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バスジャックは突然に

作者: はり

 僕が人生で初めてバスジャックというものに遭遇したのは、高校三年生の冬、十八歳の誕生日を迎える前日のことだ。

 人も車もほとんどいない夜十一時の大通り。先程までいた予備校で、文字のゴミ箱みたいな参考書をひたすら読んでいたせいなのか鈍い頭痛を覚えつつ、重い足をずりずりと引きずるようにして歩く。

ぼんやりと見上げた夜空には月も星も無くて、代わりにあるのは今にも雪が降りそうな真っ黒で重たい雲。吐く息が真っ白なことに気づいて、あーもう冬かーとかあたりまえなことを思いながら首に巻いたマフラーに顔をうずめる。さむい。

半分以上魂の抜けた状態でふらふら歩く僕の横を一台のバスが追い越した。方向幕はあまり見慣れない妖しい赤色に染まっていて、「あ」つまり最終バスである。

普段なら自分の先を行くバスを追いかけるなんて無謀なことはしないんだけど、さすがに最終に乗り過ごすわけにもいかない。この寒さの中四十分間歩いて家に帰る元気なんて残ってないし、だから重い足を無理矢理動かしてバスを追う。と、親切にも数メートル先のバス停で停車して僕を待っていてくれた。感謝しつつバスに乗る。料金を払って後方の座席へ。

人の良さそうな初老の運転手以外、バスの中には誰もいなかった。暖房のきいた車内はぼんやりと暖かくて、冷え切った体にじわじわ染み込んでくる。

車窓に軽く頭をつけて、流れて行く外の景色を、ぼーっと眺める。


 一人の女の子がバスに乗ってきたのは、ちょうど僕が心地の良い静寂と緩やかな揺れに眠気を誘われ、うつらうつらと夢の世界に入り込もうとしていたときのことである。

「あのう、このバスって駅前の方行きますか」

 静かだった車内に突然響く澄んだ声に少し驚いて薄らと目を開けると、今し方客として乗ってきたらしい女の子がなにやら運転手に話しかけていた。眠さでかすみ、ぼやけた僕の視界にうつったその女の子の顔は、目深にかぶった帽子のせいで伺えない。なにやら大きなリュックを背負っていて、うーん、こんな時間に旅行でも行くんだろうか。

「行きますよ。あと4つ先です」

「そうですか」

 帽子から流れるボブの髪が肩口で揺れる。真っ黒のトレンチコートの裾から少しだけのぞくのは白いスカートのフリル、最近の流行なのかなんなのかなぜか伝線しまくったボルドーのタイツを履いた彼女は、背負っていたリュックサックをその場におろしてごそごそと中身を漁りはじめる。「あれー」お目当てのものがなかなか見つからないのか、膝をついてごそごそ。「あーれー」まだ見つからないらしい、ついには座り込んで漁り始めた。バス前方の運賃箱の横に座り込んだまま一向に席に着こうとしない彼女を待って、バスも走りだせずにいる。運転手も困っている。たぶん。うしろに座っている僕には彼の顔が見えないからわからないけど困っている。たぶん。気にせずリュックを漁り続ける彼女。ごそごそ。財布でも探してるんだろうか、と思いながら睡魔に誘惑されつつぼんやり見ていると、しばらくして「あ、あった」ついに見つけたらしい。彼女がリュックから取り出したのは、白い布に巻かれた細い棒のようなものだった。くるくるくると巻き付いた布を取って、中から姿を現したのは普段あまり見かけないようなきらりと光一つのナイフ。あーあんな厳ついナイフなら何でも刺したり切ったりできそうだなーなんて夢うつつに思、って、「えっ」は? え、ナイフ、って、どういうこと?

