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ギヤラリー夢酔

作者: 蒼久斎

 都心にほど近い、人通りの多いある商店街の一角に、ぽつりと穴が開いたように、人気のないところがある。

 端から端まで、三歩歩けばもう壁にぶつかりそうなほどの幅しかない、うなぎというよりもミミズの寝床のような店だ。

 見上げれば、色褪せたいかにも年代物の看板には「ギヤラリー夢酔」と、これまたレトロ極まりない少し不格好なゴチック調の書体で記されている。

 店構えは、いかにも胡散臭い。

 一階部分の外壁には、苔色の釉薬うわぐすりがかかったタイルが貼られている。これがまた、一目見れば安物と断じられるような代物である。窓のガラスは、味があると形容するにはどうにも歪みがひどい。接合部分に赤錆の浮いた、優雅と呼ぶにはあと何歩も足りない曲線的なデザインの鉄格子が、その窓の野暮ったい印象に拍車をかけている。

 入口もいただけない。

 真っ黒な扉は、そこだけペンキ塗りたて、といった様子で、いかにも外壁に似合っていない。しかも中途半端な幅しか開けていないし、その上さらに悪いことには、上部のシャッターが十数センチほど、上げきられずに覗きっぱなしだ。

 たしかに「OPEN」の札が掛かっているのに、今にもこれから閉めるところで、その札はひっくり返し忘れただけなんですよ、という風情である。

 二階部分の外装も、タイルの釉薬がカーキ色に変わっただけで、大差ない。鉄格子の色は赤茶色になっているが、その奥の窓ガラスは分厚い金網ガラスで実に陰気くさい。しかも、暗幕のごときカーテンが引きっぱなしである。

 うらぶれた雰囲気にとどめを刺すのは、店の前の路上に置かれたアロエの鉢である。粉をふくほど劣化したプラスチック製の、しかも余裕で一抱えできそうなささやかな大きさの植木鉢。さらに、中に植わっているアロエは、葉先があちこち切り取られて、薄茶色に傷んでいる。いっそ哀愁すら漂うほどである。

 もう店全体から、商売する気のなさが漂いまくっている。むしろ今夜中にも店を畳んで夜逃げするんです、と言われた方が納得できそうなほどだ。

 しかし男の目は、その店に釘付けであった。

 まるで磁石に吸い寄せられているように、視線を逸らすことができない。

 ふらふらと、彼は店に近づいていく。

 そうして、そっと、いくぶん身幅には足りていなかった扉を押し開けて、中に一歩を踏み入れた。


 薄暗い。

 そう思ったのも束の間、暖かな色の光があちこちに浮かぶ。壁のブラケットの、天井のシャンデリアの、ろうそく型の電球に、オレンジ色の光が点った。

「こんにちは」

 いつからそこにいたのか。

 するりと姿を現したのは、白いカッターシャツに黒いロング丈のセミフレア・スカートを穿いた女だった。グラスコードに繋がれた眼鏡が、ペンダントのようにゆらゆらと揺れている。先ほど床屋で切ったばかりのように、ばっさりと毛先の揃ったセミロングの黒髪が、少し目を引いた。だがその顔の方は、地味を極めたように特徴がなく、不細工でもないが美人とも到底思えない。それこそ三歩歩けば、詳細も何も思い出せなくなりそうだ。あえて言うならば、奇怪なほどの印象の薄さこそが特徴であろう。

「……こんにちは」

 何とか返事をすると、女は柔らかく微笑んだ。その背後で、シュッ、と薬缶が沸騰を告げる音がした。

「お茶を淹れますね」

 先に二階に上がっていてくださいな、と、女は狭い階段を示す。

 男は、なんとなく頷いて、階段を上った。

 二階はワンフロアぶち抜きになっていた。もっとも、それでも狭い。

 ただでさえ狭い部屋を、さらに狭く感じさせるのが、来客用のイスとテーブルの存在感だった。

 物置小屋に忘れ去られていた、といおうか、あるいは、粗大ごみ置き場に残されていたのを持ってきた、とでもいうべきか。モノは悪くないが、あまりに不釣り合いである。

 他には何もないフロアの中で、年季の入った金華山張りのソファーは、異様な存在感を放っていた。その色褪せかけた赤い布の椅子に、妙に呼ばれているような気がして、手を触れる。

