過ぎ行く僕から、過ぎ去る君に
「ここではないどこかに行きたいの」
「どうして?」
「この場所にはもう飽きてしまったのよ」
彼女がそんなことを言う度に、僕は彼女を連れて生活の場所を移してきた。海が見える街がいいというので、朝昼夜を潮風と共にした。音のない夜に音楽を聞きたいというので、月だけが煌々と光を放つ白砂漠ですっかり枯れ果てた風の声を聞いた。そうかと思えば、他人の声と雑音で溢れかえる都市に自分を紛れ込ませたいというので、僕たちは人で賑わうこの場所に移り住んできたわけだ。ところが今回、彼女がつけた条件に対して、僕はすぐには相槌をうつことができなかったのだった。
「誰もいない場所に行きたいわ。あなたも要らない」
「僕のことが嫌になった?」
「そんなことはないのよ。ただね……私は自分が誰なのか忘れてしまったんだわ」
「そんなことはどうだっていいじゃないか。僕には君が必要だよ。どんなときでも一緒だった」
「そうよ、その通り。だけれどあなた、あなたったら一度も私の名前を呼んでくれないんだわ」
「それは、君が名前を教えてくれないから」
「違うわ。あなたは私の名前を知っている。それでいて知らないふりを決め込んでいるのよ」
「僕は、君の名前は知らないよ」
初めて反抗の素振りを見せる彼女に、僕は苛立たしさすら覚えていた。僕が物心ついたときには既に彼女は僕と一緒で、僕は彼女の言うがままに行動することに幸福を覚えていた。彼女が楽しいと思うことは僕にも楽しく思えたし、彼女が涙を流せば僕の頬にも自然と涙が伝ったものだ。僕は一つ考えた。彼女が人気の多い場所を選ぶのは今のこの住処が初めてで、きっと彼女は僕の周囲の人々に嫉妬心を抱いているのではないかと。彼女は僕以外の人間とは話そうとはしない。話しかけられることを極端に嫌う。彼女一人だけで外へ出ることなど一切なかった。だけれど僕は違う。僕は人と言葉を交わすのは好きだし、一人で外出することもある。
「機嫌を直してくれよ。僕が君を置いて外へ出ることが多くなったから、そのことで拗ねてるんだろ?」
「……」
「あのさ、君さえ良ければだけど、その……僕はこの先もずっと君と――」
「あなたがそれを許さないわ」
「何だって?」
「あなたは気付いているはずよ。先に手を離すのはあなた。先に背中を向けるのはあなた。私はあなたを追いかけることはできても、あなたの前に立つことはできない」
「違う! 僕は君とずっと一緒にいたいと思ったんだ! 君を大切に……いいや、この際恥ずかしさもあるものか、君を愛してる」
「私はあなたに愛された」
夕刻の近づく小さな部屋で、次第に濃く深い影が僕たちを覆っていく。いつまでもは一緒にいられない、そんなことくらいわかっていた。そもそも、一緒にいたことなんてなかったのだ。僕は彼女を過去に求め、彼女は僕を未来に求めた。永遠に同じところを巡ることのない穏やかな湖の水路の上で、僕たちはただ触れ合うことだけを楽しみに、小舟の上で長らく手を繋いでいただけだったといえるだろう。たまに交わす接吻こそが、僕たちに繋がっていることを錯覚させた。
「もう僕の意思の及ばないところまで君は行ってしまうんだね」
彼女がその言葉を最後まで聞いてくれたかどうかはわからない。夕闇に覆われる前の彼女の顔に微笑が浮かんだのを見た気がするのは、僕の自惚れだろうか。僕はね、と一人取り残された部屋で言葉を続ける。君を忘れてしまうのが本当に怖かったんだよ。在りし日の衝動、そこから生まれる感情の蠢き、ただただ新鮮に、生を実感させてくれるその一つ一つを忘れたくなんてなかった。でも、君は君の方で自立してしまったわけだ。僕は君の名前すら思い出せないよ。僕は君になんという名前を与えたんだっけ……。
いくら感性を研ぎ澄まそうとも、もう彼女の姿かたちも、息遣いも、声も、触れることはかなわない。不気味なまでに静かな鎮魂歌が頭の奥で響き渡る。一方通行のこの想いは、もはや恋と呼ぶことも許されないのだろう。
「過ぎ去る」と「過ぎ行く」の言葉のニュアンスの違いを面白く感じたので書いてみました。
「彼女」はあくまで過去の擬人化ですが、次第に思い出せなくなりつつある過去そのもの(彼女)といつまででも過去を大切にしていたいと思う心(僕)の二つの間に愛情に似た何かがあればどうだろうっていうようなお話です。