「死にたくなかったらあたしの言うこと聞いてくれます?」

 挑発的に言って、運転手にナイフを突きつける彼女。弱い声で返事する運転手。どうすればいいのかわからないままその光景をただ呆然と見つめる僕。

 ……あっあのナイフ本物なんだ、と悟った瞬間一気に目が覚める。浮遊していた意識が覚醒し、背筋につっと伝うのは冷たい汗。え、なんであの子運転手にナイフ向けてんの? 全く状況が飲み込めないし飲み込むことを脳が拒否しているせいでなにが今僕の目の前で繰り広げられているのかさっぱり理解できないんだけど、あ、そうかこれもしかして、いやもしかしなくても、あれこれって俗に言うバスジャックってやつなんじゃ。

 バスジャック。

 こんな時間、こんな片田舎の、客を一人しか乗せていない最終バスで。

 え、どうしよう。

「んじゃ、そこ曲がって真っ直ぐ進んで」

 運転手に指示を飛ばす彼女。ナイフの刃先が彼の首元に向かう。僕がそれを突きつけられているわけでもないのに、なぜか首筋辺りがぞわりとした。

 うーん、いや、本当どうしよう。

警察に連絡するわけでもなく、逃げるわけでもなく、運転手を助けるわけでも、女の子からナイフを奪いにいくわけでもなく、ああこういう状況でなにもできずに呆然としている僕って案外ヘタレなんだなあ。あー早く家帰って寝たい。

 と、ふと彼女はおもむろにかぶっていた帽子を脱いで、バスの中をぐるりと見渡した。そこでようやく、たったひとりの乗客である僕の姿をとらえ、僕の存在を認識すると、にやりと自身の口端を釣り上げて、楽しげに笑う。

 帽子のせいで見えていなかった彼女の顔が、そこでやっと、「……あ」

 思わず、口をついて漏れる声。完全には逃避し切れぬまま無理矢理引き戻された現実に、再び混乱を来す思考。

 ――運転手にナイフを突きつけてあんなに余裕たっぷりに笑う彼女のことを、僕はよく知っている。

 なぜなら、彼女は。

「な、んで」

 なぜなら彼女は、僕の高校の同級生。

 同じクラスで同じ部活。

 そして――

「……なに、やってんの、希凛」

 九條希凛。

 僕の、恋人である。



「なにやってるもなにもどこからどう見たってバスジャックしてるんでしょうが。えっもうなに、むしろ逆に聞くけどあんたにはこの状況がバスジャック以外のなにに見えてんの?」

「なんでそんな偉そうに開き直ってんのか知らないけどじゃあどうしてバスジャックなんて」

「人に聞く前にまず自分で考えたら」

「そんなんいくら考えたところで答えなんて見つからねえよ」

「えーあんたあたしの彼氏のくせにそんなのもわかんないのー? あっ運転手さんそこ右ね」

 どうやら希凛の脳内では彼氏=エスパーみたいな等式が成り立っているらしい。自分の彼女が最終バスでバスジャックを起こす理由なんていくら彼氏であってもわからないしまずわかりたくない。

 ちこう寄りなさい、と手招きされて現在僕はバスジャック犯兼同級生兼彼女である九條希凛の横に立っている。バスの揺れに負けないように吊革を掴んで、もやもやとたまったなにかをため息として外に吐き出す。

「たまたま僕が乗ったバスにたまたま希凛が乗ってくるなんてまたずいぶんな偶然というか……」

「まっさかー。これが偶然だったらあたしと伊織どんだけぶっとい赤い糸でつながってんのよ」

「え、じゃあ希凛は僕がこのバスに乗ってたこと知っててここに乗り込んでこんな悪趣味なことしてんの」

「ったりめーでしょうが。あ、そこ二つ目の角左ね」

「……もしかしてずっと僕のあとつけてたわけ?」

「いやあさすがのあたしもそこまで悪趣味なことしないけど」

 そう言うと、希凛は再びリュックをあけ、ごそごそと中身を漁り出す。漁りながらもナイフの刃先はぶれることなく運転手の首もとに向いていて、そこらへんがなんだかすごくプロっぽい。バスジャックのプロなんていたらたまったもんじゃないけど。