 コツコツと足音がして、女が上がってきた。右手に茶器を満載した盆をのせ、左手に薬缶をぶら下げて。

「どうぞ、お座りください」

 促されるまま、男は手を触れていた椅子に腰かけた。

 女はテーブルの上に盆を乗せると、まず薬缶を三脚の上に置いた。その三脚の下にあったのは、小学校の理科の実験でおなじみの、アルコールランプである。女はそれを少し手前に引くと、どこからともなく取り出したマッチを擦って、火をつけた。

 軽く手首を振って、マッチの火を消す。男は少し焦げ臭いにおいに、懐かしさを感じて少し笑う。

 女はアルコールランプを押し戻し、流れるような手つきで急須の蓋を開け、薬缶を取り上げて、急須に湯を注いだ。小さな急須はすぐに溢れるが、構うことなく、撫でるように優しく蓋をする。溢れた湯は、急須の下に敷かれた茣蓙のようなものをすり抜け、八角形の台の中に溜まっていく。急須を取り上げ、女はその中の湯を、ミルクジャグのような陶器の器に注ぎいれる。それから、さらに小さな二つの盃に。

 空っぽになった急須を一度置くと、再び蓋を取り、今度は丸薬のような茶葉を、ざらざらとその中へ落とす。三脚から再び薬缶を手に取り、急須の中に湯を注ぎいれる。撫でるように優しく蓋をすると、その縁と注ぎ口からわずかに中身がこぼれだす。それは茶色に色づいている。

 烏龍茶の香りが、ふわりと男の鼻腔をくすぐった。

 女は、しばらく待つと、急須の中の茶を、惜しげもなく大きな鉢のような器の中に捨てた。

 驚く男に、女は新しい湯を急須の中に注ぎ入れながら、言った。

「一煎目は、茶葉についた汚れを洗い流すためのものです。また、濃すぎて飲むのに向きません」

 そう言いながら、女は急須に二煎目の湯を注ぐ。抽出を待つ間に、女はミルクジャグのような例の器と、二つの盃とに入れっぱなしにしていた湯を、鉢の中に捨てた。

 急須が取り上げられ、その中身がそっくり、ジャグの中に注ぎいれられた。そしてそこから、二つの盃の中に茶が注がれる。

「どうぞ」

「いただきます」

 差し出された盃を受け取り、男はまず匂いを嗅ぐ。烏龍茶。だが、眼前の茶は男の知っている烏龍茶とは異なり、はるかに香しい。

 口をつける。柔らかな温かさが心地よい。

「……美味しい」

 自然と、そんな感想がこぼれた。女は少し微笑む。

「四煎、五煎と楽しめますから、お好きなだけお飲みくださいな」

 茶を味わいながら、男は狭い部屋の中のあちこちに目を走らせた。画廊というが、絵が見当たらない。ただ、小人でも通るのかとしか思えないような、小さな扉がたくさん壁についている。

