襲いかかった。逃げ惑う敵兵を容赦なく斬り、突き、馬蹄で踏みにじった。セペフルもまた、乱戦の中であえなく命を落とした。
戦いは一時間ほどで終わった。いや、戦いと呼べるものではなかった。一方的な殺戮、あるいは狩猟だった。エリマイス兵やオイラート兵、アレイヴァ兵は容赦なく殺され、ハカーマニシュ兵や傭兵も抵抗すれば殺された。セペフル軍は文字通り全滅した。
ハループに凱旋したマシニッサ隊は大喝采で出迎えられた。誰もがマシニッサを名将と讃え、他の将兵も勇者と呼ばれた。ナスリーン王女とハマト王シャーヤーンはマシニッサを労い、功績を賞賛した。ハループ城は勝利に沸いた。
数日後、さらに喜ばしい知らせがもたらされた。カリア、パルティア、ダルダニアの三カ国連合軍がトゥーラーンの侵略者を打ち破り、スーサを奪還したと言うのだ。
ナスリーンはシャーヤーン王自らが率いるハマト王国全軍に守られてハループを発った。途中、ラルサに立ち寄り、宰相をはじめとする幾人かの大臣や将軍に1万5000の兵をつけて後を託した。シャーヤーン王自身は5000の兵を率いてナスリーンの護衛を続けた。隊列には英雄マシニッサ将軍も加わっていた。ハマト兵たちは大王国の王女を守っていることに誇りを感じ、胸を張って行軍した。
「やっと帰れますね、王女様」
マシニッサがにやっと笑った。
「そうね…」
ナスリーンは微笑み返した。だが、その表情にはどことなく影があった。そしてそれを「砂漠の風」は見逃さなかった。
「どうしたんです?なんだか元気なさそうですが」
「いえ、そんなことは…」
マシニッサの目を見て、ナスリーンは言いかけた言葉を飲み込んだ。
「『砂漠の風』を甘く見ちゃだめね」
「そうですよ。甘く見られちゃ困ります」
「わたしね、ハマトが大好きだったの。あんなに楽しい日々はなかったわ。でも、それももうおしまい。またスーサでの日々が始まるんだわ」
ナスリーンは懐かしむような、寂しげな表情で言った。
「ハマトを気に入ってくれましたか。そりゃ嬉しい。俺もハマトが大好きでね。砂漠が俺の故郷と言ったっていいくらいですよ」
「ええ、本当にいい所ね。あなたや他のハマトの人が羨ましいわ」
「また、いつでも遊びに来てくださいよ」
「そうできたらいいのだけれどね」
ナスリーンの表情がさらに曇った。
「わたしはきっとハカーマニシュの女王になるわ。そうしたら、きっと自由には動けなくなる。悲しいけど、しょうがないことよね」
「王位、ですか。王様なんてものは、憧れるようなものじゃないんですね」
「ええ、そうよ」
「それなら」
マシニッサはナスリーンを見つめた。ナスリーンもマシニッサを見返す。
「もし王女様が本当に嫌で嫌でしょうがなくなったら、連絡してくださいよ」
「え?」
「そうすりゃ、俺がお迎えにあがります」
ナスリーンは目を見開いた。
「でも、そんなことしたら…」
「なあに、大丈夫ですよ。俺は『砂漠の風』だ。砂漠に入ってしまえば、俺を捕まえられる奴なんざいやしませんよ」
マシニッサはにっと笑った。
「ありがとう」
ナスリーンは微笑んだ。そんなことできっこない。この人はハカーマニシュ王国の恐ろしさを知らないんだ。でも、嬉しかった。王女ナスリーンとしてではなく、一人の人間としての自分を見てくれる人がいる。それはナスリーンにとって家族以外では初めての経験であり、たったそれだけのことではあったが大きな喜びを感じた。
「俺は本気ですよ」
マシニッサの言葉にナスリーンは鼓動が早くなるのを感じた。
「ええ、その時は頼むわね」
たったこれだけのやりとり。誰もが他愛もない夢、幻想だと思うだろう。だが、この時交わした会話が、二人だけではなく大陸の運命を大きく変えることとなるのだった。