「あーほら、これ」

 よっこいしょ、と取り出したのは、黒くて四角い妙な機械。

「なにそれ」

「発信機」

「…………」

 僕、絶句。

「発信機」

 なぜか繰り返す希凛。

「……え、いや、は?」

 無理矢理声を絞る僕。

「発信機、イン伊織の鞄」

 座席に放置したままの僕の鞄をけろっとした顔で指さす希凛。

「…………」

 僕、再び絶句。

 ぜんぜん気づかなかった、というかいつ、というかいつから、というかいつの間に。

「今時彼氏の行動把握なんて彼女としての初歩の初歩じゃんなに今更驚いてんの」

 呆れたように言ってはーあとわざとらしくため息をつく。

 どうやら彼氏に発信機つけて行動を把握しておくことは彼女としての初歩の初歩らしいですよ世のお嬢さん方。まったく油断も隙もならないなどこまで悪趣味なんだこの女。やってることほとんどストーカーと同じじゃないか。僕のプライバシーを返せ。

「ま、そういうわけで伊織がこのバスにいることを知っててあたしはジャックするバスをこれにしようと決めたわけ。理解?」

「いろいろ突っ込みたいところはあるけどとりあえずは理解……っていうかちょっと待てこら希凛それしまわないの渡しなさい」

 いつどこに行ったかをすべて把握されているなんてたまったもんじゃない。発信機をリュックの中に戻そうとする希凛の細腕をつかんで、回収を試みる。

「は? なんで」

 訝しむようにして眉をひそめ、僕の顔をのぞき込んでくる希凛。片手にナイフがあるせいかなんとなく殺気を感じる。怖い。

「あたしに行動把握されて困るような何かやましいことでもあんの?」

「ないですけど僕のプライバシーどうしてくれるんですか」

「今更あんたと伊織の間にプライバシーなんて必要?」

「必要だよ当たり前だろ誰との間にだって必要なもの」「これ」

 僕の言葉を半ば遮るようにして、希凛が運転手にずっと向けていたナイフの刃先を、僕に向ける。

「これとあんたの十二指腸ドッキングしたくないならおとなしくしてて」

「……おとなしくしてます」

「あー運転手さんそこの信号の手前で曲がってー」

 九條希凛。十七歳。高校三年生。どっかのでっかい会社の社長令嬢。つまり超お金持ちのお嬢様。高一の頃からもう三年付き合っている、僕の彼女。

 九條希凛は奇想天外という言葉を具現化した存在である。僕は、この言葉は彼女のためにある言葉だと思っているし、現に彼女の起こす行動は奇想天外以外の何者でもない。

 たとえば。

 たとえば真冬にビキニで登校したり(僕が若干目のやり場に困りながら理由を尋ねると、マイナスとマイナスをかけたらプラスになるんだから寒いときに寒い格好してればそのうちあったかくなるはずでしょ、とすました顔で答えられた。ちなみにそのあと風邪を引いて寝込むこと三日間)、屋上から飛び降りたり(僕が慌てて救急車を呼んでから理由を尋ねると、あたしなら絶対に飛べると思ったんだもん、と額からだらだら血を流しながら答えられた。ちなみに足を骨折して全治2週間)、一晩かけて校庭に巨大な落とし穴を作ったり(なぜか掘るのを手伝わされた僕がきらきら輝く朝陽の中で疲労にまみれながら理由を尋ねると、気分、とさっぱり答えられた。ちなみに帰り際、睡魔に教われふらついた希凛自ら穴に落ちた)、体育倉庫に一週間住んだり(もうなんかいろいろめんどくさくなって理由を尋ねなかったらなんで聞いてこないの、となぜか僕が殴られた。わけがわからない)。

 そういう奇行をおかすのだって、出会ったはじめの頃は、九條さんは世間知らずのお嬢様だから少し突飛な行動をしてしまうのもしかたないしそういうとこがまた愛嬌あって可愛らしいわけだしそれにこれからどんどん高校という外の世界に触れていくうちにまともな人間に成長してくれるかもしれない、とかゆるいことを思っていた。僕がまだ九條希凛という少女を何一つ理解していない頃の、今思えば本当にどこまでも甘い考えである。まあ僕もそれなりに若かったのだ。