 女は静かに微笑んで、芳しくなかったのでしょう、と言った。


 言葉の意味を量りかねて、男はわずかに眉をひそめる。

 女は、空になった盃を、手酌で再び満たしながら、何でもないことのように言う。

「勤め人が、スーツを着たまま、こんな平日の昼間に、この商店街にやってきた。病院のにおいを漂わせ、書類鞄を恐々と抱えて、何かに怯えるように」

 悪い病気が見つかったのでしょう。それも治る保証のない病気。鞄の中には診断結果が入ってる。けれども、あなたはそれを家族には隠していらっしゃる。

 女の言葉に、男は驚きに目を見開いた。

「なぜ、分かるんです?」

 女は、なぜ分からないんです? とばかりに、小首を傾げた。

「今日も仕事に行くふりをして、病院に行かれたんでしょう?」

「……そのとおりです」

 絞り出すようなその声の色を、女はじっと見た。

「この店にいらっしゃる方々は、皆さん、そういう事情がおありなんです」

 淡々と、しかし奇妙なことを女は言う。

「なので随分色々を見ました。私はひとよりも、色々が分かるようです」

 先ほどの問いの答えだろうか、と、男は思う。

 変な答えだが、有無を言わせない雰囲気がある。

 女は、三煎目の烏龍茶を用意しながら、少しの間、黙った。

 男は、何かを言いあぐねているような女の顔を、ただじっと見つめた。

 女は小さく息を吐いて、それから「このギャラリーは」と言った。

「このギャラリーは、お客様の『イコン』をつくります。ご存じですか、『イコン』を?」

「……ギリシャ正教の、聖母やキリストや、聖人たちの絵、でしたっけ?」

 女は、はい、と頷いた。

「あれらの『イコン』には、一つの共通点があります」

「それは何ですか?」

 女は、少しこそばゆそうに眉尻を下げながら、答えた。

「『奇跡を起こしていること』です。たとえば『ウラディーミルの聖母』は、絵から涙が溢れてきた、という奇跡が語り伝えられています」

 男は少し考えて、それから尋ねてみた。

「この店でつくる『イコン』も、そういった奇跡を起こすのですか?」

 女は、ますます困ったように微笑んだ。

「奇跡かどうかは、それに遭遇した人が判断することです。しかし、変な店なのは確かですね」

 新しい茶を盃に注ぎながら、女は言葉を続ける。

「この店は、ご依頼人が『確かに生きて存在した』という証の、肖像画をおつくりします。イコンとは、元来肖像ですからね。そしてそこに、時間をこえてでも伝えたい思いを込めるのです」