 結局、希凛の行動はよくなるどころか日に日に度を超していき、愛嬌があるだとか可愛らしいだとか暢気なことを言ってられるようなものではすっかりなくなって、ついにはもう世間知らずなんていう簡単な言葉で済ませられないような行動を起こす”まともな人間”とは正反対の娘に成長してしまった。

「ねえ」

 フロントガラスをぼーっと見つめながら、希凛がぽつりと呟くようにして僕に声をかける。

「なに」

「なんであたしが伊織を好きになったか知ってる?」

「は!?」

 思わず頓狂な声をあげる。なにいきなり突然今更こんなところでそんな話を振ってくるんだこいつは。このバスジャック犯には現在進行形でバスをジャックしているっていう自覚はないんだろうか。

「あたしが伊織を好きになった理由、そういえば一度も言ったことなかったなあって思い立って」

「なんで今この状況でそんなこと思い立つんだよ……」

そういう話は二人きりの時にしてほしいんだけど、いや二人きりの時でもちょっと恥ずかしいから勘弁というか、ほらなんか運転手さんもちょっと気まずそうじゃないかかわいそうに。何の罪も無いのに運転しているバスをジャックされてナイフを突き付けられて挙句の果てにバスジャック犯と人質であるはずの乗客との惚気話を聞かされてああもうほんとこの人かわいそうだなあ。

「初めて会った時、伊織はあたしの名前聞いても何も反応しなかったから」

「いやだから希凛その話は、って、え?」そんな理由だったの?

「あたしの名前を初めて聞いた人はみんなびっくりした顔するのに」

 希凛。確かに滅多に聞かない珍しい名前ではあるけれど。

 がたっとバスが揺れた拍子、希凛の髪も小さく揺れる。ふわ、と甘いシャンプーの香り。

「変わった名前ですね、っていう平凡な感想の裏には、名前の割には背が低いんですねとかそういう意味が含まれてるんだってあたし知ってる」

「いやただ普通に変わった名前だなって思っただけだと思うけど……」

「ご実家はアフリカですかとか生まれた後すぐ立ち上がれたんですかとか普段使うマフラーは百メートルくらいあるんでしょうねとかライオンに食べられないなんてうらやましいですとか二十分で睡眠足りるなら随分一日が長く感じられるんでしょうねとか、そういう意味が含まれてるんだってあたし知ってる」

「被害妄想ひでえ」

 ていうか希凛はキリンのことなんでそんなによく知ってるんだ。へーそうなんだ、キリンって睡眠二十分しかとらないんだ。すごいなー。あーねむい。

「でも、伊織はなにも言わなかったから。なにも言わないどころかなにも考えてなさそうな、脳みそ空っぽそうな、おつむよわそうな顔してたから」

「えっあれ、もしかして僕今馬鹿にされてる?」

「だからちょっと気になって、それがはじまり」

 何かを思い出しているのか、軽く目をつぶる希凛。ナイフが危ない。

 うーん。

高校一年の四月、隣の席でつまらなさそうにぼんやり窓の外を眺めていた希凛に、初めて名前を聞いた時のこと。当時持った感想は、正直なところあまりはっきりとは覚えていない。