「それは、本当にできることなら、素晴らしい、ですね」

 男が、どこか諦めたような口調で言うと、女は壁の扉の一つを開いた。

「必要な時に、必要なことを、必要な相手に伝えるために描かれた『イコン』は、その相手がもっとも必要とする時に、その人を呼ぶそうです」

 女は、扉の向こうから取り出した、古びた分厚い台帳をテーブルに置く。

「あるかもしれませんね。お名前は?」

 男が名前を名乗ると、女はさらさらと台帳の頁を繰り、そして一所を指し示した。

「お客様宛の『イコン』があります」

 その差し出し主の名前に、男は目を瞠った。

「……祖父です」

「なるほど、おじいさま」

「しかし、僕が生まれてまもなく亡くなっていて、会った記憶はないのです」

 そう言ってから、男は「あ」と言葉を詰まらせた。女は静かに笑った。

「だからこそ、おじいさまは『イコン』を残されたのかもしれませんよ」

 ご覧になりますか、という女の言葉に、男は頷いた。

 女は一つ、頷き返すと、また別の扉を開いた。

 取り出された「イコン」を見た途端、写真でしか知らない、もうほとんど忘れていた祖父の顔が、なぜか鮮やかに蘇った。

 取り出されたのは写真のように精緻な肖像画ではなかった。むしろ、規格パーツを組み合わせたような、デフォルメされた似顔絵のようなものだ。

 それなのに、とても懐かしかった。

 女は黙って「イコン」を、男の手に渡した。

 両手のひらを、器のように合わせて、小さなそれを、そっとたなごころに受ける。

 小さな金色の額縁の中で、祖父が微笑んだように見えた。




 祖父は森にいた。

 地平線の果てまでも続く、針葉樹の大森林。

 ソ連兵が叫ぶ。

 ぼろきれのような服には、蚤や虱や南京虫。

 限界を超えた冷気は、寒さよりも先に痛みを、痛みよりも麻痺を連れてくる。

 体がはしっこから消えていく。

 意識の端に肉がぶら下がっていて、それを動くともなしに動かしている。

 いや、違う。

 ぶら下がっているのは、肉などという上等なモノではない。

 骨と、筋と、黒ずんだ皮。

 それが、意思に伴ってふらふらと動く。

 飢えた腹に、乾燥しきった酸い黒パンと、具のほとんどないボルシチを入れ。

 真っ白に凍る冬を、どこまでも暗い夜の世界を、祖父は歩いている。

 一人二人と、友が死ぬ。

 焼いて弔う。戒名を書く。

 十人、百人と、人が死ぬ。

 寒さのあまりに腐りもしない屍を、命じられるままに穴を掘り、そして中に投げ込んだ。

 誰と誰とが死んだかを、記録しなければ忘れてしまう。

 千人、五千人が横たわる。

 誰が生きていて、誰が死んでしまったのか、確かめることももう出来ない。

 大地は果てまで荒涼と、白と藍と黒しかない。

 丸太小屋から叫ぶ声。

 怒声も罵声もきわまれば、嗚咽も悲鳴も出せぬのだ。

 チフスに冒され、働けなくなれば、病院というのは名ばかりの、医師がいるだけの場所へ送られる。回復の見込みがないと判断されれば、それきり治療はもうされない。虜囚の命は紙切れより軽い。

 白の荒野を、夜の森を、祖父は黙って耐え抜いた。

 足の指がもう何本もない。

 意識の四隅で骨が揺れる。

 死神はもうすぐそこだ。

「嗚呼!」

 唐突に、祖父の叫びがこだました。

 零下三十五度の夜、祖父は滂沱と涙を流す。

 熱い雫が一瞬で、氷に変じるその夜に、祖父は祖母の名を呼んでいた。

 全てが凍るシベリアで、ただ祖父の心は熱を増す。

「命! いのち!」

 祖父は叫ぶ。喉を裂くような冷気の中で。

「今ここで俺が死んだなら、いったい誰が確かめるだろう! 名前だけがただ残るのか! 名簿にあるこの俺の名だけが! 否、俺は消えるのだ永久に! 存在も名も果てた骸になろう! 誰が俺を覚えていてくれるだろう! お前が俺を忘れたら、俺には欠片すら残らない!」

 肺を凍らせる寒気の夜に、祖父の叫びが透きとおる。

「俺は確かに生きたのだ! そして今はまだ、生きているのだ!」




 男は静かに目を開けた。いつの間にかソファーで眠っていたようだ。

「お目覚めですか」

 女の声が聞こえてきて、それから慌てて腕時計を確認した。時間は半時間も経っていない。

「五煎目ですが、お茶をどうぞ」

 新しい茶が盃に注がれる。

 ふうわり、優しい香りがした。

 それに口をつけると、ひとりでに言葉がこぼれ出た。

「祖父は、シベリアにいたのですね」

 ええ、と女は頷いた。

「それから何とか帰還されて、そうして、お孫さんの誕生を見届けて亡くなられました」

 このイコンは、ご病気が判明した際に依頼されたものです。

 男は、女の「必要な時に、必要なことを、必要な相手に伝えるために描かれた『イコン』は、その相手がもっとも必要とする時に、その人を呼ぶ」という言葉が、すとんと胸に落ちたような気がした。

(ああ、そうだったのか)

 祖父もまた絶望の中にいた。

 自分が垣間見た以上に過酷な絶望の世界を、生きたいという意思とともに渡りきった。

(俺は生きたのだ!)

 祖父の叫びが脳裏に蘇る。

(ああ、そうだ。そして俺はまだ生きているのだ)

 祖父は生きたのだ。

 生きて刻んだ命の証が、今この手の中にずっしりと重みを持つ。

「そうですか……」

 男は静かに微笑んだ。深く、柔らかな慈愛に満ちた、穏やかな笑みをそっと浮かべた。

「祖父は、生き抜いたのですね」

 イコンを優しく胸に抱く。温かさが伝わってくる。

 男はそっと目を閉じた。

 熱い雫がこぼれ落ち、頬を濡らす。ここでは涙は凍らない。

「私の余命は、一年だそうです」

 静かに男は医師の宣告を思い出した。

 あと一年。

 この一年を、自分はいったいどのように生きるのだろうか。

(ああ、俺の命はまだ、まだ終わっていないのだ)

 生きよう。祖父のように、生き抜こう。

「……この『イコン』は、持って帰ることができますか?」

 女は笑った。

「画廊は絵を売るところです。つくるのと渡すのは別ですよ」

「なら、お代は?」

「5円です」

「まさか、嘘でしょう?」

「嘘じゃありません。昔の5円は大金ですよ」

 でも今の価値では、と言う男に、女は人差し指を立てて唇にあて、いたずらっぽく片目を閉じた。

「この店が、儲けを追う店に見えますか?」


 男は何かを言おうとして、それから決まり悪そうに口を閉じた。

 たしかに、この店の様子は、景気が良さそうには見えない。全然、見えない。むしろ「景気が悪そう」を通り越してすらいる。

 うふふ、と女は笑う。

「携帯電話、鳴っていますよ」

 言われて男は、鞄の中に入れた携帯電話が振動していることに気がついた。

「もしもし?」

《あ、お父さん? 私、私! 今日、病院に行ったでしょう?》

 男は少し、目を泳がせた。

《それでね、良いお知らせがあるの!》

 男は、今度は目を瞬かせた。

「良いお知らせ?」

《うん! あのね、お父さん……私、赤ちゃんができたの!》

 男は、電話を取り落としそうになった。

「……そう、か。そうか!」

《お祝いしてくれる?》

「するとも! 本当におめでとう!」

《ありがとう、お父さん。帰ってくるの、待ってるからね!》

 帰ってくるの、待ってるから。

 その言葉だけで、涙が溢れ出そうだった。

 帰りを待ってくれる人がいるというのは、なんと幸せなことなのだろう!

 そして、新しい家族が増えるというのは、なんと嬉しいことなのだろう!

「良いお電話だったようですね」

 女の声に、「はい」と答えて振り返る。男は笑っている。涙を流しながら。

「娘に、子どもができたそうです」

 それはそれは、と、女は頷く。

「おめでとうございます」

「ありがとうございます」

 男は溢れんばかりの笑顔で答え、そして財布を取りだした。

「本当に、5円で良いのですか?」

 真面目な顔に戻って問い直す男に、女は少し笑って、「5円です」と繰り返した。

 男は5円玉を取り出し、それから再び女の顔を見た。

「……『イコン』をつくるようにお願いする場合は、おいくらですか?」

 女は、静かに、いわくありげに、微笑んだ。

「『イコン』をつくられますか?」

「ええ……孫の顔を見るまでは生き抜けても、孫の成人式までは無理でしょうから」

 余命一年の男は頷く。

 今日、この祖父の「イコン」が自分に与えてくれたものを、自分も自分の孫に注ぎたい。生きてきたという命の証を、思いごと刻み込んでくれる「イコン」を残したい。

「お願いします」

 万感の思いを込めて、頭を下げる。

「そのお気持ち、確かに受け取らせていただきました」

 驚いて顔を上げた男に向かって、女は柔らかに微笑んだ。

「お代はお気持ちで結構です」

「いや、それは! それでは申し訳が!」

 そういう男に、女は声を立てて、とても面白そうに笑った。

「おじいさまにそっくりでらっしゃるのね」

 そう言って、まだ収まらない笑いに涙まで見せながら、彼女はあの台帳から、これもまた古びた、しわくちゃの紙切れを取り出した。随分昔の、かなり質の悪い紙だ。

「これ、おじいさまからあなたへの伝言です。もし、孫もこの店で『イコン』を作りたいと言いだしたなら、きっとこれを渡してくれと、そう仰っていました」

 受け取った男は、内容を一読し、それから笑い出した。とても朗らかに。

 文面にはこうあった。

《モシオ前ガ、私ト同ジ事ヲ思フナラバ、自分ノ今持ツテヰル金ヲ渡シテシマヘ》

 そしてこう続いていた。

《オ前ノ命ノ生マレ来ル日ヲ、楽シミニ待ツ》

 笑って、泣いて、男は「イコン」を抱きしめた。



 小銭まですっからかんにした財布を持って、男は画廊を後にする。

 口笛を吹き、足取り軽やかに。

 胸の内ポケットの中で、祖父が微笑んでいる。

 いつか自分も、孫の内ポケットで微笑むのだろう。

「嗚呼!」

 自分は今、生きている!




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