「……まあ確かに変わってる名前だなとは思ったんだろうけど、べつにだからどうってこともないじゃん」

 そんな気にするほどのことでもないと思うけど、まあ本人にしてみたら嫌なんだろうなあ。希凛って綺麗な名前なのに。恥ずかしいから本人には言わないけど。

「あたしあんたのそういうとこ好きよ」

「えっ」

 突然の言葉にどきっとして希凛を見ると、フロントガラスから目を離し、僕を見あげてにやにや笑う。わー弄ばれてるな僕―。

「……まったく」

 気まずそうな運転手のことも僕の心臓のことも、もっと考えてやってほしい。

「今日は一緒にバスジャックできて良かった」

「おいちょっと待て」

 希凛の言葉を慌てて止めに入ると、彼女は不服そうに唇を尖らせる。

「なによ」

「え、なに僕まで共犯みたいになってんの希凛が勝手にやってることじゃん」

「あたしとあんたは二人で一つでしょ!」

「そんなきらきら輝く笑顔で言われても!」

「あ、運転手さんその先左曲がってー」

 軽快に指示を飛ばす希凛はなんだか本当に楽しそうだ。自分のしている事の重大さをまったく理解していないように見える。

「……警察の御用になったら、ほら学校とか、あと家とかどうすんの」

「え?」

 きょとん、と首を傾げる希凛。それから思い出したようにああそういえばそうだったね、と欠伸する。

「大丈夫絶対捕まらないから」

 なんの根拠があってそんな大言壮語しているのやら。このバスの乗客が僕一人だったからまだよかったものの、解放後にはまずこの運転手が黙っちゃいないだろう。バスジャックがどのくらい罪の重いものなのか僕は知らないけど、ナイフがでてきちゃった時点でもう銃刀法違反だとか脅迫罪だとかいろいろ引っかかっているわけで。どうするつもりでいるんだろう希凛は。というかなんでそんな危機感がないんだ。いや危機感持ってる希凛なんてもうそれは希凛じゃないんだけど、まあそれはいいとしてこれからどうしたもんかとぐだぐだ考えていると、希凛はふっ、とどこか自嘲気味に唇を歪ませる。

「だいたいあんたさー、あたしがそんな犯罪なんてくだらないことする女だとでも思ってるの?」

「いや現在進行形でしてますよねお姉さん」

 僕がいうと、希凛は驚いたように色の薄い双眸をほんの少し見開いて、それから「ふっふっふ」不気味に笑う。

「ふふ、ふっふふ、ふふふ」

「なんだよ気持ち悪い」

「いい加減気づいたかと思ったのに、あららー完全にだまされちゃって、まー」

 やだもー、とおばさんみたいにばっしばっしと僕の背中を叩く。地味に痛い。希凛はなんだかすっごい楽しそうに笑いながら、

「中村の演技がうまいんだよ」

 ナイフを突きつけられたままずっと黙って運転していた運転手に話しかける。

「え、ちょっと」なんでいきなりそんなフレンドリーに、というか、中村? って、誰?

「お嬢様にはかないません」

 突然話しかけられて、それでも大して驚いた様子も無い運転手の控えめで穏やかな声。お嬢様って、いや確かに希凛はお嬢様だけど、えっ、なんでそんなふつうに会話しちゃってるんだこの二人。完全に事態を飲み込めないでいる僕を置き去りにして、希凛はへへ、とどこか満足げに笑う。

「えーそうかなーやっぱあたし上手だった? ふっふー、だよねーやっぱそうだよねあたしうまかったよねー、ちょっとそろそろ演劇界にも手を出してこの溢れ出る才能を世界に」「希凛」「うるさいなちょっと黙ってなさいよ今はあたしが話す番」「九條さん」「なに」「希凛ちゃん」「だからなにってば」「どういうことか一からはっきり全部包み隠さず説明して」「つまりドッキリだよね」「ごめんぜんぜんなに言ってんだかわかんない」

 あーなんか頭くらくらしてきた。希凛はうーん、と唸ると運転手の首からナイフをはなす。コートのポケットからさらしを取り出し、なれた手つきでくるくると巻いていく。

「んっとー、一からっていわれてもなにが一だかわかんないから話しようがないんだけどー、あ、彼うちの専属ドライバーの中村ね」

「どうも、九條家専属ドライバーの中村です」

 ようやくナイフから解放された運転手は、緊張からも解放され少しリラックスしているように見えた。彼は前方から目線をいっさいそらさずに、器用にハンドルを切りながら、柔らかな笑顔で自身の名前を名乗る。

「……はあ、どうも」え、バスの運転手じゃないの? なんで九條家専属のドライバーが最終バス運転してんの?

「まずこれ最終バスじゃないし」

「は?」

「貸し切ったんだよ。だからこのバスには乗客がいないの」

「か、貸し切った?」

「最終バスを装ってあんたに乗ってもらうためだけに借りたバスなんだからね」

「…………」

 うーんよくわからない。よくわからないので返事をしないでいると、つまりー、と希凛が続ける。

「つまり、あたしは正確にはバスジャックしてたわけじゃなくて、伊織をだますために中村に協力しもらって一芝居打ったってだけ。だから警察にも捕まらないの」

「はあ……」

 あまりの急展開っぷりに未だ事態を飲み込めない僕。

じゃあなんだ、このバスは最初から僕一人を乗せて、希凛がバスジャックの犯人役をやるという観客も脚本も無い小さな劇の舞台だったっていうことか。あーそれはまた金持ちって変な金の使い方するなあ、とどうでもいいことをぼんやり思う。だけどでも「え、じゃ、なんのためにこんなこと」する必要があったんだ?

「騙すためって言ったでしょ」

「なんで僕騙されなきゃいけないわけ」

「伊織の人生の中で印象に残ることをしたかったの」

「……なんで?」

「日付越えた?」

 僕の質問には答えずに、希凛は中村さんに尋ねる。左手首の腕時計をちらと横目で確認すると、

「越えましたよ。0時5分です」

「そう、ありがと」

 端的に礼を言って、僕に向き直る希凛。相変わらず眠そうな無表情。

「今日は伊織の誕生日」

「あ、うんそういえば」

 いろいろありすぎてすっかり忘れてたけど。ああ気づいたら十七歳終わってたなあ貸し切りバスの中で。

「ここで止めて」

 希凛の指示で、数十分間走り続けていたバスがゆっくり止まる。窓の外を確認して満足そうにうなずく希凛。僕も彼女の横から窓の外をのぞいてみる。希凛がこんな手の込んだまねをしてまできたかったらしいその場所は、

「……えっ、希凛、ここ、」

「今日がくるの、ずっと待ってた」

 それこそ首を長くして、ね。

 なにが起こっているのか、否なにが起ころうとしているのかわからず当惑する僕を余所に、希凛はほんの少し自虐的にそういって、くすくす笑う。

「十八歳の誕生日、おめでと」

 すっと伸ばされた色の白い手は僕の頬に軽く触れ、優しくなでる。滅多に見れない、希凛の柔らかな笑顔。

「あ、そうだ」

 なにか思いだしたのか、ぴょんっと床にしゃがみこんでまたリュックサックを開ける。

「親に内緒で来たから、これしか持ってこれなかったんだけど」

 よいしょ、と今度は大して中を漁らずに、あっさりと白い布を取り出した。どうやら中身はその白い布が大半を占めてたらしい、リュックがすっと痩せる。

「これ取ってくんのすごい大変だったんだよね、押し入れのかなり奥の方にあってさーおかげで上からものは降ってくるわタイツは伝線するわ」

 ああだからそんなにタイツぼろぼろなのか、となんだか妙に納得して、そこで気付く。

 希凛がさっと広げた白い布の正体。

 それは、ただの布なんかではなくて。

「……あ」

 本日数度目のフリーズ。そのままずるずると、この場所に来た意味とか、彼女が首を長くして今日を待っていたわけとか、僕の人生の中で印象に残ることをしたかった理由とか、それらすべてを、なんとなく理解して。

 完全に停止した僕を見て、希凛は楽しそうににやりと笑う。

「誕生日プレゼントはあたしでどうよ。ほしい?」

 挑戦的な瞳にじっと見つめられ、頭は動いていない癖に無意識的に口が動く。

「……ちょうだい」

 それを聞いて、ふふ、と満足げに頷くと、希凛はもうほとんど放心状態の僕の腕を引っ張ってバスを降りる。

 深夜零時。おごそかにライトアップされた、誰もいない教会の前。

 着ていた黒のトレンチコートを脱ぎ、まるでウェディングドレスみたいな真っ白なワンピース姿で、白い布――どこまでも透き通った純白のベールに包まれた希凛が、心から幸せそうに、ふわりと微笑む。

 それがもう、何と言うか本当に、なによりも、とびっきり可愛くて。

「けっこんしよ」

 その言葉に、黙って頷く以外のことなんて、なにもできない。





――お題:「最終バス」「きりん」「タイツ」


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